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長編版
36 アシュレイ視点
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目の前を歩く大きな背中に「おや?」と首を傾げた。
今日は休みだと聞いていたはずだが、向かい来る生徒達を海を割るように進むその姿は間違えようもない。
「殿下。本日はお休みにされるのではなかったのですか?」
雲の上の人ではあるが、親しい友人でもあるその人に気安く声を掛けて、振り返った瞳のあまりの鋭さに全身の毛が逆立つようだった。
「出ることにしただけだ。何か用か」
落ち着いた声音とは裏腹に、まるで詰問のように言葉が重く厳しい。
この方の近くに仕えて十年以上になるが、これほどの怒りを露わにしたところは初めて見た。
しかし、ここは声を掛けたことを詫びて出直すべきところだろうが、それでは側仕えなど務まらない。
「何かございましたか」
笑みを消して問い返す。
しかし殿下は厳しさを緩めることはなく「なにも」と答えられただけだった。
この「なにも」は拒絶の意味だ。それはわかる。なにもないわけがない。
僕にすら話せないことがあったとみるべきだった。
「そうでしたか。失礼いたしました」
一度引こう。何があったか調べなければ。
寮の私室の扉の前で辺りを見回し、誰もいないことを確認してドアノブに手をかけた。
男子寮の私室は鍵がかからない作りになっている。
私室の掃除は各々ではなく学園が雇ったハウスキーパーが行うからだ。そして今日がその掃除の日だった。ここに何かあるなら、掃除が入る前に探さなければ。
静かに扉を閉めて、振り返る。
「これが知られたらスコット家は終わりかな」
自らを奮い立たせるために呟く。
主君の私室への不法侵入。
他国であれば、知られた時点で僕は処刑。家は取り潰されるだろうが──あの優しい殿下なら許してくれるだろう。
デスクの引き出しを開けて、書類を捲る。どれも殿下から相談を受けたものばかりだ。
そもそもご公務であれば殿下はまず間違いなく僕の耳に入れてくださる。陛下がレストリド公爵閣下にそうしておられるように。
──だから、公務に関することじゃない。
と、いうよりも。
まず間違いなくリシュフィ嬢に関することだろう。
お部屋に出向かれていたのだから。
デスクの引き出しの後は、キャビネットの中を検め、ワードローブを開ける。しかし特に変わったところはない。
リシュフィ嬢に会いに行くか? いや、体調が悪いご令嬢の元へ押しかけることはできない。
どうしたものかと悩み、無意識に部屋の隅にあるくずかごへと目線を移した。
小さな紙片が、積まれている。
その一欠片を手に取った。黒いインクで文字が書かれているようだ。
この寮では火事を防ぐために火を使うことが禁止されている。しかし王族や貴族令息の通う学園だからこそ、ここで出たゴミはしかるべく場所に運ばれて、厳重に処分されることになっている。
つまりこれは殿下が処分するために捨てたもので──って当たり前だな。くずかごに入れてあるのだから。
しかし何かが引っ掛かり、ハンカチを取り出してすべての紙片を包んだ。
何食わぬ顔で部屋から出れば、隣の部屋にハウスキーパーが入っていくところだった。
安堵の息を吐きつつ寮から出たところで、通路に仁王立ちする見事な巻髪のご令嬢と真正面から目が合った。
「いま、お時間よろしいかしら。お話があるのですけれど」
「これは愛しい人。君から声をかけてくれるなんて今日ほど幸せな日はないな」
正直に言えば、今ここで会うのは有難くなかった。早くポケットに忍ばせたものを確認したい。
しかし内心焦る僕にも、このご令嬢は鞭を打つように厳しかった。
「戯言はそこまでにしてくださいませ。……殿下のあのご様子は何事です。リシュフィは熱を出して寝込んでおりますし、何かあったとしか思えません。あなた様なら何かご存じでしょう」
どうやら殿下のご様子は周知されてしまったらしい。
