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第五章
鎖 6
僕の恋人は嘘つきだ。
足下からいっせいに波が引いていく。周囲の景色から色彩のいっさいを奪い、僕の想いをその波間に絡めとって。
遠ざかる車を見送りながらとうとつに浮かんできたのは、そんな想いだった。僕は間違いなく、彼に騙されているに違いない、と。コウが僕から離れて、物理的な距離が空くにつれて疑念が確信に変わっていく。
ガシャンと、僕とコウを繋ぐ道を断ち切るように、重い鉄柵門がスミスさんの手で再び閉ざされる。
あまりの息苦しさに、圧しかかる空気を無理に肺に押し込めるように吸いこんだ。コウの替わりに、僕がアーノルドの世界に閉じられたような心持ちがしていた。
何のことはない。僕も僕の日常に還ったのだ。生れたときから変わらずに、これが僕の毎日だった。今さら、どうということもないじゃないか。
いつまでも玄関先に佇んで、ぼんやり感傷に浸っていてもしかたない。コウが戻ってくるわけでもなし。彼は現実に還っていき、僕だけが、また、一人残されただけのこと。そうなることを望んだのは僕だ。
コウのいない現実に、安寧する自分がいる。すべてが夢で、僕は初めから一人。僕の世界にいるのは、僕を認識できないアーノルドだけ。この当然すぎる現実に慣れ親しんだ自分に安堵する。僕を意識しないでいい僕に安らぐ。いないことに。空気のような自由に――。
機械的に階段を上がり、彼の部屋へ入った。ノックも何も必要ない。風景の一部になっている彼は、つい先日までのコウのように、ベッドに寝たまま微動だすることもないのだから。
そして僕も、これまでコウにしていたように、彼のベッドサイドに置いた椅子に腰かけ彼を眺める。
僕の視界に確かに彼は映っているのに、コウとは違って心が動かされることは何もない。彼も、僕をこんなふうに認知していたのだろうか。目に映っているだけ。その辺の石ころと変わらない。
それでも以前は、彼に対して、もう少しいろんな想いを抱えていたような気がするのだ。怒りや、憎しみ、そして、あり得ない奇跡のような夢を――。アビーの人形と一緒に、僕のそんな想いも、壊れてしまったのだろうか。
コウは、彼の心は頑なに目を瞑っているだけで、ちゃんとこの身体のなかにいる、と言っていたけれど、とてもそんな気がしない。彼はここにはいないから、僕は何も感じないのではないかと思うのだ。
夜の闇に似た濃紺のシーツに呑みこまれているような、眼前に横たわる彼。
すっかり白く、薄く成り果てた髪は、かつては蜂蜜色だったそうだ。蝋人形のような温もりを感じさせない肌、苦悩を忍ばせる深い皺が額に刻まれる以前の彼は、どんな容貌だったのだろう。
アビーの愛した彼の姿を僕は知らない。僕の知るアーノルドは、初めて逢ったときからこの姿だった。スティーブの愛してやまない親友になど、僕は逢ったこともない。そしてもはやこの彼でさえ――。酷薄な唇が再び言葉を結ぶことも、閉じられた瞼が持ちあがり、水銀鏡の瞳が僕を映すこともないのだろう。
眠り続けていたときのコウは、それでもちゃんと生きていると感じさせてくれていた。けれど彼は違う。起きて、歩いて、喋っていたときでさえ、僕には銅像のように見えていた。生きた人間だと思えたことはなかった。そのくせ、狂暴に空気をねじ曲げ、威圧してくる。まさに魔術師さながらに。
けれどもう僕は、彼の狂暴な攻撃性に脅かされることなく、こうして穏やかにいることができている。むしろ、このまま目覚めないでいてほしい、とすら――。
彼のなかに僕を見ながら、目覚めるな、などと――。
これが僕の本音なのか。
真実を知ることも、認めることも拒んで、未来を夢見ることもなく、闇の底に安寧していたいのだ。
僕はまるで海面に放り棄てられたビニール袋だ。ゴミを抱えて波に遊ばれ、ただ翻弄されるがままに波間を漂う。こんな楽な考えにすぐに流されてしまう。
