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79 ー蔵王ー
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翌日。
譲治と依子は時差ボケなのか、単に疲れすぎなのか、寝たのかどうかわからない微妙な具合の頭で、一応遅めの朝に起きて、麻子の用意した朝食を食べる。
両親2人にお願いして、無事結婚届の証人欄にサインをもらった。
「ブダペストの大使館に提出するから、無事出せたら連絡するわね。」
依子はそう言って大事に書類をしまう。
今日は軽く周辺観光をすることにした。
「山形市周辺と言えば蔵王とか山寺だけど、譲治くんはご希望ある?
ちなみに、どっちも登るからけっこう疲れると思うよ。」
「そうですね~。
僕あまり知らないんですけど、景色が雄大な方を見てみたいかな。」
「じゃ、蔵王のお釜見に行こう。車で上まで上がれるし。」
依子はそう言うと、父親の車のキーを借りた。
「それじゃ、行ってきますね。
お昼はどっかで食べて、夕方くらいに帰ると思う。」
いってらっしゃい、と言う両親に声をかけて出かけた。
「僕が運転しましょうか?」
譲治が申し出てくれる。
「うーん、それの方がいいかもだけど、私もたまには運転しないとできなくなっちゃうから。譲治くんは監視してて。」
依子は手際良く車を発進させた。
「依子さんの運転初めてみた。 なんか女性が運転するの見るの新鮮かも。」
「お母さんも美智子ちゃんも運転しない?」
「ウチは街中なんでね。
公共交通機関が発達してるし、運転はもっぱら父専任です。」
なるほど、と依子はクールに答える。
「眼鏡の依子さんがまず新鮮だし、そうやって運転してる姿がカッコよくて、僕はまた惚れ直しました。」
譲治はそう言うと、依子の太腿に手を這わす。
「こらこら。私は久しぶりの運転でめっちゃ真剣なんだから。
死にたくなかったらお利口にしててね。」
はーい、と譲治はおとなしく手を引っ込める。
「依子さんは、長距離運転もけっこうしてたんですっけ?」
「そうよ。
私みたいなクラフト系の仕事してるとさ、遠くのイベント出店するのに車に荷物満載して出かけなきゃなのよ。
そうやって全国渡り歩いてる人たくさんいるのよ。
私も車中泊しながらよくやったわ。」
「車中泊?! 危なくないんですか?」
譲治はギョッとする。
「日本ならまあ、大概は大丈夫よね。
でもすごく消耗するから、私はもうできないな。
年配の女性で1人で行脚してるって人にも会ったことはあるけど。
前に言ったっけ。バックパック旅行好きだから、空港のベンチとかで夜明かしとかけっこう面白いわよ。」
「依子さんはやっぱり逞しいんだなあ。
車中泊は僕もしますけど、やっぱりキツイですもの。 もうしないでくださいよ。」
「しないしない。ていうか体力的にもう無理。」
あはは、と笑いながら依子は言う。
譲治はそんな依子の大らかさが好きだった。
ひどく悩んで物思いに沈むこともあれば、妙にざっくり適当なところもある。いろんな表情がモザイク画のように入り組んで1人の人格として集約されている、依子のそんな多面的なところに、たまらなく唆られるのだと、譲治は改めて思ったのだった。
ーーー
蔵王山頂の駐車場に着く。
下界は新緑から初夏の装いだが、山頂近くの植生はやっと春、という感じで、丈の低い植物だけになり、標高の高さがわかる。
霧のような雲が全体的にかかって、明るいのになんだか不思議な光景だった。
譲治は山登りなどワイルドな趣味とはついぞ無縁なので、ほとんど初めて見る山々や植物の様子がとても興味深かった。
駐車場から頂上まで伸びるリフトに乗る。
なかなかにレトロな感じでアクティビティとして楽しめる。
ずいぶん海外からの観光客が多かった。
リフトを降りて、靄の中をひとしきり歩くと、サーっと雲が晴れて、青緑の湖面が美しい噴火口が姿を見せた。
「わあ...これは...すごいですね...」
感嘆の声を出す譲治を見て、頼子もうれしかった。
「ちょうど雲が晴れて良かったわ。譲治くん晴れ男かな?」
「この、ロケーションがすごくいいですね。
周りの山並みとこの噴火口の配置が素晴らしいです。」
ゆっくり寄れる所まで見て、火口を左手に見ながらさらに上にある神社まで登ってお参りして、降りてきた。
「いいもの見せてもらいました。来てよかった。」
譲治は満足したようだ。
「気に入ってくれて良かった。
何度も来てるけど、やっぱりまた来ちゃうのよね。
蔵王温泉の方の、ロープウェイで登ったところのお地蔵さんとかもけっこう面白いわよ。」
「ああ、樹氷で有名な所ですか?」
「よく知ってるね。そうなの。
でも今肝心の樹氷は、木が虫で枯死しちゃってね。再生するまで70年かかるんだって。」
「僕スキーに凝ってたことがあるんで蔵王は行ってみたかったんですよ。」
「そっか! 譲治くんスキーするんだもんね! 行きたいね!」
依子はなんだかすごくうれしそうだ。
「依子さんはスキー得意なんですか?」
「いや~、得意とか不得意とかいう話じゃないのよ。もうね、なんて言うの?
