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長編版
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まずい。非常にまずい。
人を笑いっぱなしの殿下を捨て置いて女の子達の元に戻り、お姫様ごっこを再開したまではよかった。
『わたくしが帰るまでにお部屋のお片付けは済ませておいてくださいませよ』と言って舞踏会に行く継母をまた殿下が笑ったが、それを無視したところまでもよかった。
そして魔法使いに変身して三姉妹に魔法をかけて、可愛らしいワンピース姿となった三人を城と称した遊具の元へと送り届けたところで、三人は口をそろえて尋ねてきたのだ。
「お姉ちゃん。王子様はどこ?」
王子様も継母が用意するのか!
慌てて周りを見渡すも、男の子達はどの子も遊びまわっていて暇そうな子は一人もいない。
お姫様達の期待の篭ったキラキラとした六つの目に冷や汗が伝う。
……こうなったら、継母兼魔法使い兼王子様(三人)を演じ切るしかないか……!?
「どうした。慌てているようだが」
腕まくりして腹をくくったところで、殿下が近付いてきた。
上着を腕に掛けて、流れる汗をシャツで拭っている殿下にハンカチを差し出す。王太子殿下の制服を汚すわけにいかないという、公爵家に生まれたものの性だ。
「実は、王子様が足りなくて……」
「王子様? ああ、男児が足りないのか」
ハンカチで拭って差し上げながら説明すると、殿下は合点がいったとばかりに膝に手を添えてお姫様達を見下ろした。
「一人ずつで悪いが、俺がお相手いただいてもよろしいかな。ご令嬢方」
小さなお姫様達に話しかける殿下の声はなんとも優しくて、ああこの方は本当の王子様なんだなぁと今更ながらに実感する。不覚にも少し胸が騒いだ。
本物の王子様の襲来に、お姫様達は三人で目を見合わせて、もじもじとしながら上目遣いになり、可愛らしく口を開いた。
「お兄ちゃんじゃあ、年上過ぎますわ。他の王子様をお願いします!」
ぶっ。
「…………おい」
「なん……なんです、殿下……ふふっ……」
「今すぐ笑うのを止めろ……!」
さすがの殿下も衆目の中で私を怒鳴ることは出来ないらしい。
いや、でもこれは……。
「殿下。チェンジ、ですわよ。チェンジ……ぶふっ」
「そんな言葉をどこで覚えてくるのだ! ……あとその笑い方は貴族令嬢としてどうかと思うぞ……っ」
仕返しとばかりにお腹を抱えて笑ってやれば、さすがに立ち上がった殿下の猛抗議にあった。
子供の言ったこととはいえ殿下は無下にしなかった。先ほど剣の試合をしていた男の子達三人を呼び戻してくださったのだ。
「良かったわね。素敵な王子様達が来てくださったわ」
安心して三人の背中を押した……まではよかったが、子供というのは本当に難しいものだなとつくづく思い知らされた。
「アイザックはわたしと踊るの!」
「ハンナはこの間もアイザックとおままごとしてたでしょ!? 今日はわたしとだもん!」
「ゾーイだってそうじゃん! 今日はわたしとだよ!」
よりにもよって三人の内一人が超絶モテ男だったのだ。
その気持ちもわからないでもない。
殿下と一番に試合をしていたアイザック君は、肩で切り揃えた赤茶色の髪に琥珀色の瞳をした少年だ。それも、鼻筋の通ったお顔に勝気な目は大人になればさぞ立派な風采の美丈夫になるだろう美少年だったのだ。
「これは確かに殿下でもチェンジと言われてしまいますわね……」
「しつこいぞ……」
殿下からの恨み声は無視して、腕を引っ張られて困っているアイザック君を救出した。
