夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第五章

風 6

「解き放つ?」
 バニーが怪訝そうに眉根をよせる。
「何を?」
 僕は彼の言葉を継ぎ、赤い羽根の仮面からのぞくコウの瞳を見つめて問い質した。

 コウは澄んだ琥珀色の瞳を大きく見開いて、じっと僕を見つめ返している。だがその唇は閉じられたままだ。
 ぴくりと何かに反応したように彼の視線が脇に逸れた。その視線の先を追う。コウが見ているのは赤毛じゃない。その背後で呼吸するかのように大きく伸縮を繰り返している金色の網だ。

「アルは何だと思ってる?」

 コウは目線を僕に戻して逆に問いかけてきた。感情の読めない瞳。コウのなかにこれまであったはずのどんな揺らぎも読み取れない。僕はもう一度赤毛に視線を据えた。奴に魅入っている観客たちの傍まで寄って、彼ら越しに大広間全体に目を走らせる。

 壁や天井だけじゃない。大勢の架空フィクションの仮装者たちが並び立つ床の上にも、金色の蔦が絡み合いながらはびこっている。それはアーノルドの館の壁を包む白薔薇アイスバーグの蔓のようでもあり、いばら姫の城を守るいばらの檻のようでもあり、肌では感じられない熱を放ちながら脈打っている、毛細血管のようでもあって――。

 とくに意識したわけでもないのだが、「子宮。あるいは、卵……」と、そんな印象が口をついて出ていた。

 この閉じられた空間の中央にいる赤毛のすぐ足下には、さらに巨大に膨らんだ細かな光を爆ぜる半透明のドラゴンが、とぐろを巻いてわだかまっている。それは中空を照らす赤い光を濾過する空ろな筒状の膜のようにも見えるのだが、頻繁に、横に切れた口を大きく開きあくびして、激しく焔を噴き上げるのだ。退屈しているように首を大仰に振って――。

「まさか――、あれが奴の本体?」

 コウを振り返る。本当にそんなことを考えていたわけではない。ふと思いついただけだ。だが同時に、地の精霊グノームと交わした約束が、僕の脳裏を掠めていた。彼の面影を浮かべただけで、皮膚がざわざわと騒めきたつようだ。

 
「ただのイメージだよ。ここにいる全ての人のね」

 コウは淡々とした口調で応えている。視線はペンダントライトの上にいる赤毛に向けたままで。

「あれを、解き放つの?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」

 そのとき突然に、きゃあ――、と甲高い悲鳴が階下から湧きあがった。どよめきが恐怖の叫びに変わる。階上にいた誰もが一斉に手摺りから身を乗りだして階下を覗き下ろした。

 燃えている。一瞬のうちに大広間を逃げ惑う誰もが、赤い焔に包まれて燃えているのだ。だが、そのぞっとする地獄のような光景は、すぐにどっと笑い声に転じ、拍手の波に流された。
 階下にいる連中は、自らを包む焔が決してその身体を焼き焦がすことはないと気づいたのだ。彼らは奇声をあげ、面白がって狂ったように腕を振り回し、踊り始めた。

 その様子を眺めているこちら側からすれば、まるで正気の沙汰には見えない。

 風に煽られているかのように、高く、低く、伸びあがる焔に包まれた彼らから、小さな焔が切れ切れに弾かれては焔の小鳥に変じていく。クルクルと円を描いて拡散しながら飛び交い、壁を、天井をその焔で舐めていく。チラチラと燃え盛る火の鳥たちはやがて、このフロアにまで届いて――。

 瞬く間に誰もがそれに触れたがり、自ら焔に包まれるために追いかけていた。

 僕は、呆気に取られてそんな彼らを眺めていた。ふと、この饗宴に参加しようとはしないバニーの厳しい眼差しに気づき、ピシリと鞭で打たれたかのように意識が醒めた。フロアに目を走らせ、マリーの背を守るように腕で抱え、バルコニーへと退いているショーンの後ろ姿を見つけて安堵する。


「いったい、何が起こってるの?」
 僕はバニーに縋りつきたい気持ちを含ませた視線を向け、答えを求めた。と、コウに強く腕を引かれる。「アル」、とコウとは思えないような咎めだてる声音が、その唇から零れ落ちる。

「集団催眠だな。彼のいるあのペンダントライト、あれを振り子として用いて見ている者たちを催眠状態に導いたんだ」

 バニーは厳しい表情を崩さないまま、傍らに並び僕の肩に手をかけた。この場を離れるように促しているのだ。

「そんなんじゃない」

 怒りを抑えきれない低いコウの声が、バニーに異議を唱える。

「今日の会場がこの場所なのも、今、僕たちがここにいるのも、ここに集まっている人たちも、ちゃんと意味があるんだ」
「意味? それは、彼の行為には目的があるってことだね?」

 バニーはあくまでも落ち着いた態度と柔らかな口調で、コウを見つめている。コウの手が、僕の腕を痛いほど強く握りしめている。その腕を彼の背後に回し、彼の頭を抱いてぐいと引き寄せた。と同時にバニーに目配せする。彼は軽く頷いてくれた。

「コウ、こっちへ。巻きこまれると危険だ」


 バルコニーには向かわず、壁で仕切られている控室に続く廊下へと足を向けた。ちらりと顧みたバニーは、その場を動かず赤毛の挙動を見張っている。僕の背中へと腕を回し、きゅっとマントの布を握っているコウは、怒りで全身を強張らせているようだ。

 コウが、この狂乱を引き起こしている赤毛にではなく、バニーの言い分に怒っているなんて――。



「きみを誰にも渡したくないんだ。きみのためには何が正しいのか、解っていても、僕は――」

 周囲にひと気が途絶えたとたんコウは僕に抱きついて、そう訴えかけていた。





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