本能?雪山を見るとね、血が騒ぐのよ~。
息をするように滑りまくるのがスキーなのよ、私にとっては。」
なんだか依子はわけのわからないことを言っている。
「一日券買ったら、休憩もしないでリフト止まるまで延々滑るの。
レジャーじゃないのよ。精神修養なの。あああ~スキー行きたいわ。」
「...僕は、テキトーなところで温泉入りに行きますよ。」
2人はスキーの話でまた盛り上がりつつ、麓に下りた。
少し遅めのお昼は、地元の板そばを食べ、譲治の実家に持って行くお土産を 見繕いに物産館などに寄って、依子の実家に戻った。
帰ってみると、見慣れない車が停まっている。
玄関を入ると賑やかな声が聞こえた。
「お帰り。隼也の家族が来てくれたわよ。」
母がにこにこと出迎えてくれた。
早速譲治を紹介する。
「あ、弟の隼也です。
こっちは家族。奥さんの千春さん、子供の翔太と陽菜です。」
「初めまして。田中譲治です。」
男たちはなんだか照れながらへこへこと挨拶していた。
「あの、お姉さんのパートナーと言っても、僕より隼也君の方が年上だと思うので、あまり畏まらないでください。」
譲治が気を遣ってくれた。
弟の隼也は依子より3つ下なのだった。
「今日ね、みんな来てくれたから、お寿司頼んじゃった。いいわよね?
譲治さん、お寿司大丈夫だった?」
母が聞く。
「大好きです。和食に飢えてたのでありがたいです。」
よーし、みんなでお寿司食べよう! 母は元気よく孫たちにそう言って、久しぶりに揃った家族全員で食卓を囲む準備を始めるのだった。
わいわいとみんなでお寿司や郷土料理、地酒を楽しみながら夕飯を食べる。
父は譲治と酒の話や仕事の話などをしている。
依子は合間に、甥、姪にお小遣いを渡したりしながら、弟にボソボソと礼を言う。
「いつもお父さんたちを気にかけてもらって悪いわね。
千春ちゃんに負担かからないようにしてあげてね。
実際に何かあって、人手が必要になったら、私もちゃんと帰ってくるから、連絡して。
あなたは自分の家族が第一優先なんだから、連絡係だけでいいから。」
「うん。まあ、あと5年くらいは最低大丈夫じゃないかな。
まあ、何があるかわからんけど。姉さんだって、世帯を持つんだから、自分らを優先しないとな。」
ありがとね、依子はそう言って、隼也にお酌をしてやった。
賑やかに夕飯を終えて、弟家族は帰っていった。
依子は母の後片付けを手伝う。
「依子、これね。航空券代。
あなたたちも向こうに仕事あるのに、このためにわざわざ帰ってきてもらっちゃったから。
譲治さんに美味しいもの食べさせてあげて。」
母が手を拭きながら棚に何やら取りに行って、白い封筒を持ってきた。
「えええっ! ちょっと、多すぎだよ。ひと財産じゃない!」
ちょっと厚みのある封筒の中身を確かめて依子はびっくりする。
「だって、2人分の航空券には足りないくらいでしょ。」
「いやまあ、そうだけどさあ。
お母さんたちの老後の資金が削られちゃうじゃない。」
「いいのよ。なければあげらんないんだから。
お父さんがあげられるうちにやっとけ、って。」
「そう? そんじゃありがたくいただきます。」
依子は遠慮なく受け取った。
正直めちゃくちゃ助かる。
母は口やかましい昭和の母親だが、両親共に、経済的な苦労は子供たちにさせなかった。その点については心から感謝しているし、尊敬もしている。
自分にはとても真似できない。