「三人とも落ち着きなさいな。そんなに引っ張っては駄目よ」
救出したアイザック君の腕に触れて、痛めていないか確認する。子供の力と言っても侮れない。むしろ遠慮のない分、力いっぱいに引っ張れば大人よりも痛いだろう。けど私もお医者さんじゃないからなぁ。自己申告がないと分からないな。
「大丈夫? 腕を痛めてはいない?」
顔を覗き込んで尋ねる。改めて見ても本当に綺麗な顔立ちをしている……が、そのお顔がなぜか真っ赤になってしまっていた。
「……大変。熱でもあるのかしら」
慌てておでこに手を当てて熱を計ろうとしたら、その手を取られた。
「やめてやれ。お前は本当にいくつになっても変わらんな」
呆れ口調の殿下は私からアイザック君を離して、背中に隠してしまわれた。
「変わらないとは、何の話です?」
「こちらの話だ」
その後も殿下は頑なに教えてくださらず、結局王子様は殿下と残りの二人が演じることとなり、この後の継母の出番はなかった。
夕方まで目一杯遊び、あっという間に帰る時間となった。それぞれが別れを惜しむ中、女の子達は泣きながら私の手をぎゅうと握りしめてくれている。
「お姉ちゃん、本当に帰っちゃうの?」
「泊っていけば?」
「お姉ちゃんともっと遊びたいよ」
あまりにも泣かれるので私も目の奥がじわりと熱くなる。
「またきっと来るわ。その時はまた遊びましょうね」
必ずまた来てあげよう。その時は絵本やおもちゃのお土産もたくさん用意して。……私のこと忘れてないといいけど。
「お姉さん」
子供達と別れを惜しんでいるとアイザック君に声をかけられた。
「あら、アイザック君。どうかなさったの?」
あまり遊んではいないけど、この子も私が帰るのを悲しんでくれているのなら嬉しいなぁとの気持ちを込めて笑顔を向ける。相変わらずお顔が真っ赤なのは夕日のせいだろうか。
アイザック君は綺麗な琥珀色の目を彷徨わせて何度も口ごもった様子だったが、意を決したように口を開いた。
「俺、いつか絶対に王様を守る騎士になります。だから、もしもなれたらその時は、俺と結婚してください!」
「…………」
じ…………。
人生初の愛の告白のお相手が十歳未満の男の子(美少年)だと──!!?
正直に言えばさすがに守備範囲外……だけど、この子なら十年もすれば立派なイケメンになるだろうし、もしかしてお買い得? 先物買いしておくべきか!?
贅沢にも悩んでしまった私の肩に、大きな手が乗った。
「アイザック。お前は剣の筋もよく、努力すればいずれ騎士となれるだろう。その力添えは惜しまないつもりだ。だからその時はこちらのご令嬢を守る剣となってほしい。──こちらは、王太子妃となる女性だからだ。お前にはやらん」
殿下だった。
優しくも先ほどにはない厳しさを伴った言葉にアイザック君は口を固く結び、拗ねるような目を殿下に向けていたが、殿下は決して譲らなかった。
帰りの馬車の中は沈黙に包まれていた。
先ほどの殿下の言葉が耳から離れない。
王太子妃になる女性だと言われた抗議をしなければと思うのに、どうしても言葉が口から出ていかない。
──お前にはやらん。だなんて。
「……アイザックは」
沈黙を破ったのは殿下だった。
「今年で八つになるらしい」
「……そうでしたの」
もしかして八つの子の言うことを真に受けるなよという話だろうか。
なんだか殿下は少し不機嫌そうに前を見つめていて、こちらに目を向けてくれなかった。
その様子に、なんだか騒いでいた気持ちが冷たく凪いでいくようで──。
「十八と二十八では、さして問題にもならないだろうな」
十八と……二十八?
