【完結】腹ペコ貴族のスキルは「種」でした

シマセイ

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第8話「黒い石の初仕事」

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ゆらり、と。

ゼノン・フォン・ヴァイスの右手に灯った炎が、彼の殺気に応えるかのように、その勢いを増した。

廊下の空気は張り詰め、野次馬の生徒たちは固唾を飲んで成り行きを見守っている。
公爵家の嫡男が、学院内で本気の魔法を使おうとしているのだ。

「やめて、アレン!
逃げて!」

リナリアの悲鳴のような声が響くが、アレンには届いていない。
彼は、ゼノンの手の中の炎を、怖いというよりも、珍しいものでも見るかのように、じっと見つめていた。

「身の程を弁えぬクズには、教育が必要なようだな」

ゼノンは歪んだ笑みを浮かべると、アレンに向かって、その手中の炎――小さな火球を投げつけた。

「『ファイア・ショット』!」

本気の魔法ではない。
相手を少し脅かすための、初級の火炎魔法だ。
だが、生身の人間が受ければ、火傷では済まない威力を持っている。

火球が、赤い軌跡を描いてアレンに迫る。

誰もが、アレンが炎に焼かれる光景を想像した。

しかし。

「わ、あったかそう」

アレンは、逃げもせず、防御の構えを取るでもなく、ただそんな呑気なことを呟いた。
そして、ほとんど無意識に、とっさの反応で、自分の胸の前を庇うような仕草を取る。
その右手は、ズボンのポケットの中で、あのひんやりとした黒い石を、強く握りしめていた。

次の瞬間。

ボンッ!

火球がアレンの胸元で弾け、小さな爆発音と共に黒い煙が立ち上った。

「きゃあ!」

リナリアが目を覆う。

「ふん、愚か者が……」

ゼノンが嘲笑の言葉を口にし終える前に、その場の誰もが、信じられない光景を目撃することになる。

煙がゆっくりと晴れていく。
その中心に立っていたのは――制服の胸の部分が直径十センチほど黒く焦げているだけで、他にはどこにも怪我をした様子もなく、きょとんとした顔で自分の胸を見下ろしている、アレンの姿だった。

「なっ……!?」

ゼノンの顔から、自信に満ちた笑みが消え、驚愕の色が浮かんだ。

「ば、馬鹿な……!
なぜ無傷なのだ……?
僕の魔法が、効かなかったというのか……!?」

「え?
どういうこと?」

「なんで平気なんだ、あいつ……」

周りで見物していた生徒たちも、ざわざわと囁き合う。

当のアレン本人はというと、自分の胸の焦げ跡を指でつつきながら、不思議そうに呟いた。

「あれ?
服が焦げちゃった。
でも、全然熱くなかったや」

ポケットの中で握りしめた黒い石が、まるでカイロのように、ほんのりと温かくなっていることには、彼はまだ気づいていない。

自分の魔法が、それも『種クズ』と見下していた相手に、全く通用しなかった。

その事実は、ゼノンのプライドを、鋭利な刃物でズタズタに引き裂くのと同じだった。

「……許さんぞ」

彼の全身から、これまでにないほどの強烈な魔力が立ち上り始める。

「許さんぞ、アレン・リンク……!
今度こそ、その汚い体を消し炭にしてくれる……!」

ゼノンの右手に、先ほどの火球とは比べ物にならない、巨大な炎の塊が形成されていく。

「もうやめて!」

リナリアが、アレンを庇おうと二人の間に飛び出そうとした、その時だった。

「――そこまでだ、ヴァイス君!」

ビリビリと空気を震わせるような、厳格な声が廊下に響き渡った。

声の主は、先ほどまで魔法防具学の授業をしていた、あの恰幅のいい老教師だった。
騒ぎを聞きつけて、飛んできたらしい。

「き、教授……!」

ゼノンは、はっとした顔で声のした方を見た。

老教師は、鬼のような形相でゼノンを睨みつけている。

「学院の廊下で、生徒に向けて攻撃魔法を使おうなどと、正気か!
その行為が、学院の規則でいかに厳しく禁じられているか、知らぬわけではあるまいな!
公爵家の子息であろうと、この私が見逃すと思うなよ!」

その凄まじい剣幕に、ゼノンの燃え上がっていた魔力が、急速にしぼんでいく。
いくら彼が公爵家の嫡男であろうと、学院の教授、それも高名な魔法使いであるこの老人に逆らうことはできない。

「……っ」

ゼノンは、ぐぬぬ、と唇を噛みしめ、悔しそうに炎を消した。

教師は、いじめられていた男子生徒を優しく保護すると、ゼノンとその取り巻きたちに鋭く言い放った。

「ヴァイス君、そしてそこにいる者たちも、後で私の指導室に来なさい。
事情を詳しく聞かせてもらうぞ」

「……はい」

ゼノンは、屈辱に顔を歪ませながら、そう答えるしかなかった。
彼は去り際に、アレンのことを、殺さんばかりの憎悪に満ちた形相で、しかし一言も発さずに睨みつけた。

(覚えていろ、アレン・リンク……!
この屈辱、必ず、必ず晴らしてやる……!)

その心の声は、もはや単なる見下しではなく、明確な殺意を帯びていた。

しかし、そんな血も凍るような視線を浴びながらも、アレンは全く気づいていない。
彼は、老教師に駆け寄ると、呑気な声でこう尋ねた。

「あのー、先生。
僕の制服、焦げちゃったんですけど、これって洗濯したら直りますかね?」

「……はぁ」

老教師は、緊張感のかけらもないその質問に、深々と、大きなため息をつくしかなかった。



騒ぎがようやく収まった後、リナリアはアレンに駆け寄った。

「アレン!
本当に無事なの!?
どうして平気だったのよ!」

彼女は、アレンの体をぺたぺたと触り、どこにも怪我がないことを確かめて、ようやく安堵の息を漏らした。

「うーん、僕にもよく分からないんだけど……」

アレンはそう言うと、ポケットから例の黒い石を取り出してみせた。
石は、先ほどまでの微かな温かさもすっかり消え、いつも通りの、ただの冷たくて重い石ころに戻っている。

「これをぎゅって握ってたら、全然熱くなかったんだ。
この石、すごいね!」

アレンは、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように、無邪気に笑った。

リナリアは、その黒い石が、ゼノンの魔法からアレンを守ったのだと確信する。
そして同時に、こんなとんでもない代物を、ただの石ころとしてポケットに入れて平然と歩いている友人に、改めて眩暈を覚えるのだった。

アレンのスキルは、彼をいずれ最強の存在にするかもしれない。

だがそれは、彼を学院で一番の、そして世界で一番のトラブルメーカーにすることと同義なのかもしれない。

(私の心労、これからどうなっちゃうのかしら……)

リナリアの悩みは、まだ始まったばかりである。
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