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一章
15.誤算(政宗side)
しおりを挟む「おい、けじめは付けさせたか?」
「はい!」
「ならいい」
「暫くあのアパート周辺を見回れ」
「手配してます」
もう遥希に会う気はない。
遥希の部屋を出ると俺はすぐに迎えにきた車に乗り込み、後部座席のシートに身を沈めて目を閉じた。
当たり前だが遥希を巻き込む気なんてなかった。大切な人を守れたという安堵と、恐怖に突き落とした罪悪感。何より遥希の怯えた目と、一向に交わらない視線。
こんな俺のことを好きだと言ってくれた優しい眼差しは、どこにもなかった。
とうとう終わってしまった。
あの甘く優しい日々が、脆く今にも崩れそうな愛しい時間が、終わってしまった……
ことの発端は、いつも俺を目の敵にしている分家の奴が、俺のスマホに遥希の写真を送りつけてきたところから始まる。
奴の名前は杉田。すぐに下の奴らに杉田を探し出して連れてくるよう言った。
いつだ? いつ遥希のことがバレた?
遥希とは外で会ったことはない。一度俺が仕事中に見られて、説明のために連れ帰った時だろうか?
俺自身、遥希がどこの大学に通っているかも知らなかったし、バイト先の料理屋も調べたことはなかった。お互いの素性は調べない。それが俺と遥希の間にある暗黙のルールだったからだ。
万が一にも遥希が狙われることなどあってはいけないと、すぐに遥希の部屋に行った。しかしインターフォンを押すことはできなかった。
遥希が狙われたなど話せるはずがない。遥希はカタギで、俺とは違う明るい世界で生きている人だからだ。
怖い思いはさせたくないし、何より嫌われるのが怖かった。
遥希の身が心配で、下の奴らに杉田を探させている間、俺は遥希のアパートを見張った。ストーカーのように大学にもバイト先にもこっそり付いて行って周辺を見回った。
遥希の周りに怪しい影は確認できず、俺を動揺させるための単なる脅しなのかと思い始めていた。
奴を捕まえたと連絡があり、俺は急いで駆けつけると杉田をボコボコにした。久々に感情的に暴力を振るったと思う。
「お前が気に入らねーんだよ!」
「俺に直接来い! カタギの奴に手を出すな!」
「あいつ無事かな?」
「何?」
俺は杉田の言葉に動揺して、一気に血の気が引いた。
その瞬間を待っていたように杉田は小さいおもちゃのようなナイフで俺の腕を刺した。
別にそんなことはどうでもいいんだが、さっきの言葉は聞き捨てならない。
下の奴らに「杉田から徹底的に情報を引き出すよう、息さえしていれば骨など何本折ってもいいし内臓を抉ってもいい」と伝えて、俺は急いで遥希のアパートに向かった。
遥希どうか無事でいてくれ……
遥希のアパートに着く前に電話があって、杉田は俺を動揺させるために言っただけで、カタギの男なんかに興味はないとのことだった。
遥希の写真も、遥希を組から帰した時に撮って、何かの時に使えるだろうと持っていただけだと。
しかし遥希の無事を確認するまでは安心できなかった俺は、遥希のアパートを訪ねた。
最近、遥希のボディーガード? いや、ストーカーをしていて寝てなかったんだった。だからまともな思考ではなかった。
遥希の無事を確認できたら、安心して急に眠気が襲ってきた。無事を確認できたらすぐに帰るつもりだったのに、ボーッとしたまま遥希に怪我の手当をされ、そして遥希の部屋で夜まで寝てしまった。
起きると遥希は飯を作ってくれて一緒に食べた。ずっと難しい顔をしている遥希に何も言えなくて、無言の食事となった。
当たり前だが、血を流したまま来たのは失敗だった。せめて手当てをして破れた服を着替えて来たらよかった。怖いよな。血を流しながら訪ねてくるなど。
「遥希、ごめん。怖かったよな?」