「誰のことを仰っておられるのです?」
「……だから、十年後ならおかしくもない組み合わせだろう、と」
言っているのだと、消え入るような声で殿下は仰った。
十年後、ということは……今は十八歳と八歳……ああ、そういうことか。
私とアイザック君は十年後ならお付き合いしてもおかしくない年齢差だと仰っているのだ。この方は。
それが分かれば、憮然として前を見据えている姿がなんだか可笑しくなってくる。
「……旦那様が支えてくださるなら、目は移らないのではありませんか」
はっと見開いた殿下の綺麗な瞳がやっと私へと向いた。
アイザック君は女の子達に引っ張られて迷惑そうにしつつも振り払ったりしなかった。優しい子なんだろうと思う。きっと十年もすれば素敵な青年になるだろう。なのにどうしてこんなことを言ったんだろう。
──その理由はもう、わかる気がする。
膝の上に置いた手を取られ、握りしめられた。ゴツゴツとした手は硬くて、剣がお好きな殿下らしい。
「努力する。……お前は、俺の妃だ」
心臓の脈打つのが早くなり過ぎて痛くて苦しいほどなのに、なぜか心の中は暖かく幸せに満ちている。
ああ、私は。──この方が好きなんだわ。
私をまっすぐに見つめる碧眼も、大きな声で私を叱りつける唇もゴツゴツとした硬い手も。
……殿下はどうなのだろう。少なくとも、婚約を破棄したくないとは思っていただいているようだけど。
聞く勇気のないまま、無言で馬車は進み続けて、学院へと帰り着いた。
殿下は当然のように私室の前まで送り届けてくださった。
「本日はありがとうございました」
丁寧に膝を折り、なんだか震える声でお礼を言う。
「……ああ。また明日、だな」
いつもならさっさと部屋に入って扉を閉めてしまうのだが、気持ちを自覚してしまったからか、なんだか名残惜しい。
そんな私の内心などわかるはずもないのに、殿下は目を優しく細めて苦笑した。
「今日は疲れただろう。早く部屋に入って休みなさい。……明日もまた迎えに来るから」
「……きっとですよ。お待ちしていますからね」
「ああ。必ずだ」
手を掬い上げられ、甲に唇が落とされる。これまでの婚約した十年間で幾度となく繰り返された行為だというのに、手の甲から熱が全身に広がるようだった。
逃げるように部屋に入り、扉を閉める。どんどんと廊下からの光が細くなって、殿下が見えなくなっていく。
「……おやすみなさいませ。フェルナンド様」
「おやすみ。リシュフィ」
カチャリという扉の閉まる音が部屋に響いた。
それなのに、どうしても扉から離れられない。
先ほど心の中に生まれた疑問の答えを知りたい。
明日も来てくださるのだから慌てることはないのに、どうしても我慢できなくて、扉を開いて飛び出した。
今ならまだすぐ近くにいらっしゃるだろう。
追いかけて、尋ねるのだ。
『わたくしを愛してくださいますか』と。
もしも愛していただけるなら……私は今度こそ幸せに──。
角を曲がって寮の入り口に殿下のお姿を見つけ、半歩下がって姿を隠した。
頭の中に疑問符が次々に生まれ出て、動揺からか心臓が激しく騒ぐ。
寮の入り口にいたのは、殿下だけではなかった。もう一人。月明かりに照らされた綺麗な亜麻色の髪。
どうして、殿下と──アンリエッタ嬢が一緒にいるんだろう。
拳を握りしめて、胸を押さえて自らに落ち着けと言い聞かせる。きっと出るところを足止めされたとか、そんなことだ。きっと。
そう思うのに、それならばなぜ声を潜ませて、顔を近付けて話しているのか。その疑問の適切な答えがどうしても思い浮かばない。
混乱する私の目の前で、殿下は何かを受け取り、アンリエッタ嬢から離れて、歩き去る。その最中、たった数歩進んだところで殿下は立ち止まり、振り返った。
先ほどの馬車での瞳など比ではないほど真剣な眼差しがアンリエッタ嬢に注がれ、しばらくの間二人は見つめ合っていた。
胃をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような不快感に襲われて、その場から逃げ出す。
私室に飛び込み、背中で押して扉を閉め、そのまま崩れ落ちた。
可愛い女性。確かにそう仰っていた。
──あの子だったのね。確かにとても愛らしい子リスのような子だけど、それならどうして私との婚約を破棄してくれなかったのだろう。
レストリドの娘を捨てて、男爵家の娘に乗り換えるのは外聞が悪いからか。……あの子を側妃にして寵愛なさるおつもりなのかも。私をお飾りの正妃にして。
「私のことも可愛いと言ったくせに」
恨み言は誰にも届かない。浮かれた気持ちは地に落ちて、自覚した想いを後悔した。
どうやら私は今世でも愛されないらしい。
人を笑いっぱなしの殿下を捨て置いて女の子達の元に戻り、お姫様ごっこを再開したまではよかった。
『わたくしが帰るまでにお部屋のお片付けは済ませておいてくださいませよ』と言って舞踏会に行く継母をまた殿下が笑ったが、それを無視したところまでもよかった。
そして魔法使いに変身して三姉妹に魔法をかけて、可愛らしいワンピース姿となった三人を城と称した遊具の元へと送り届けたところで、三人は口をそろえて尋ねてきたのだ。
「お姉ちゃん。王子様はどこ?」
王子様も継母が用意するのか!
