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長編版
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朝になり、体を起こすもあまりにも気怠くて額に掌を当ててみる。
熱っぽい気がしなくもない。
ふらふらとそのまま背中からベッドへと倒れ込み、深く息を吐いた。
今日は休んでしまおう。なんだか殿下と顔を合わせたくない。
私の決意に反応したようにノックの音がして、ああまたご友人を遣わしてくださったのかなと体を起こす。
ガウンを引っ掛けて今日は休む旨を伝えようと扉を開き──見事な金髪に息を呑んだ。
「昨日は迎えに行けずすまなかったな。……なんだ、寝坊でもしたのか」
相変わらず顔色の悪い殿下は私の格好に目を向けて、小さく笑みを溢す。
……本当に、失礼な男だ。
「体調が優れませんので、本日は部屋で休んでおります」
だから今日は、授業の度に迎えに来なくて良いですよ。……今のままではアンリエッタ嬢との逢瀬の時間もないだろうし。
「たしかに顔色が悪いようだが……風邪か。熱はあるのか? 何か欲しいものはないか?」
「いいえ、特に……」
社交辞令に馬鹿正直に答える必要はないだろう。首を振った。
「それならまた後ほど様子を見に来るから、ゆっくり休んでいなさい」
「来ていただかなくて結構です。一人でいられますから」
お手間を増やしたかったわけじゃないし殿下のお顔を見たくないから休むのだ。再度首を振れば、殿下はしばらく沈黙し、目を伏せた。
「そうか。…………そうだろうな」
小さく呟いて、立ち去ろうとした殿下の足がピタリと止まった。
振り返り、目を大きく見開いた殿下は「まだ、なにかあるのか」と問いかけてきた。
「…………っ」
すぐに手を離した。
無意識に殿下の袖口を掴んでしまっていたらしい。
「も、申し訳ございません。なんでもありませんから……っ」
恥ずかしさと混乱で、視界がじわじわと滲んでいく。
立ち去る殿下の袖を掴むなんて、まるで──行かないでと言ってしまったみたいだ。
「本当に、一人でいられますから、行ってください。大丈夫ですから」
また袖を取らないよう両手を握りしめて胸に押し抱いて言う。
早く立ち去って欲しい。それは本当に本心なのに。
「…………誰か、呼んでくるか」
混乱に陥る私の耳に届いたのは、苦悶の表情を浮かべる殿下の、震える声だった。
両腕を掴まれ、目を覗き込まれた。
「誰を呼んでくる。……お前は誰にそばにいて欲しいと思っている?」
まるで私の目の奥を探るように、至近距離から覗き込まれて息が止まる。
いつまでも答えない私に、殿下はハッとしたように腕を解放し、体を離した。
「言えるわけがないか…………俺が婚約者でいるうちは」
「なんの話を……」
「お前は寝室で寝ていなさい。今日は俺がそばに居よう。……婚約者なのだから、当然のことだ」
問いかけの声は殿下にかき消され、殿下は近くを通る生徒に私とご自分が休む旨を伝えて私室へと入ってきた。
私の部屋はソファや勉強するためのデスクのある居室と寝室に分かれた作りをしている。
居室と廊下を繋ぐドアを大きく開けたまま、殿下は寝室の扉へと向かった。
──どうして廊下への扉を開けたままなんだろう。いつもは閉めてしまわれるのに。
私の疑問など知らない殿下は寝室への扉のノブに手をかけた。
「何か欲しいものがあれば言いなさい。俺はこちらにいるから」
こちらとは、居室のことらしい。
殿下に会いたくなくてお休みするようなものなのに。それでは意味がないのに。
「ここに居てくださいますの……?」
殿下が私を選んでくれたという事実に喜ぶ自分が心の中にいて、泣きたくなる。
「ああ。ほら、早くベッドに入れ。いや先に朝食かな。食堂に行って何かもらってくるから、大人しく寝ていなさい」
私の背に手を当てて寝室に押し込もうとする殿下の手を取り、目を合わせた。
「…………本当に戻ってきてくださいますか?」
殿下の綺麗な碧眼に私は映っているのか。その瞳の中にまだ私の居場所はあるのか。それが知りたくて、真っ直ぐに合わせ続けた視線が──逃げるように逸らされた。
