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一章
14.拒絶
しおりを挟む期待はしないと決めたのに、政宗さんは本当に来た。
上気した顔で息を荒げながら、本当に必死に我慢していたんだろう。
「はるき……ごめん……一回だけ、お願い」
「いいですよ。入ってください」
一人で耐えるの、苦しかったんだろうな。
組の人にバレないために病院とかドラッグストアにも行けなかったんだろうし、他のΩに話を聞いたわけじゃないけど、政宗さんは薬の説明書に書かれている持続時間より薬の効果が切れるのも早い。
症状が重い体質なのかもしれない。
「よく一人で耐えましたね」
「はるき……キスして、いっぱいキスして? すきだよ……だいすきだよ……」
「俺も好きですよ」
政宗さんに好きだと言いたかった。好きだと言って抱きしめたかった。
両思いだけど恋人にはならないし番にもならない。連絡先も知らないし、苗字も知らない。家に連れていかれたから、苗字はきっと調べれば分かるんだろう。でも調べなかった。
発情期の時だけの関係。
それでもいいと思ってしまった。それでもいいから政宗さんを愛したいと思ってしまった。
いつか終わりがくる。曖昧で危うい関係に俺たちは戻った。
発情期の時だけはラブラブなカップルのように過ごす。なんだか滑稽で、だけどとても幸せだ。
俺はバイトを適度に減らして、料理の研究も再開した。
あのバイトを詰め込んだ日々のおかげで思ったより金が貯まったのは嬉しい誤算だ。
「田村くん最近は元気そうね」
「え?」
「夏辺りからずっと疲れた顔していたから」
「すみません」
大将にも女将さんにも、俺が無理して働いていたことはバレていたみたいだ。
そりゃあそうか。一時期は本当にボロボロになるまで働いていたからな。
大学も四年になって五月の発情期を一緒に過ごし、夏休みが近づいた日に事件は起きた。
ピンポーン
ガターン
何かが倒れる音がして慌てて出てみると、政宗さんが倒れていた。
「ごめん。遥希。一瞬だけ」
「入って」
予期せぬ発情期でも来たのかと思って、慌てて抱えて玄関に入ると、ポタッポタッと血が滴り落ちた。
「え? 血!?」
「ごめん。ちょっと下手うって、会いたかった」
流れる血の元を辿ってみると、政宗さんの二の腕から出血しているように見えた。
スーツを脱がせてシャツを脱がせようとすると政宗さんは嫌がった。
あぁ、そうだった上半身は見せたくないんだっけ。
「シャツは脱がさないんで、袖切ってもいいですか?」
「いいよ」
「分かりました」
袖をハサミで切ると、傷は深くないみたいに見えた。とりあえず絆創膏を何枚か貼って包帯なんて無いから綺麗なタオルを巻いた。
こんなんでいいのか? 病院とか、でも外に敵がいたら? 俺も巻き込まれたり……
「襲撃」というニ文字が頭に浮かんで鼓動が早くなる。
今は現代で戦国時代ではない。普通に暮らしていたら襲撃なんかあるわけないんだが、政宗さんの生きている世界ではあるのかもしれないと思ったら急に恐ろしくなった。
ここは日本だ。現代で、俺は一般人。組の事務所でもないこんな安いアパートに来るわけない。大丈夫だ。自分に言い聞かせて深呼吸を繰り返す。
ふー
幸いタオルに血が少し滲んでも、流れ落ちるほどの量ではなくて、すぐに血は止まったみたいに見えた。
「病院とか……」
「大丈夫だ。血は止まったし」
「そうですか。でも倒れてましたよね?」
「それは寝不足だ。ここ三日まともに寝てなかった」
「じゃあとりあえず寝てください」
「ありがとう」
政宗さんをベッドに寝かせて、寝息が聞こえてくるとやっと冷静になれた。
血を流して倒れている姿なんて普通じゃない。
この人はヤクザなんだと思い知った。
発情期の時だけはラブラブなカップルなんて、そんな可愛いものじゃない。
政宗さんがここに逃げてきたことが敵にバレたらと思うと怖くなった。恐る恐る玄関の扉を開けて誰もいないことを確認する。
痕跡を消すために、外に出て血の跡がないかを探し、ペットボトルの水を撒いて一滴だけの僅かな血痕を流した。
玄関の外から大通りまで道を辿っても血痕は無かった。キョロキョロと見渡して歩いたけれど、怪しい人影は確認できなかった。俺の行動の方が怪しさ満点だが、それはもう致し方ないことだ。命には代えられない。
ふぅ。これなら敵? がうちまで辿り着くことはないだろう。
政宗さんは夜まで起きなかった。何日も寝てないなら仕方ないか。
「ごめん、遥希」
「ご飯食べますか?」
「うん。でもいいのか?」
「いいですよ」
料理を前にしても、いつもの甘くて温かい空気が漂う俺たちの食卓ではなかった。
いつもの「いただきます」以降は無言で食べ進めて、食べ終わると政宗さんは口を開いた。
「美味しかったよ。ありがとう」
「いえ」
「遥希、ごめん。怖かったよな?」
「そうですね。ここに敵が来るんじゃないかと、大通りまで血痕を確認しに行きました。
俺は抗争とかが身近に無かったので、どれくらい危ないことなのかも分かりません。でも、巻き込まれたら怖いと思いました」
これは正直な気持ちだ。こんなこと隠したって仕方ないから、俺は全部隠さずに言った。
「そりゃあそうだよな。怖い思いさせてごめん。もう帰るから」
「大丈夫なんですか?」
「通りに出たらすぐに迎えを呼ぶから大丈夫だ」
俺は帰ると言った政宗さんを止めることができなかった。政宗さんとの関係が、これで本当に終わってしまうと分かっていても、恐怖の方が勝った。
知らないというのは、それほどに恐怖を煽るものだった。
本当のところは分からない。危険があったのか無かったのか。そんなことを考える余裕もなかったし、政宗さんにそれを聞くこともしなかった。俺は隠さず本心を伝えたように見えて、自分の保身を一番に考え、政宗さんを拒絶して、大切なものを切り捨てた。
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