「それが、僕もなにがなにやらでね。今から調べるところなんだ」
こう言えばこの令嬢はきっといつも通り僕に任せて引いてくれるだろうと思っての言葉だったが、エレシアは当然のように頷いた。
「そうですか。では参りましょう。わたくしもお手伝いいたします」
「え?」
「何を呆けておられるのです。調べるのでしょう。のんびりしている暇はありませんわよ」
ずんずんとこちらに歩みを進めるエレシアの妙な迫力に圧倒されてしまう。
いつもの彼女ならお任せしますと言って引くはずなのに。しかも手伝うって……それはちょっと、正直困る。
「えっと……」
困るが、急いでいるのも確かだったから、単刀直入に切り出した。
「今から僕の部屋に篭るつもりだから……一人で、大丈夫だよ?」
好きな人と自室で二人きりはちょっと勘弁してほしいところだ。
エレシアもきっと嫌がるだろうし。
そう思ったのに、エレシアは見惚れそうなほど美しく微笑んだ。
「……まさか、スコット公爵家嫡男ともあろうあなた様が、わたくしに何かなさるおつもりで?」
僕に許された答えなど、一つしかない。
「いいえ」
では参りますわよと先陣を切るエレシアの後ろを慌てて付いていく。
……リシュフィ嬢のためなら僕の部屋にだって来れちゃうってことだよねぇ。
なんだか妬いてしまいそうだった。
「……よく、回収出来ましたわね……」
やや顔を青ざめさせたエレシアは、デスクの上に並べた大量の紙片を見て慄いた。
「エレシアは関係ないってちゃんと殿下に伝えるから大丈夫だよ」
苦笑して言うも、エレシアは「そんな問題ではありませんわよ!」といつもの調子で怒鳴った。
「これは一朝一夕では終わりそうもありませんわね」
紙片はかなり細かく千切られていて、殿下の決して世に出さないという強い意志を感じるほどだった。
だからこそ、それほどのことがこの紙に書かれていると考えていい。
「やるしかないね。ある程度内容がわかれば予測もできるだろうし」
ピンセットを取り出して、並べていく。
愛する人と顔を突き合わせての作業だというのに、色気のかけらもない日々が続いた。
授業の合間を縫って日に日に復元されていく書類に、初めこそ他愛もない話をしながらだった僕達はいつからか無言で作業を進めるようになって、そしてついにその全貌が明らかになった。
真っ白になるほど握り込んでいる拳に手を重ねる。
計り知れない怒りに体を震わせるエレシアの肩を抱き、同じく怒りが激しく沸き上がるのを感じたが、それと同時に脱力しそうなほど呆れる思いも内心に共存していた。
「……まさか、あの方はこんなものを信じたのか」
僕の内心を正確に表した呟きだったが、エレシアの中には怒りしかなかったらしい。
「抗議して参ります」
「待って。証拠もなしに犯人扱いするのはまずいよ」
誰の仕業かは明らかだが。
「言い逃れできない証拠を用意してからじゃないと……それに、卒業パーティーはもうすぐだ」
それまでになんとか解決して仲直りしてもらいたいところだが、紙はごく普通のものだしインクも一般的な黒。
どう調べたものか……。
エレシアと二人で顔を見合わせほんの少し途方に暮れた。
間に合えばいいが。
今日は休みだと聞いていたはずだが、向かい来る生徒達を海を割るように進むその姿は間違えようもない。
「殿下。本日はお休みにされるのではなかったのですか?」
雲の上の人ではあるが、親しい友人でもあるその人に気安く声を掛けて、振り返った瞳のあまりの鋭さに全身の毛が逆立つようだった。
「出ることにしただけだ。何か用か」
落ち着いた声音とは裏腹に、まるで詰問のように言葉が重く厳しい。
この方の近くに仕えて十年以上になるが、これほどの怒りを露わにしたところは初めて見た。
しかし、ここは声を掛けたことを詫びて出直すべきところだろうが、それでは側仕えなど務まらない。
「何かございましたか」
笑みを消して問い返す。
しかし殿下は厳しさを緩めることはなく「なにも」と答えられただけだった。
この「なにも」は拒絶の意味だ。それはわかる。なにもないわけがない。