「ああ。……婚約者、だからな」
取った手は外されて、スタスタと扉へ向かう足音だけがした。
「寝ていろ。朝食を取って来──」
「戻らなくて結構です」
私の声は意識せず硬く重く響いて、殿下の足を止めるのに十分だった。
私と目を合わせることも煩わしく、手に触れたくもないとまで思われているなんて、思ってもみなかった。
手を振り払われたのは初めてではないのに、以前にもあったことなのに、その不愉快さはあの日の比ではない。
「わたくしは一人でいられますから。どうぞ殿下は授業に出てくださいませ」
「……もう休みの連絡はしてあるし、お前も食堂まで向かうのは辛いだろう。婚約者なのだから、気にせず──」
「婚約者など、名ばかりではありませんか!」
婚約者だから当然。婚約者だから戻ってくる。
その肩書がなければ私など相手にしなかったと言われているような、ひどく不快な気分だ。
「わたくしは一人でいられると言っています! 早く出て行ってください!!」
苛立ちのままぶつけると、殿下の眉が険しく寄った。
「お前は一人でいられるとばかり言うが、まさか俺が居なくなってから誰か連れ込む気なのではないだろうな?」
この方は。
ご自分を棚に上げて、なんてことを言うのか──。
「よくもそのようなことが言えますわね。それは貴方様の方なのではありませんか?」
「俺が浮気したとでも言いたいのか!?」
詰め寄ってくる殿下を見上げ、睨みつけた。──これほどこの方を憎いと思ったのは初めてだ。
「……浮気とは言いませんでしょう。どうせ私達は両家で決められただけの婚約者で、愛し合っているわけではないのですから」
分かり切ったことだ。今更、殿下の心変わりを責める権利なんて私にはない。
「出て行ってくださいませ。婚約も早々に破棄してください!」
けれど心変わりした殿下の、お飾りの正妃になんてなりたくない。
「わたくしはわたくしを愛してくださる方と、結婚したいのです!!」
お願いしますと頭を下げる。もうお顔を見たくもなかった。
しばらく立ち尽くしたのちに、殿下は体を翻して部屋から出て行った。
息を吐き、寝室へと移動してベッドに倒れ込む。
やはり熱があったらしい。枕がひんやりとして、気持ちよかった。
熱っぽい気がしなくもない。
ふらふらとそのまま背中からベッドへと倒れ込み、深く息を吐いた。
今日は休んでしまおう。なんだか殿下と顔を合わせたくない。
私の決意に反応したようにノックの音がして、ああまたご友人を遣わしてくださったのかなと体を起こす。
ガウンを引っ掛けて今日は休む旨を伝えようと扉を開き──見事な金髪に息を呑んだ。
「昨日は迎えに行けずすまなかったな。……なんだ、寝坊でもしたのか」
相変わらず顔色の悪い殿下は私の格好に目を向けて、小さく笑みを溢す。
……本当に、失礼な男だ。
「体調が優れませんので、本日は部屋で休んでおります」
だから今日は、授業の度に迎えに来なくて良いですよ。……今のままではアンリエッタ嬢との逢瀬の時間もないだろうし。
「たしかに顔色が悪いようだが……風邪か。熱はあるのか? 何か欲しいものはないか?」
「いいえ、特に……」
社交辞令に馬鹿正直に答える必要はないだろう。首を振った。
「それならまた後ほど様子を見に来るから、ゆっくり休んでいなさい」
「来ていただかなくて結構です。一人でいられますから」
お手間を増やしたかったわけじゃないし殿下のお顔を見たくないから休むのだ。再度首を振れば、殿下はしばらく沈黙し、目を伏せた。
「そうか。…………そうだろうな」
小さく呟いて、立ち去ろうとした殿下の足がピタリと止まった。
振り返り、目を大きく見開いた殿下は「まだ、なにかあるのか」と問いかけてきた。
「…………っ」
すぐに手を離した。
無意識に殿下の袖口を掴んでしまっていたらしい。
「も、申し訳ございません。なんでもありませんから……っ」
恥ずかしさと混乱で、視界がじわじわと滲んでいく。
立ち去る殿下の袖を掴むなんて、まるで──行かないでと言ってしまったみたいだ。
「本当に、一人でいられますから、行ってください。大丈夫ですから」
また袖を取らないよう両手を握りしめて胸に押し抱いて言う。
早く立ち去って欲しい。それは本当に本心なのに。