一方、父の敏一は譲治ととりとめない会話を楽しみながら、最後に一番言いたかったことを改めて言う。
「譲治君。依子のこと頼みますね。
あの子は、前の結婚で受けた暴力のこと、あまり私たちには詳しく話してないんです。きっと私達が辛く思うだろうと、気にしてるからだと思うんだが。
私達もあまり掘り返したら、本人も辛いかと思って聞けないし。
君は詳しく聞いてますか。」
「ええ、はい。だいたい聞いてると思います。」
「そうか。依子は本当に君のこと信頼してるんだね。良かった。
あの子の方がずいぶん歳上で、君にはなんだか申し訳ない気もするんだが。
親としては、将来1人であの子を残していかなきゃいけないと、かわいそうに思っていたから、君のような堅実な青年がそばにいてくれると知って、本当に感謝しています。」
ありがとう、そう強く言って敏一は譲治のグラスにビールを注ぎ足した。
「あの子は歳食ってる分、一通りのことは経験済みだから、君も遠慮なく甘えてやってください。
君がまず、心身ともに健やかであるように。」
譲治はなんだか感じ入ってしまった。
愛しい人のご両親が、自分のことをまず気にかけてくれる。
そして、大事な娘を託してくれている。
ありがたかったし、それに足る人間だと思ってもらえたことが誇らしかった。
「僕は、依子さんを決して独りにはしません。
ずっと一緒にいると約束しました。もちろん絶対に力に訴えたりしない。お2人にもお約束します。」
そうして、男たちは静かにお酒で気持ちを酌み交わすのだった。
ーーー
翌日。
朝ごはんを食べて早々に、山形を発ち、今度は譲治の実家の相模原に向かう。
「慌ただしくてごめんね。お父さんたちもハンガリーにまた観光に来てよ。」
依子は荷物を父の車に積みながら言う。
「久しく行ってないからなあ。そうだな。また行ってみるのもいいな。」
譲治は見送りの母に頭を下げている。
「本当にお世話になりました。
ハンガリーにいらっしゃることがあれば、僕が全面的にアテンドしますので、どうぞ気を楽にいらしてください。」
「ありがとうね。依子をよろしくね。譲治さんもまず自分の健康第一でね。」
それじゃ、と言って実家を後にした。
父とも新幹線の改札で別れる。
依子はいつも思う。
両親と再会しまた別れるたびに、ああ、この人たちもどんどん老けていくな。あと、何回こうやって元気に会えるだろう、と。
そしてとても切なくなってしまうのだ。
いつもそれを振り切って、感じないようにして空港に向かう。そうすると段々その切なさも薄れていく。
でも、今は、横を見ると譲治がいる。
寂しくても、譲治が寄り添ってくれる。やっと、独りではなくなったのだ。
その事実に涙が出そうだった。
新幹線から乗り継いで、譲治の実家のある相模原へ移動する。
やはり東北からは遠い。ほとんど1日仕事だ。
譲治は、少しアンニュイな依子を気にかけながら、実家へ案内する。
「疲れたでしょ。
関東って言ってもここらへんはけっこう辺鄙なとこだから。大丈夫?」
「あら!東北に比べればめちゃくちゃ都会じゃない。
私ね、受験でここらへん来たことあるのよ。なんか思い出してきたわ。」
駅からバスに乗り換えながら、街のそこここを少しずつ紹介しているうちに、譲治の家に着いた。
「わあ!お帰りお帰り!迎えに出られなくてごめんね~!
今日お父さんが車使って出かけちゃっててさあ!