慌てて周りを見渡すも、男の子達はどの子も遊びまわっていて暇そうな子は一人もいない。
お姫様達の期待の篭ったキラキラとした六つの目に冷や汗が伝う。
……こうなったら、継母兼魔法使い兼王子様(三人)を演じ切るしかないか……!?
「どうした。慌てているようだが」
腕まくりして腹をくくったところで、殿下が近付いてきた。
上着を腕に掛けて、流れる汗をシャツで拭っている殿下にハンカチを差し出す。王太子殿下の制服を汚すわけにいかないという、公爵家に生まれたものの性だ。
「実は、王子様が足りなくて……」
「王子様? ああ、男児が足りないのか」
ハンカチで拭って差し上げながら説明すると、殿下は合点がいったとばかりに膝に手を添えてお姫様達を見下ろした。
「一人ずつで悪いが、俺がお相手いただいてもよろしいかな。ご令嬢方」
小さなお姫様達に話しかける殿下の声はなんとも優しくて、ああこの方は本当の王子様なんだなぁと今更ながらに実感する。不覚にも少し胸が騒いだ。
本物の王子様の襲来に、お姫様達は三人で目を見合わせて、もじもじとしながら上目遣いになり、可愛らしく口を開いた。
「お兄ちゃんじゃあ、年上過ぎますわ。他の王子様をお願いします!」
ぶっ。
「…………おい」
「なん……なんです、殿下……ふふっ……」
「今すぐ笑うのを止めろ……!」
さすがの殿下も衆目の中で私を怒鳴ることは出来ないらしい。
いや、でもこれは……。
「殿下。チェンジ、ですわよ。チェンジ……ぶふっ」
「そんな言葉をどこで覚えてくるのだ! ……あとその笑い方は貴族令嬢としてどうかと思うぞ……っ」
仕返しとばかりにお腹を抱えて笑ってやれば、さすがに立ち上がった殿下の猛抗議にあった。
子供の言ったこととはいえ殿下は無下にしなかった。先ほど剣の試合をしていた男の子達三人を呼び戻してくださったのだ。
「良かったわね。素敵な王子様達が来てくださったわ」
安心して三人の背中を押した……まではよかったが、子供というのは本当に難しいものだなとつくづく思い知らされた。
「アイザックはわたしと踊るの!」
「ハンナはこの間もアイザックとおままごとしてたでしょ!? 今日はわたしとだもん!」
「ゾーイだってそうじゃん! 今日はわたしとだよ!」
よりにもよって三人の内一人が超絶モテ男だったのだ。
その気持ちもわからないでもない。
殿下と一番に試合をしていたアイザック君は、肩で切り揃えた赤茶色の髪に琥珀色の瞳をした少年だ。それも、鼻筋の通ったお顔に勝気な目は大人になればさぞ立派な風采の美丈夫になるだろう美少年だったのだ。
「これは確かに殿下でもチェンジと言われてしまいますわね……」
「しつこいぞ……」
殿下からの恨み声は無視して、腕を引っ張られて困っているアイザック君を救出した。
「三人とも落ち着きなさいな。そんなに引っ張っては駄目よ」
救出したアイザック君の腕に触れて、痛めていないか確認する。子供の力と言っても侮れない。むしろ遠慮のない分、力いっぱいに引っ張れば大人よりも痛いだろう。けど私もお医者さんじゃないからなぁ。自己申告がないと分からないな。
「大丈夫? 腕を痛めてはいない?」