また、簡単にその身を喰らわせてくれる誰かと、日々を喰い潰して自分を生存させていけばいいじゃないか、と。どうしてこんなにも、僕は弱いのだろう。コウがそばにいないだけで、すべてがどうでもよくなってしまうなんて。
けれど、この僕の逃避には理由がある。僕は過去の僕を繰り返しているわけじゃない。これは死の欲動ではない。必要な、葛藤――。
始めは、ほんのわずかなことが引っ掛かっていだけだった。その引っ掛かりが、コウの温度が消えたとたん、瞬く間に僕の妄想を喰って肥え太り、息苦しいほどに圧迫してくるのだ。
コウ、きみの心のなかにいるときには、判らなかったんだ。これがきみの心だと感じていたし、信じられた。だけどこうして現実という外側から、もう一度きみの心を見つめ直すと、解らないことが多すぎる。
きみに刻まれた火焔の入れ墨。そこに絡まる緑の蔦。あれはトリスケルなんだろう? きみの入れ墨にあの蔦が現れたのは、僕がきみの夢に、初めて取り込まれた後だった。夢のなかで、僕はきみに促されて誓いをたてた。
あのときの幼いきみは、本当にきみだったの? そこに赤毛の介入があったんじゃないの? そして、これこそが奴の目的だったんじゃないのかい。
僕を媒介にして、より強力にコウを操るための――。
何よりも僕を大切に想ってくれるコウでは、アビーの人形は壊せない。奴は僕を動かすことで、自らの目的を果たそうとしたのではないだろうか。
「あなたの欲のうえで、魔術師たちの理解不能な争いが繰り広げられていたんだ。アーノルド、馬鹿ばかしいとしか言いようがないだろ」
生れる前から、この馬鹿げた戯言に巻きこまれるのが決まっていた僕の生にしろ、それでも枯れることのない、コウへの渇望にしろ――。
操っている魔術師たち、そして赤毛は、コウと僕を巻き込んで、いったい何がしたいんだ? 赤毛によって都合良く刷り込まれているコウの心だけでは、何も見えてこないということに、僕は気づいたのだ。
コウ、きみは何を知っているの? そしてどこまで、真実を隠しているの? 僕はそれが知りたい。――けれど同じだけ、知るのが嫌なのかもしれない。
足下からいっせいに波が引いていく。周囲の景色から色彩のいっさいを奪い、僕の想いをその波間に絡めとって。
遠ざかる車を見送りながらとうとつに浮かんできたのは、そんな想いだった。僕は間違いなく、彼に騙されているに違いない、と。コウが僕から離れて、物理的な距離が空くにつれて疑念が確信に変わっていく。
ガシャンと、僕とコウを繋ぐ道を断ち切るように、重い鉄柵門がスミスさんの手で再び閉ざされる。
あまりの息苦しさに、圧しかかる空気を無理に肺に押し込めるように吸いこんだ。コウの替わりに、僕がアーノルドの世界に閉じられたような心持ちがしていた。
何のことはない。僕も僕の日常に還ったのだ。生れたときから変わらずに、これが僕の毎日だった。今さら、どうということもないじゃないか。
いつまでも玄関先に佇んで、ぼんやり感傷に浸っていてもしかたない。コウが戻ってくるわけでもなし。彼は現実に還っていき、僕だけが、また、一人残されただけのこと。そうなることを望んだのは僕だ。
コウのいない現実に、安寧する自分がいる。すべてが夢で、僕は初めから一人。僕の世界にいるのは、僕を認識できないアーノルドだけ。この当然すぎる現実に慣れ親しんだ自分に安堵する。僕を意識しないでいい僕に安らぐ。いないことに。空気のような自由に――。
機械的に階段を上がり、彼の部屋へ入った。ノックも何も必要ない。風景の一部になっている彼は、つい先日までのコウのように、ベッドに寝たまま微動だすることもないのだから。
そして僕も、これまでコウにしていたように、彼のベッドサイドに置いた椅子に腰かけ彼を眺める。
僕の視界に確かに彼は映っているのに、コウとは違って心が動かされることは何もない。彼も、僕をこんなふうに認知していたのだろうか。目に映っているだけ。その辺の石ころと変わらない。
それでも以前は、彼に対して、もう少しいろんな想いを抱えていたような気がするのだ。怒りや、憎しみ、そして、あり得ない奇跡のような夢を――。アビーの人形と一緒に、僕のそんな想いも、壊れてしまったのだろうか。