さっき帰ってきたから行かせればよかったわ。」
挨拶もそこそこにいつも元気な母の加奈子が飛び出してきた。
「依子さんもよく来たね。疲れただろう。ゆっくりしてください。
山形のご両親はお元気でしたか。」
父の隆も出てきて荷物を運んでくれた。
「今回はお世話になります。
ええ、両親ともくれぐれもよろしくと申しておりました。
あ、これ、山形土産です。両親から託された物もいろいろ。」
そんなこんなでわいわいとお土産を囲みながら、早速男たちはビールを始めようとしている。
「譲治くん、先に大事なこと...」
「じゃ、先にやっちゃいましょう。
ええと、お父さんお母さん、話してたとおり僕ら入籍することにしたので、ここの証人欄に署名お願いします。
失敗した時ように2枚ね。」
「あら、緊張するわ~! 山形のご両親にはちゃんとご挨拶したのね?」
したよ~、と譲治がのんびり声で言う。
「いやあねえ、緊張感のカケラもなくて。
この子ちゃんとご挨拶できたのかしら?疑わしいわあ~。」
依子に加奈子が問いかける。
「とてもしっかりご挨拶してくれましたよ。
譲治くん、こちらだと自分の家だからリラックスしてるんですよ。
なんか緊張させちゃって申し訳なかったくらい。」
依子もにこにこと答える。
「譲治はやるときゃやる男なんだよ。」
ぼそりと隆がフォローしてくれた。
その時元気な声が玄関から聞こえて、みんなのいるリビングにどすどすという足音と共に美智子が入ってきた。
「お待たせお待たせ~!」
待ってねえわ、と譲治が隣でぼそ、と言う。
「あ、美智子さん。おかえりなさい。おつかれさまです。」
依子が挨拶した。
「わあ依子さん! ハンガリーではお世話になりました。
あ、そっか~!もうお姉さんになるんだね~! なんかうれしい!
おにいじゃ楽しくないんだもん。ずっとお姉ちゃん欲しかったんですよ!」
美智子は仕事から帰ってきたばかりなのに元気いっぱいのハイテンションだ。
依子はそんなふうに皆に受け入れてもらって、とてもとてもうれしかった。
その晩は、母手作りの餃子パーティーで楽しく過ごす。
「やっぱ餃子にはビールだな。」とか言って、基本、自分の家族にはぶっきらぼうな譲治もご機嫌で飲み食いしている。
そんな譲治を見て、ちゃんと家族には素で甘えられて良かった、と、依子はうれしく思うのだった。
譲治と依子は時差ボケなのか、単に疲れすぎなのか、寝たのかどうかわからない微妙な具合の頭で、一応遅めの朝に起きて、麻子の用意した朝食を食べる。
両親2人にお願いして、無事結婚届の証人欄にサインをもらった。
「ブダペストの大使館に提出するから、無事出せたら連絡するわね。」
依子はそう言って大事に書類をしまう。
今日は軽く周辺観光をすることにした。
「山形市周辺と言えば蔵王とか山寺だけど、譲治くんはご希望ある?
ちなみに、どっちも登るからけっこう疲れると思うよ。」
「そうですね~。
僕あまり知らないんですけど、景色が雄大な方を見てみたいかな。」
「じゃ、蔵王のお釜見に行こう。車で上まで上がれるし。」
依子はそう言うと、父親の車のキーを借りた。
「それじゃ、行ってきますね。
お昼はどっかで食べて、夕方くらいに帰ると思う。」
いってらっしゃい、と言う両親に声をかけて出かけた。
「僕が運転しましょうか?」
譲治が申し出てくれる。
「うーん、それの方がいいかもだけど、私もたまには運転しないとできなくなっちゃうから。譲治くんは監視してて。」
依子は手際良く車を発進させた。
「依子さんの運転初めてみた。 なんか女性が運転するの見るの新鮮かも。」
「お母さんも美智子ちゃんも運転しない?」
「ウチは街中なんでね。
公共交通機関が発達してるし、運転はもっぱら父専任です。」
なるほど、と依子はクールに答える。
「眼鏡の依子さんがまず新鮮だし、そうやって運転してる姿がカッコよくて、僕はまた惚れ直しました。」
譲治はそう言うと、依子の太腿に手を這わす。
「こらこら。私は久しぶりの運転でめっちゃ真剣なんだから。
死にたくなかったらお利口にしててね。」
はーい、と譲治はおとなしく手を引っ込める。
「依子さんは、長距離運転もけっこうしてたんですっけ?」
「そうよ。