「そうですね。ここに敵が来るんじゃないかと、大通りまで血痕を確認しに行きました。
俺は抗争とかが身近に無かったので、どれくらい危ないことなのかも分かりません。でも、巻き込まれたら怖いと思いました」
俺が怪我の手当をせずに来たせいで、遥希は血痕を辿って俺を追って危ない奴が来るのではと心配していた。
大通りまで確認しに行くなど、余程怖かったんだろう。来るべきではなかった。
もう、遥希と関わってはいけない。俺と遥希は違う世界で生きているんだから。
「そりゃあそうだよな。怖い思いさせてごめん。もう帰るから」
「大丈夫なんですか?」
「通りに出たらすぐに迎えを呼ぶから大丈夫だ」
連絡先さえ交換していれば、電話で無事を確認できたのに。そうすれば、遥希に怖い思いなんてさせずに済んだのに。
今となってはもう……
いや、俺たちの関係は初めから破綻していたんだ。気持ちは確かにあったが、気持ちしかなかった。他に確かなものなど何一つとして無かった。いつだって怖かった。いつ消えてしまうのかと。不安定な足場に片足で立っているような、そんな関係だった。
俺と遥希を繋ぐ糸は、もう切れてしまったんだ。
しかし、よりにもよって怯えさせて終わるなど……
せめて最後は遥希の優しい笑顔が見たかった。別れの言葉も紡げなかった。
今までもらった幸せな時間に、ありがとうも言えなかった。
遥希、ごめん。遥希の安全だけは守るから。
関わってごめん。好きになってごめん。
俺にできるのは、遥希に対する謝罪を心の中で繰り返すことだけだ。
結局杉田は、本当に遥希のことを調べたりはしていなかった。
俺の腕に傷を負わせたことで満足して、もうしないと泣きながら詫びたそうだ。
「息さえしていれば骨など何本折ってもいいし内臓を抉ってもいい」と言った俺の言葉と、脅しではなく本気で言っている姿に怖くなったらしい。
お前はそれで満足でも、俺はお前を恨む。
遥希を失ったんだからな。
いや、違うか。これは単なるきっかけだった。世の中にはどうにもならないことがある。そんなの分かっていたはずなのに……
夏の虫が鳴いている。生暖かい風が吹く夜中、渦巻きの蚊取り線香の香りがして夏を感じる。
中庭に置いたベンチに座って庭を眺めながら、味がしない酒をちびりちびりと喉へ流し込んだ。
地面には空き瓶がいくつも転がっていて、もう何杯飲んだか分からない。
隣に誰かの気配は感じていた。こんな風に音も立てずに近付いてくる奴を俺は一人しか知らない。俺が子どもの頃から面倒を見てくれている十歳年上の片倉だ。
「若、久しぶりの傷が痛みますか?」
「別に」
「そうですか。あのカタギの彼と何かありましたか?」
「片倉、何が言いたい?」
「若があんなに動揺する姿など、初めて見ました」
「…………」
確かに自分でも周りが見えていなかったと思う。腕を刺されて傷の手当てもせず遥希の元に向かってしまうくらいにはおかしかった。
「ご両親が亡くなられた時でも涙一つ流さなかったあなたが泣くなど」
「は?」
そう言いながらハンカチを差し出され、頬に手をやると濡れていた。
俺は泣いてたのか? この俺が? 精神が不安定になる発情期でもないのに?
…………あぁ、そうだ。
認める。俺は本気で遥希のことを好きだった。もう届かない。それが悲しくて悔しいんだ。
初めて恨んだ。自分がこの家に生まれたことを。俺もカタギの一般家庭に生まれていたら、遥希と幸せに暮らす未来があったのではないか。
そんなどうにもならない妄想に自分を当てはめて嘆くくらい好きだった。
心は動かせたとしても、決して手に入れることはできない人。せめてこの想いだけは無くならないよう、彼を好きだった日々が消えてしまわないよう、しっかりと胸に刻み込んだ。
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