コウは、彼の心は頑なに目を瞑っているだけで、ちゃんとこの身体のなかにいる、と言っていたけれど、とてもそんな気がしない。彼はここにはいないから、僕は何も感じないのではないかと思うのだ。
夜の闇に似た濃紺のシーツに呑みこまれているような、眼前に横たわる彼。
すっかり白く、薄く成り果てた髪は、かつては蜂蜜色だったそうだ。蝋人形のような温もりを感じさせない肌、苦悩を忍ばせる深い皺が額に刻まれる以前の彼は、どんな容貌だったのだろう。
アビーの愛した彼の姿を僕は知らない。僕の知るアーノルドは、初めて逢ったときからこの姿だった。スティーブの愛してやまない親友になど、僕は逢ったこともない。そしてもはやこの彼でさえ――。酷薄な唇が再び言葉を結ぶことも、閉じられた瞼が持ちあがり、水銀鏡の瞳が僕を映すこともないのだろう。
眠り続けていたときのコウは、それでもちゃんと生きていると感じさせてくれていた。けれど彼は違う。起きて、歩いて、喋っていたときでさえ、僕には銅像のように見えていた。生きた人間だと思えたことはなかった。そのくせ、狂暴に空気をねじ曲げ、威圧してくる。まさに魔術師さながらに。
けれどもう僕は、彼の狂暴な攻撃性に脅かされることなく、こうして穏やかにいることができている。むしろ、このまま目覚めないでいてほしい、とすら――。
彼のなかに僕を見ながら、目覚めるな、などと――。
これが僕の本音なのか。
真実を知ることも、認めることも拒んで、未来を夢見ることもなく、闇の底に安寧していたいのだ。
僕はまるで海面に放り棄てられたビニール袋だ。ゴミを抱えて波に遊ばれ、ただ翻弄されるがままに波間を漂う。こんな楽な考えにすぐに流されてしまう。
また、簡単にその身を喰らわせてくれる誰かと、日々を喰い潰して自分を生存させていけばいいじゃないか、と。どうしてこんなにも、僕は弱いのだろう。コウがそばにいないだけで、すべてがどうでもよくなってしまうなんて。
けれど、この僕の逃避には理由がある。僕は過去の僕を繰り返しているわけじゃない。これは死の欲動ではない。必要な、葛藤――。
始めは、ほんのわずかなことが引っ掛かっていだけだった。その引っ掛かりが、コウの温度が消えたとたん、瞬く間に僕の妄想を喰って肥え太り、息苦しいほどに圧迫してくるのだ。
コウ、きみの心のなかにいるときには、判らなかったんだ。これがきみの心だと感じていたし、信じられた。だけどこうして現実という外側から、もう一度きみの心を見つめ直すと、解らないことが多すぎる。
きみに刻まれた火焔の入れ墨。そこに絡まる緑の蔦。あれはトリスケルなんだろう? きみの入れ墨にあの蔦が現れたのは、僕がきみの夢に、初めて取り込まれた後だった。夢のなかで、僕はきみに促されて誓いをたてた。
あのときの幼いきみは、本当にきみだったの? そこに赤毛の介入があったんじゃないの? そして、これこそが奴の目的だったんじゃないのかい。
僕を媒介にして、より強力にコウを操るための――。
何よりも僕を大切に想ってくれるコウでは、アビーの人形は壊せない。奴は僕を動かすことで、自らの目的を果たそうとしたのではないだろうか。
「あなたの欲のうえで、魔術師たちの理解不能な争いが繰り広げられていたんだ。アーノルド、馬鹿ばかしいとしか言いようがないだろ」
生れる前から、この馬鹿げた戯言に巻きこまれるのが決まっていた僕の生にしろ、それでも枯れることのない、コウへの渇望にしろ――。
操っている魔術師たち、そして赤毛は、コウと僕を巻き込んで、いったい何がしたいんだ? 赤毛によって都合良く刷り込まれているコウの心だけでは、何も見えてこないということに、僕は気づいたのだ。
コウ、きみは何を知っているの? そしてどこまで、真実を隠しているの? 僕はそれが知りたい。――けれど同じだけ、知るのが嫌なのかもしれない。
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