私みたいなクラフト系の仕事してるとさ、遠くのイベント出店するのに車に荷物満載して出かけなきゃなのよ。
そうやって全国渡り歩いてる人たくさんいるのよ。
私も車中泊しながらよくやったわ。」
「車中泊?! 危なくないんですか?」
譲治はギョッとする。
「日本ならまあ、大概は大丈夫よね。
でもすごく消耗するから、私はもうできないな。
年配の女性で1人で行脚してるって人にも会ったことはあるけど。
前に言ったっけ。バックパック旅行好きだから、空港のベンチとかで夜明かしとかけっこう面白いわよ。」
「依子さんはやっぱり逞しいんだなあ。
車中泊は僕もしますけど、やっぱりキツイですもの。 もうしないでくださいよ。」
「しないしない。ていうか体力的にもう無理。」
あはは、と笑いながら依子は言う。
譲治はそんな依子の大らかさが好きだった。
ひどく悩んで物思いに沈むこともあれば、妙にざっくり適当なところもある。いろんな表情がモザイク画のように入り組んで1人の人格として集約されている、依子のそんな多面的なところに、たまらなく唆られるのだと、譲治は改めて思ったのだった。
ーーー
蔵王山頂の駐車場に着く。
下界は新緑から初夏の装いだが、山頂近くの植生はやっと春、という感じで、丈の低い植物だけになり、標高の高さがわかる。
霧のような雲が全体的にかかって、明るいのになんだか不思議な光景だった。
譲治は山登りなどワイルドな趣味とはついぞ無縁なので、ほとんど初めて見る山々や植物の様子がとても興味深かった。
駐車場から頂上まで伸びるリフトに乗る。
なかなかにレトロな感じでアクティビティとして楽しめる。
ずいぶん海外からの観光客が多かった。
リフトを降りて、靄の中をひとしきり歩くと、サーっと雲が晴れて、青緑の湖面が美しい噴火口が姿を見せた。
「わあ...これは...すごいですね...」
感嘆の声を出す譲治を見て、頼子もうれしかった。
「ちょうど雲が晴れて良かったわ。譲治くん晴れ男かな?」
「この、ロケーションがすごくいいですね。
周りの山並みとこの噴火口の配置が素晴らしいです。」
ゆっくり寄れる所まで見て、火口を左手に見ながらさらに上にある神社まで登ってお参りして、降りてきた。
「いいもの見せてもらいました。来てよかった。」
譲治は満足したようだ。
「気に入ってくれて良かった。
何度も来てるけど、やっぱりまた来ちゃうのよね。
蔵王温泉の方の、ロープウェイで登ったところのお地蔵さんとかもけっこう面白いわよ。」
「ああ、樹氷で有名な所ですか?」
「よく知ってるね。そうなの。
でも今肝心の樹氷は、木が虫で枯死しちゃってね。再生するまで70年かかるんだって。」
「僕スキーに凝ってたことがあるんで蔵王は行ってみたかったんですよ。」
「そっか! 譲治くんスキーするんだもんね! 行きたいね!」
依子はなんだかすごくうれしそうだ。
「依子さんはスキー得意なんですか?」
「いや~、得意とか不得意とかいう話じゃないのよ。もうね、なんて言うの?
本能?雪山を見るとね、血が騒ぐのよ~。
息をするように滑りまくるのがスキーなのよ、私にとっては。」
なんだか依子はわけのわからないことを言っている。
「一日券買ったら、休憩もしないでリフト止まるまで延々滑るの。
レジャーじゃないのよ。精神修養なの。あああ~スキー行きたいわ。」
「...僕は、テキトーなところで温泉入りに行きますよ。」
2人はスキーの話でまた盛り上がりつつ、麓に下りた。
少し遅めのお昼は、地元の板そばを食べ、譲治の実家に持って行くお土産を 見繕いに物産館などに寄って、依子の実家に戻った。
帰ってみると、見慣れない車が停まっている。
玄関を入ると賑やかな声が聞こえた。
「お帰り。隼也の家族が来てくれたわよ。」
母がにこにこと出迎えてくれた。
早速譲治を紹介する。
「あ、弟の隼也です。
こっちは家族。奥さんの千春さん、子供の翔太と陽菜です。」
「初めまして。田中譲治です。」
男たちはなんだか照れながらへこへこと挨拶していた。
「あの、お姉さんのパートナーと言っても、僕より隼也君の方が年上だと思うので、あまり畏まらないでください。」
譲治が気を遣ってくれた。
弟の隼也は依子より3つ下なのだった。
「今日ね、みんな来てくれたから、お寿司頼んじゃった。いいわよね?
