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7.刻まれた印
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「なんで俺、ここにいるわけ?」
まるで、切り落とした爪のような薄い月――。眼前に迫る尖った三日月をびっくり眼で見つめながら、ゲールは呟いた。
テントウ虫は、未来の伴侶のもとへは届かずに、ここへ叩き落とされてしまったのだろうか――。
だが、前回とは違ってウサギの姿はない。ここは魔女の悪夢のなかではないのかもしれない。
ゲールは混乱したまま辺りを見回し、小高い丘を、そこにそびえる塔を、上空に浮かぶ赤い三日月を眺める。月は、小舟のように揺らいでいる。立ちこめてきた霧が瞬く間に深まっているのだ。辺りを茜色の月光に染め、輪郭をぼわりと奪っていく。
とその時、煙る霧のなかから声が聞こえた。誰かに話しかけ、そして答えているような。その声音は優しげで、たんたんと静かだ。魔女ではない、とゲールは直感する。
自分と同じように、異界に迷いこんでしまったのだろうか。それなら――、とゲールはそろそろと声のする方へ踏みだした。だが、幽かに届くその声との距離は、一向に縮まらない。
「きっとどこかで――」
冷やりとした霧を押し流しながら、
「重なる瞬間があるはずだよ」
風が、
「きっと――、判るから――」
そんな切れ切れの声を、ゲールのもとへ運んできた。
「きみ! きみが、俺の未来の伴侶なの?」
ゲールはその声に向かって叫んでいた。疾風が、重く立ち込めた霧を薄らと追いやり、茜色の霧のなかから、黒髪がふわりと振り返る。
でもその顔は不思議そうな表情をみせただけで、また濃い霧のなかへと消えていった。
「待って! 俺のテントウ虫、受け取ってくれた?」
ゲールの声は、霧のなかに虚しく吸いこまれていくばかりで――。
「待って、きみ――!」
「おまえの、大切な人は、わたし――」
耳元に生臭い息がかかり、掠れた声が囁く。
「ゲール、わたしの、かわいい、子――」
手首に爪が喰いこんだ痛みに、ゲールはつっと顔を歪める。
「放せよ!」
霧のなかに溶けてしまったように姿は見えないのに、その握力はゲールの腕をへし折らんばかりだ。おまけにまた、しゅるしゅると枝葉が伸びだし彼を縛り拘束しようとしている。
「俺の大切な人は、あんたじゃない!」
一瞬振り向いてくれた可憐な顔が、眼裏を通りすぎる。体に巻きつく枝に呼吸を塞がれ、意識が朦朧としていた。
ゲール、ゲール、ゲール――。
誰かに呼ばれているような気がする。
大風――。
風が空気を切り裂く。霧を蹴散らし薙ぎ払う。
ピシリッ、とその先端がゲールの頬をしなる鞭のように叩いた。焼けるような痛みに、失いかけていた意識を取り戻し、ゲールは頬に手を当てた。拘束は解かれていた。
三日月のかかる丘ではないどこか、天も地も右も左もない中空にゲールはいた。風に支えられて――。
「助けてくれたの――」
「ありがとう!」
「どういたしまして。分かってるんなら、さっさと起きなさい! 遅刻するわよ!」
ゲールの母親が、呆れ顔で彼を見おろしている。その頭上には見慣れた天井。カーテンを開け放った窓から差し込む朝の光が眩しくて、ゲールは寝ぼけ眼を眇めながら慎重に辺りを見回した。
本当に戻って来られたの――? 夢の中で、夢を見てるんじゃ……、と半信半疑で。
「あら、」と彼女はゲールの片頬を擦り、くしゃりと笑った。「ひどいわね。どんな寝方をしたのよ、こんな痕になっちゃって。まるでタトゥーでも入れたみたいじゃない」
「タトゥー?」ぼんやりと呟いて、ゲールは熱を持った左頬に手をやった。
まるで、切り落とした爪のような薄い月――。眼前に迫る尖った三日月をびっくり眼で見つめながら、ゲールは呟いた。
テントウ虫は、未来の伴侶のもとへは届かずに、ここへ叩き落とされてしまったのだろうか――。
だが、前回とは違ってウサギの姿はない。ここは魔女の悪夢のなかではないのかもしれない。
ゲールは混乱したまま辺りを見回し、小高い丘を、そこにそびえる塔を、上空に浮かぶ赤い三日月を眺める。月は、小舟のように揺らいでいる。立ちこめてきた霧が瞬く間に深まっているのだ。辺りを茜色の月光に染め、輪郭をぼわりと奪っていく。
とその時、煙る霧のなかから声が聞こえた。誰かに話しかけ、そして答えているような。その声音は優しげで、たんたんと静かだ。魔女ではない、とゲールは直感する。
自分と同じように、異界に迷いこんでしまったのだろうか。それなら――、とゲールはそろそろと声のする方へ踏みだした。だが、幽かに届くその声との距離は、一向に縮まらない。
「きっとどこかで――」
冷やりとした霧を押し流しながら、
「重なる瞬間があるはずだよ」
風が、
「きっと――、判るから――」
そんな切れ切れの声を、ゲールのもとへ運んできた。
「きみ! きみが、俺の未来の伴侶なの?」
ゲールはその声に向かって叫んでいた。疾風が、重く立ち込めた霧を薄らと追いやり、茜色の霧のなかから、黒髪がふわりと振り返る。
でもその顔は不思議そうな表情をみせただけで、また濃い霧のなかへと消えていった。
「待って! 俺のテントウ虫、受け取ってくれた?」
ゲールの声は、霧のなかに虚しく吸いこまれていくばかりで――。
「待って、きみ――!」
「おまえの、大切な人は、わたし――」
耳元に生臭い息がかかり、掠れた声が囁く。
「ゲール、わたしの、かわいい、子――」
手首に爪が喰いこんだ痛みに、ゲールはつっと顔を歪める。
「放せよ!」
霧のなかに溶けてしまったように姿は見えないのに、その握力はゲールの腕をへし折らんばかりだ。おまけにまた、しゅるしゅると枝葉が伸びだし彼を縛り拘束しようとしている。
「俺の大切な人は、あんたじゃない!」
一瞬振り向いてくれた可憐な顔が、眼裏を通りすぎる。体に巻きつく枝に呼吸を塞がれ、意識が朦朧としていた。
ゲール、ゲール、ゲール――。
誰かに呼ばれているような気がする。
大風――。
風が空気を切り裂く。霧を蹴散らし薙ぎ払う。
ピシリッ、とその先端がゲールの頬をしなる鞭のように叩いた。焼けるような痛みに、失いかけていた意識を取り戻し、ゲールは頬に手を当てた。拘束は解かれていた。
三日月のかかる丘ではないどこか、天も地も右も左もない中空にゲールはいた。風に支えられて――。
「助けてくれたの――」
「ありがとう!」
「どういたしまして。分かってるんなら、さっさと起きなさい! 遅刻するわよ!」
ゲールの母親が、呆れ顔で彼を見おろしている。その頭上には見慣れた天井。カーテンを開け放った窓から差し込む朝の光が眩しくて、ゲールは寝ぼけ眼を眇めながら慎重に辺りを見回した。
本当に戻って来られたの――? 夢の中で、夢を見てるんじゃ……、と半信半疑で。
「あら、」と彼女はゲールの片頬を擦り、くしゃりと笑った。「ひどいわね。どんな寝方をしたのよ、こんな痕になっちゃって。まるでタトゥーでも入れたみたいじゃない」
「タトゥー?」ぼんやりと呟いて、ゲールは熱を持った左頬に手をやった。
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