「…………誰か、呼んでくるか」
混乱に陥る私の耳に届いたのは、苦悶の表情を浮かべる殿下の、震える声だった。
両腕を掴まれ、目を覗き込まれた。
「誰を呼んでくる。……お前は誰にそばにいて欲しいと思っている?」
まるで私の目の奥を探るように、至近距離から覗き込まれて息が止まる。
いつまでも答えない私に、殿下はハッとしたように腕を解放し、体を離した。
「言えるわけがないか…………俺が婚約者でいるうちは」
「なんの話を……」
「お前は寝室で寝ていなさい。今日は俺がそばに居よう。……婚約者なのだから、当然のことだ」
問いかけの声は殿下にかき消され、殿下は近くを通る生徒に私とご自分が休む旨を伝えて私室へと入ってきた。
私の部屋はソファや勉強するためのデスクのある居室と寝室に分かれた作りをしている。
居室と廊下を繋ぐドアを大きく開けたまま、殿下は寝室の扉へと向かった。
──どうして廊下への扉を開けたままなんだろう。いつもは閉めてしまわれるのに。
私の疑問など知らない殿下は寝室への扉のノブに手をかけた。
「何か欲しいものがあれば言いなさい。俺はこちらにいるから」
こちらとは、居室のことらしい。
殿下に会いたくなくてお休みするようなものなのに。それでは意味がないのに。
「ここに居てくださいますの……?」
殿下が私を選んでくれたという事実に喜ぶ自分が心の中にいて、泣きたくなる。
「ああ。ほら、早くベッドに入れ。いや先に朝食かな。食堂に行って何かもらってくるから、大人しく寝ていなさい」
私の背に手を当てて寝室に押し込もうとする殿下の手を取り、目を合わせた。
「…………本当に戻ってきてくださいますか?」
殿下の綺麗な碧眼に私は映っているのか。その瞳の中にまだ私の居場所はあるのか。それが知りたくて、真っ直ぐに合わせ続けた視線が──逃げるように逸らされた。
「ああ。……婚約者、だからな」
取った手は外されて、スタスタと扉へ向かう足音だけがした。
「寝ていろ。朝食を取って来──」
「戻らなくて結構です」
私の声は意識せず硬く重く響いて、殿下の足を止めるのに十分だった。
私と目を合わせることも煩わしく、手に触れたくもないとまで思われているなんて、思ってもみなかった。
手を振り払われたのは初めてではないのに、以前にもあったことなのに、その不愉快さはあの日の比ではない。
「わたくしは一人でいられますから。どうぞ殿下は授業に出てくださいませ」
「……もう休みの連絡はしてあるし、お前も食堂まで向かうのは辛いだろう。婚約者なのだから、気にせず──」
「婚約者など、名ばかりではありませんか!」
婚約者だから当然。婚約者だから戻ってくる。
その肩書がなければ私など相手にしなかったと言われているような、ひどく不快な気分だ。
「わたくしは一人でいられると言っています! 早く出て行ってください!!」
苛立ちのままぶつけると、殿下の眉が険しく寄った。
「お前は一人でいられるとばかり言うが、まさか俺が居なくなってから誰か連れ込む気なのではないだろうな?」
この方は。
ご自分を棚に上げて、なんてことを言うのか──。
「よくもそのようなことが言えますわね。それは貴方様の方なのではありませんか?」
「俺が浮気したとでも言いたいのか!?」
詰め寄ってくる殿下を見上げ、睨みつけた。──これほどこの方を憎いと思ったのは初めてだ。
「……浮気とは言いませんでしょう。どうせ私達は両家で決められただけの婚約者で、愛し合っているわけではないのですから」
分かり切ったことだ。今更、殿下の心変わりを責める権利なんて私にはない。
「出て行ってくださいませ。婚約も早々に破棄してください!」
けれど心変わりした殿下の、お飾りの正妃になんてなりたくない。
「わたくしはわたくしを愛してくださる方と、結婚したいのです!!」
お願いしますと頭を下げる。もうお顔を見たくもなかった。
しばらく立ち尽くしたのちに、殿下は体を翻して部屋から出て行った。
息を吐き、寝室へと移動してベッドに倒れ込む。
やはり熱があったらしい。枕がひんやりとして、気持ちよかった。
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