譲治さん、お寿司大丈夫だった?」
母が聞く。
「大好きです。和食に飢えてたのでありがたいです。」
よーし、みんなでお寿司食べよう! 母は元気よく孫たちにそう言って、久しぶりに揃った家族全員で食卓を囲む準備を始めるのだった。
わいわいとみんなでお寿司や郷土料理、地酒を楽しみながら夕飯を食べる。
父は譲治と酒の話や仕事の話などをしている。
依子は合間に、甥、姪にお小遣いを渡したりしながら、弟にボソボソと礼を言う。
「いつもお父さんたちを気にかけてもらって悪いわね。
千春ちゃんに負担かからないようにしてあげてね。
実際に何かあって、人手が必要になったら、私もちゃんと帰ってくるから、連絡して。
あなたは自分の家族が第一優先なんだから、連絡係だけでいいから。」
「うん。まあ、あと5年くらいは最低大丈夫じゃないかな。
まあ、何があるかわからんけど。姉さんだって、世帯を持つんだから、自分らを優先しないとな。」
ありがとね、依子はそう言って、隼也にお酌をしてやった。
賑やかに夕飯を終えて、弟家族は帰っていった。
依子は母の後片付けを手伝う。
「依子、これね。航空券代。
あなたたちも向こうに仕事あるのに、このためにわざわざ帰ってきてもらっちゃったから。
譲治さんに美味しいもの食べさせてあげて。」
母が手を拭きながら棚に何やら取りに行って、白い封筒を持ってきた。
「えええっ! ちょっと、多すぎだよ。ひと財産じゃない!」
ちょっと厚みのある封筒の中身を確かめて依子はびっくりする。
「だって、2人分の航空券には足りないくらいでしょ。」
「いやまあ、そうだけどさあ。
お母さんたちの老後の資金が削られちゃうじゃない。」
「いいのよ。なければあげらんないんだから。
お父さんがあげられるうちにやっとけ、って。」
「そう? そんじゃありがたくいただきます。」
依子は遠慮なく受け取った。
正直めちゃくちゃ助かる。
母は口やかましい昭和の母親だが、両親共に、経済的な苦労は子供たちにさせなかった。その点については心から感謝しているし、尊敬もしている。
自分にはとても真似できない。
一方、父の敏一は譲治ととりとめない会話を楽しみながら、最後に一番言いたかったことを改めて言う。
「譲治君。依子のこと頼みますね。
あの子は、前の結婚で受けた暴力のこと、あまり私たちには詳しく話してないんです。きっと私達が辛く思うだろうと、気にしてるからだと思うんだが。
私達もあまり掘り返したら、本人も辛いかと思って聞けないし。
君は詳しく聞いてますか。」
「ええ、はい。だいたい聞いてると思います。」
「そうか。依子は本当に君のこと信頼してるんだね。良かった。
あの子の方がずいぶん歳上で、君にはなんだか申し訳ない気もするんだが。
親としては、将来1人であの子を残していかなきゃいけないと、かわいそうに思っていたから、君のような堅実な青年がそばにいてくれると知って、本当に感謝しています。」
ありがとう、そう強く言って敏一は譲治のグラスにビールを注ぎ足した。
「あの子は歳食ってる分、一通りのことは経験済みだから、君も遠慮なく甘えてやってください。
君がまず、心身ともに健やかであるように。」
譲治はなんだか感じ入ってしまった。
愛しい人のご両親が、自分のことをまず気にかけてくれる。
そして、大事な娘を託してくれている。
ありがたかったし、それに足る人間だと思ってもらえたことが誇らしかった。
「僕は、依子さんを決して独りにはしません。
ずっと一緒にいると約束しました。もちろん絶対に力に訴えたりしない。お2人にもお約束します。」
そうして、男たちは静かにお酒で気持ちを酌み交わすのだった。
ーーー
翌日。
朝ごはんを食べて早々に、山形を発ち、今度は譲治の実家の相模原に向かう。
「慌ただしくてごめんね。お父さんたちもハンガリーにまた観光に来てよ。」
依子は荷物を父の車に積みながら言う。
「久しく行ってないからなあ。そうだな。また行ってみるのもいいな。」