顔を覗き込んで尋ねる。改めて見ても本当に綺麗な顔立ちをしている……が、そのお顔がなぜか真っ赤になってしまっていた。
「……大変。熱でもあるのかしら」
慌てておでこに手を当てて熱を計ろうとしたら、その手を取られた。
「やめてやれ。お前は本当にいくつになっても変わらんな」
呆れ口調の殿下は私からアイザック君を離して、背中に隠してしまわれた。
「変わらないとは、何の話です?」
「こちらの話だ」
その後も殿下は頑なに教えてくださらず、結局王子様は殿下と残りの二人が演じることとなり、この後の継母の出番はなかった。
夕方まで目一杯遊び、あっという間に帰る時間となった。それぞれが別れを惜しむ中、女の子達は泣きながら私の手をぎゅうと握りしめてくれている。
「お姉ちゃん、本当に帰っちゃうの?」
「泊っていけば?」
「お姉ちゃんともっと遊びたいよ」
あまりにも泣かれるので私も目の奥がじわりと熱くなる。
「またきっと来るわ。その時はまた遊びましょうね」
必ずまた来てあげよう。その時は絵本やおもちゃのお土産もたくさん用意して。……私のこと忘れてないといいけど。
「お姉さん」
子供達と別れを惜しんでいるとアイザック君に声をかけられた。
「あら、アイザック君。どうかなさったの?」
あまり遊んではいないけど、この子も私が帰るのを悲しんでくれているのなら嬉しいなぁとの気持ちを込めて笑顔を向ける。相変わらずお顔が真っ赤なのは夕日のせいだろうか。
アイザック君は綺麗な琥珀色の目を彷徨わせて何度も口ごもった様子だったが、意を決したように口を開いた。
「俺、いつか絶対に王様を守る騎士になります。だから、もしもなれたらその時は、俺と結婚してください!」
「…………」
じ…………。
人生初の愛の告白のお相手が十歳未満の男の子(美少年)だと──!!?
正直に言えばさすがに守備範囲外……だけど、この子なら十年もすれば立派なイケメンになるだろうし、もしかしてお買い得? 先物買いしておくべきか!?
贅沢にも悩んでしまった私の肩に、大きな手が乗った。
「アイザック。お前は剣の筋もよく、努力すればいずれ騎士となれるだろう。その力添えは惜しまないつもりだ。だからその時はこちらのご令嬢を守る剣となってほしい。──こちらは、王太子妃となる女性だからだ。お前にはやらん」
殿下だった。
優しくも先ほどにはない厳しさを伴った言葉にアイザック君は口を固く結び、拗ねるような目を殿下に向けていたが、殿下は決して譲らなかった。
帰りの馬車の中は沈黙に包まれていた。
先ほどの殿下の言葉が耳から離れない。
王太子妃になる女性だと言われた抗議をしなければと思うのに、どうしても言葉が口から出ていかない。
──お前にはやらん。だなんて。
「……アイザックは」
沈黙を破ったのは殿下だった。
「今年で八つになるらしい」
「……そうでしたの」
もしかして八つの子の言うことを真に受けるなよという話だろうか。
なんだか殿下は少し不機嫌そうに前を見つめていて、こちらに目を向けてくれなかった。
その様子に、なんだか騒いでいた気持ちが冷たく凪いでいくようで──。
「十八と二十八では、さして問題にもならないだろうな」
十八と……二十八?
