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第五章
鎖 7
集合的無意識で知り得たコウの世界をいくら理解しようと試みても、僕にはどうしたって了解不能だ。本来であれば共有不可能なはずの世界に突然放り込まれ、理屈も何も通らないわけの判らない規則に従わされ、ゲームを強要されるようなものだった。結果、不可解さへの怒りと不快がつのるばかりだ。そこに何らかの法則性さえ見いだせれば、ゲームに参加することを厭わずにいられるのかもしれないが。このゲームの規則を決める側に、奴はいるのだ。負けの見えているゲームに参加させられることは、僕にとって屈辱でしかない。
そこに確かにコウと心を重ね合えた歓びがあったとしても、この感覚は変えようがない。そして今は、弊害の方が比重を増して僕の心を圧迫している。
でもだからといって、こんな世界はおかしい、これは妄想的世界にすぎない、と反証をつきつけてコウを傷つけ、追い詰め、彼の世界を壊してしまうことの危険性も充分すぎるほど解っている。
僕をいたぶって笑っているのは赤毛であって、断じてコウではないのだ――。
奴こそが、コウの病巣だと言っていいだろう。その病巣のなかに、コウの安心がある。そして、それに嫉妬する僕がいる。
そんな僕側の想いだけじゃない。コウ自身が、彼の妄想世界に僕が参加することを良しとしないのだ。僕にとってかなりの負担と我慢を強いられることを慮ってのことだろう。仮にコウが望むなら、おそらく僕だって我慢できないわけではないのに。
コウは、自身の病識がないわけではなく、漠然とした病感はあるのだと思う。
コウは二重見当識の世界を生きている――。
これがバニーとの一致した見解だ。ハムステッドでの日常、そして赤毛の牛耳る妄想世界。コウは、現実と妄想世界を行き来する二重生活を送っていたのだろう。妄想、そして僕のいる現実の二つの異なった認識世界の狭間を揺蕩うように。
異なった世界の重なる多重構造の世界に、コウは何の疑問も抱かないのだ。この信念は、彼の幼少期の養育で彼の確固たる基盤となってしまっている。彼にとって間違っているのは彼自身ではなく、多重構造を認められない僕、あるいはこの現実の認識のあり方だろう。現実世界は自分を受け入れられない、これもまた彼の信念の一つ。コウは本当の自分を巧妙に隠しながら、この二重見当識の状態を保ったまま暮らしていたのだ。
そのバランスがここに来て、長い眠りによって一気に妄想世界に傾いてしまった。僕をも巻き込んで。
――きみの存在が僕の現実なんだよ。
けれど、僕こそがきみを現実に結びつける命綱でもあるのだ。ラプンツェルの髪の毛のように、僕のトリスケルは閉じられた世界にいるきみに繋がることができる媒介であり、一つの現実なのだろう。
だからこそ、僕はきみに取り込まれる僕になってはいけない。
そして同じ理由で、二つの世界を往来することで精神の安定を保っているきみから、赤毛を切り取ることもできない。奴もまたきみを内的世界へつなぐ媒介だ。おそらくきみの実在感は、いまだ内的世界でしか得られることはないのだろうから。
どれほどきみを理解し共感したいと思っても、きみの自我は病的手段のうえに、とても微妙なバランスで築かれていて。
それはわずかな刺激で崩れ堕ちてしまうとても脆いもので――。
意識の底では、きみの慣れ親しんだ闇が手ぐすね引いてきみの落下を待ち受けている。
「まるでコウは、あなたの世界をそのまま引き継いだようじゃないか」
眼前で眠るアーノルドを眺めながら、そんな呟きと苦笑が漏れていた。
心の病に洋の東西はない、とはよく言ったものだと思う。コウに文化の違いを持ちだされた時には、どうなることかと思ったけれど――。
スティーブの言う通り、僕はコウのなかにアーノルドを求め、見いだし、僕を認めさせたかったのかもしれない。その自覚は、僕にしてもあったのだし。だから、そんな僕を感じとったコウが、僕のためにアーノルドの世界を引き受けてくれたのではないか、とそんな気さえしてくる。
だが、僕たちのいた集合的無意識のなかでコウが知覚したものは、おそらくまだ全てが僕に語られているわけじゃないはずだ。そして、コウ自身が生みだしているはずの妄想も――。
コウは変わった。確かに変わっている。おそらくあの内的世界で、僕のために何か大切なものを手放したのだ。
それは彼の実在なのか、現実なのか――。
日常に戻ってこられた当初の喜びが落ち着いてくるにつれ、際立ってきたコウの透明度。実体を失ってしまったとしか思えないコウの存在の薄さに、僕は混乱し、どう触れていけばいいのかまるで判らなくなった。バニーに頼らずにはいられないほどに。
なりふりかまわず僕自身を投げだしたってかまわない。それほどコウを喪うことが、僕は、これまで以上に怖いのだ。
*******
【心理学用語】(ウィキペディアより)