譲治は見送りの母に頭を下げている。
「本当にお世話になりました。
ハンガリーにいらっしゃることがあれば、僕が全面的にアテンドしますので、どうぞ気を楽にいらしてください。」
「ありがとうね。依子をよろしくね。譲治さんもまず自分の健康第一でね。」
それじゃ、と言って実家を後にした。
父とも新幹線の改札で別れる。
依子はいつも思う。
両親と再会しまた別れるたびに、ああ、この人たちもどんどん老けていくな。あと、何回こうやって元気に会えるだろう、と。
そしてとても切なくなってしまうのだ。
いつもそれを振り切って、感じないようにして空港に向かう。そうすると段々その切なさも薄れていく。
でも、今は、横を見ると譲治がいる。
寂しくても、譲治が寄り添ってくれる。やっと、独りではなくなったのだ。
その事実に涙が出そうだった。
新幹線から乗り継いで、譲治の実家のある相模原へ移動する。
やはり東北からは遠い。ほとんど1日仕事だ。
譲治は、少しアンニュイな依子を気にかけながら、実家へ案内する。
「疲れたでしょ。
関東って言ってもここらへんはけっこう辺鄙なとこだから。大丈夫?」
「あら!東北に比べればめちゃくちゃ都会じゃない。
私ね、受験でここらへん来たことあるのよ。なんか思い出してきたわ。」
駅からバスに乗り換えながら、街のそこここを少しずつ紹介しているうちに、譲治の家に着いた。
「わあ!お帰りお帰り!迎えに出られなくてごめんね~!
今日お父さんが車使って出かけちゃっててさあ!
さっき帰ってきたから行かせればよかったわ。」
挨拶もそこそこにいつも元気な母の加奈子が飛び出してきた。
「依子さんもよく来たね。疲れただろう。ゆっくりしてください。
山形のご両親はお元気でしたか。」
父の隆も出てきて荷物を運んでくれた。
「今回はお世話になります。
ええ、両親ともくれぐれもよろしくと申しておりました。
あ、これ、山形土産です。両親から託された物もいろいろ。」
そんなこんなでわいわいとお土産を囲みながら、早速男たちはビールを始めようとしている。
「譲治くん、先に大事なこと...」
「じゃ、先にやっちゃいましょう。
ええと、お父さんお母さん、話してたとおり僕ら入籍することにしたので、ここの証人欄に署名お願いします。
失敗した時ように2枚ね。」
「あら、緊張するわ~! 山形のご両親にはちゃんとご挨拶したのね?」
したよ~、と譲治がのんびり声で言う。
「いやあねえ、緊張感のカケラもなくて。
この子ちゃんとご挨拶できたのかしら?疑わしいわあ~。」
依子に加奈子が問いかける。
「とてもしっかりご挨拶してくれましたよ。
譲治くん、こちらだと自分の家だからリラックスしてるんですよ。
なんか緊張させちゃって申し訳なかったくらい。」
依子もにこにこと答える。
「譲治はやるときゃやる男なんだよ。」
ぼそりと隆がフォローしてくれた。
その時元気な声が玄関から聞こえて、みんなのいるリビングにどすどすという足音と共に美智子が入ってきた。
「お待たせお待たせ~!」
待ってねえわ、と譲治が隣でぼそ、と言う。
「あ、美智子さん。おかえりなさい。おつかれさまです。」
依子が挨拶した。
「わあ依子さん! ハンガリーではお世話になりました。
あ、そっか~!もうお姉さんになるんだね~! なんかうれしい!
おにいじゃ楽しくないんだもん。ずっとお姉ちゃん欲しかったんですよ!」
美智子は仕事から帰ってきたばかりなのに元気いっぱいのハイテンションだ。
依子はそんなふうに皆に受け入れてもらって、とてもとてもうれしかった。
その晩は、母手作りの餃子パーティーで楽しく過ごす。
「やっぱ餃子にはビールだな。」とか言って、基本、自分の家族にはぶっきらぼうな譲治もご機嫌で飲み食いしている。
そんな譲治を見て、ちゃんと家族には素で甘えられて良かった、と、依子はうれしく思うのだった。
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