「誰のことを仰っておられるのです?」
「……だから、十年後ならおかしくもない組み合わせだろう、と」
言っているのだと、消え入るような声で殿下は仰った。
十年後、ということは……今は十八歳と八歳……ああ、そういうことか。
私とアイザック君は十年後ならお付き合いしてもおかしくない年齢差だと仰っているのだ。この方は。
それが分かれば、憮然として前を見据えている姿がなんだか可笑しくなってくる。
「……旦那様が支えてくださるなら、目は移らないのではありませんか」
はっと見開いた殿下の綺麗な瞳がやっと私へと向いた。
アイザック君は女の子達に引っ張られて迷惑そうにしつつも振り払ったりしなかった。優しい子なんだろうと思う。きっと十年もすれば素敵な青年になるだろう。なのにどうしてこんなことを言ったんだろう。
──その理由はもう、わかる気がする。
膝の上に置いた手を取られ、握りしめられた。ゴツゴツとした手は硬くて、剣がお好きな殿下らしい。
「努力する。……お前は、俺の妃だ」
心臓の脈打つのが早くなり過ぎて痛くて苦しいほどなのに、なぜか心の中は暖かく幸せに満ちている。
ああ、私は。──この方が好きなんだわ。
私をまっすぐに見つめる碧眼も、大きな声で私を叱りつける唇もゴツゴツとした硬い手も。
……殿下はどうなのだろう。少なくとも、婚約を破棄したくないとは思っていただいているようだけど。
聞く勇気のないまま、無言で馬車は進み続けて、学院へと帰り着いた。
殿下は当然のように私室の前まで送り届けてくださった。
「本日はありがとうございました」
丁寧に膝を折り、なんだか震える声でお礼を言う。
「……ああ。また明日、だな」
いつもならさっさと部屋に入って扉を閉めてしまうのだが、気持ちを自覚してしまったからか、なんだか名残惜しい。
そんな私の内心などわかるはずもないのに、殿下は目を優しく細めて苦笑した。
「今日は疲れただろう。早く部屋に入って休みなさい。……明日もまた迎えに来るから」
「……きっとですよ。お待ちしていますからね」
「ああ。必ずだ」
手を掬い上げられ、甲に唇が落とされる。これまでの婚約した十年間で幾度となく繰り返された行為だというのに、手の甲から熱が全身に広がるようだった。
逃げるように部屋に入り、扉を閉める。どんどんと廊下からの光が細くなって、殿下が見えなくなっていく。
「……おやすみなさいませ。フェルナンド様」
「おやすみ。リシュフィ」
カチャリという扉の閉まる音が部屋に響いた。
それなのに、どうしても扉から離れられない。
先ほど心の中に生まれた疑問の答えを知りたい。
明日も来てくださるのだから慌てることはないのに、どうしても我慢できなくて、扉を開いて飛び出した。
今ならまだすぐ近くにいらっしゃるだろう。
追いかけて、尋ねるのだ。
『わたくしを愛してくださいますか』と。
もしも愛していただけるなら……私は今度こそ幸せに──。
角を曲がって寮の入り口に殿下のお姿を見つけ、半歩下がって姿を隠した。
頭の中に疑問符が次々に生まれ出て、動揺からか心臓が激しく騒ぐ。
寮の入り口にいたのは、殿下だけではなかった。もう一人。月明かりに照らされた綺麗な亜麻色の髪。
どうして、殿下と──アンリエッタ嬢が一緒にいるんだろう。
拳を握りしめて、胸を押さえて自らに落ち着けと言い聞かせる。きっと出るところを足止めされたとか、そんなことだ。きっと。
そう思うのに、それならばなぜ声を潜ませて、顔を近付けて話しているのか。その疑問の適切な答えがどうしても思い浮かばない。
混乱する私の目の前で、殿下は何かを受け取り、アンリエッタ嬢から離れて、歩き去る。その最中、たった数歩進んだところで殿下は立ち止まり、振り返った。
先ほどの馬車での瞳など比ではないほど真剣な眼差しがアンリエッタ嬢に注がれ、しばらくの間二人は見つめ合っていた。
胃をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような不快感に襲われて、その場から逃げ出す。
私室に飛び込み、背中で押して扉を閉め、そのまま崩れ落ちた。
可愛い女性。確かにそう仰っていた。
──あの子だったのね。確かにとても愛らしい子リスのような子だけど、それならどうして私との婚約を破棄してくれなかったのだろう。
レストリドの娘を捨てて、男爵家の娘に乗り換えるのは外聞が悪いからか。……あの子を側妃にして寵愛なさるおつもりなのかも。私をお飾りの正妃にして。
「私のことも可愛いと言ったくせに」
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