「病識」……本人が妄想であるとは自覚しない(病識がない)。
「病感」……漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる病感がある)。
「二重見当識」……妄想世界と現実世界が心の中で並立してその双方を行き来する状態。
そこに確かにコウと心を重ね合えた歓びがあったとしても、この感覚は変えようがない。そして今は、弊害の方が比重を増して僕の心を圧迫している。
でもだからといって、こんな世界はおかしい、これは妄想的世界にすぎない、と反証をつきつけてコウを傷つけ、追い詰め、彼の世界を壊してしまうことの危険性も充分すぎるほど解っている。
僕をいたぶって笑っているのは赤毛であって、断じてコウではないのだ――。
奴こそが、コウの病巣だと言っていいだろう。その病巣のなかに、コウの安心がある。そして、それに嫉妬する僕がいる。
そんな僕側の想いだけじゃない。コウ自身が、彼の妄想世界に僕が参加することを良しとしないのだ。僕にとってかなりの負担と我慢を強いられることを慮ってのことだろう。仮にコウが望むなら、おそらく僕だって我慢できないわけではないのに。
コウは、自身の病識がないわけではなく、漠然とした病感はあるのだと思う。
コウは二重見当識の世界を生きている――。
これがバニーとの一致した見解だ。ハムステッドでの日常、そして赤毛の牛耳る妄想世界。コウは、現実と妄想世界を行き来する二重生活を送っていたのだろう。妄想、そして僕のいる現実の二つの異なった認識世界の狭間を揺蕩うように。
異なった世界の重なる多重構造の世界に、コウは何の疑問も抱かないのだ。この信念は、彼の幼少期の養育で彼の確固たる基盤となってしまっている。彼にとって間違っているのは彼自身ではなく、多重構造を認められない僕、あるいはこの現実の認識のあり方だろう。現実世界は自分を受け入れられない、これもまた彼の信念の一つ。コウは本当の自分を巧妙に隠しながら、この二重見当識の状態を保ったまま暮らしていたのだ。
そのバランスがここに来て、長い眠りによって一気に妄想世界に傾いてしまった。僕をも巻き込んで。
――きみの存在が僕の現実なんだよ。
けれど、僕こそがきみを現実に結びつける命綱でもあるのだ。ラプンツェルの髪の毛のように、僕のトリスケルは閉じられた世界にいるきみに繋がることができる媒介であり、一つの現実なのだろう。
だからこそ、僕はきみに取り込まれる僕になってはいけない。
そして同じ理由で、二つの世界を往来することで精神の安定を保っているきみから、赤毛を切り取ることもできない。奴もまたきみを内的世界へつなぐ媒介だ。おそらくきみの実在感は、いまだ内的世界でしか得られることはないのだろうから。
どれほどきみを理解し共感したいと思っても、きみの自我は病的手段のうえに、とても微妙なバランスで築かれていて。
それはわずかな刺激で崩れ堕ちてしまうとても脆いもので――。
意識の底では、きみの慣れ親しんだ闇が手ぐすね引いてきみの落下を待ち受けている。
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眼前で眠るアーノルドを眺めながら、そんな呟きと苦笑が漏れていた。
心の病に洋の東西はない、とはよく言ったものだと思う。コウに文化の違いを持ちだされた時には、どうなることかと思ったけれど――。
スティーブの言う通り、僕はコウのなかにアーノルドを求め、見いだし、僕を認めさせたかったのかもしれない。その自覚は、僕にしてもあったのだし。だから、そんな僕を感じとったコウが、僕のためにアーノルドの世界を引き受けてくれたのではないか、とそんな気さえしてくる。
だが、僕たちのいた集合的無意識のなかでコウが知覚したものは、おそらくまだ全てが僕に語られているわけじゃないはずだ。そして、コウ自身が生みだしているはずの妄想も――。
コウは変わった。確かに変わっている。おそらくあの内的世界で、僕のために何か大切なものを手放したのだ。
それは彼の実在なのか、現実なのか――。
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なりふりかまわず僕自身を投げだしたってかまわない。それほどコウを喪うことが、僕は、これまで以上に怖いのだ。
*******
【心理学用語】(ウィキペディアより)
「病識」……本人が妄想であるとは自覚しない(病識がない)。
「病感」……漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる病感がある)。
「二重見当識」……妄想世界と現実世界が心の中で並立してその双方を行き来する状態。
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