僕にすら話せないことがあったとみるべきだった。
「そうでしたか。失礼いたしました」
一度引こう。何があったか調べなければ。
寮の私室の扉の前で辺りを見回し、誰もいないことを確認してドアノブに手をかけた。
男子寮の私室は鍵がかからない作りになっている。
私室の掃除は各々ではなく学園が雇ったハウスキーパーが行うからだ。そして今日がその掃除の日だった。ここに何かあるなら、掃除が入る前に探さなければ。
静かに扉を閉めて、振り返る。
「これが知られたらスコット家は終わりかな」
自らを奮い立たせるために呟く。
主君の私室への不法侵入。
他国であれば、知られた時点で僕は処刑。家は取り潰されるだろうが──あの優しい殿下なら許してくれるだろう。
デスクの引き出しを開けて、書類を捲る。どれも殿下から相談を受けたものばかりだ。
そもそもご公務であれば殿下はまず間違いなく僕の耳に入れてくださる。陛下がレストリド公爵閣下にそうしておられるように。
──だから、公務に関することじゃない。
と、いうよりも。
まず間違いなくリシュフィ嬢に関することだろう。
お部屋に出向かれていたのだから。
デスクの引き出しの後は、キャビネットの中を検め、ワードローブを開ける。しかし特に変わったところはない。
リシュフィ嬢に会いに行くか? いや、体調が悪いご令嬢の元へ押しかけることはできない。
どうしたものかと悩み、無意識に部屋の隅にあるくずかごへと目線を移した。
小さな紙片が、積まれている。
その一欠片を手に取った。黒いインクで文字が書かれているようだ。
この寮では火事を防ぐために火を使うことが禁止されている。しかし王族や貴族令息の通う学園だからこそ、ここで出たゴミはしかるべく場所に運ばれて、厳重に処分されることになっている。
つまりこれは殿下が処分するために捨てたもので──って当たり前だな。くずかごに入れてあるのだから。
しかし何かが引っ掛かり、ハンカチを取り出してすべての紙片を包んだ。
何食わぬ顔で部屋から出れば、隣の部屋にハウスキーパーが入っていくところだった。
安堵の息を吐きつつ寮から出たところで、通路に仁王立ちする見事な巻髪のご令嬢と真正面から目が合った。
「いま、お時間よろしいかしら。お話があるのですけれど」
「これは愛しい人。君から声をかけてくれるなんて今日ほど幸せな日はないな」
正直に言えば、今ここで会うのは有難くなかった。早くポケットに忍ばせたものを確認したい。
しかし内心焦る僕にも、このご令嬢は鞭を打つように厳しかった。
「戯言はそこまでにしてくださいませ。……殿下のあのご様子は何事です。リシュフィは熱を出して寝込んでおりますし、何かあったとしか思えません。あなた様なら何かご存じでしょう」
どうやら殿下のご様子は周知されてしまったらしい。
「それが、僕もなにがなにやらでね。今から調べるところなんだ」
こう言えばこの令嬢はきっといつも通り僕に任せて引いてくれるだろうと思っての言葉だったが、エレシアは当然のように頷いた。
「そうですか。では参りましょう。わたくしもお手伝いいたします」
「え?」
「何を呆けておられるのです。調べるのでしょう。のんびりしている暇はありませんわよ」
ずんずんとこちらに歩みを進めるエレシアの妙な迫力に圧倒されてしまう。
いつもの彼女ならお任せしますと言って引くはずなのに。しかも手伝うって……それはちょっと、正直困る。
「えっと……」
困るが、急いでいるのも確かだったから、単刀直入に切り出した。
「今から僕の部屋に篭るつもりだから……一人で、大丈夫だよ?」
好きな人と自室で二人きりはちょっと勘弁してほしいところだ。
エレシアもきっと嫌がるだろうし。
そう思ったのに、エレシアは見惚れそうなほど美しく微笑んだ。
「……まさか、スコット公爵家嫡男ともあろうあなた様が、わたくしに何かなさるおつもりで?」
僕に許された答えなど、一つしかない。
「いいえ」
では参りますわよと先陣を切るエレシアの後ろを慌てて付いていく。
……リシュフィ嬢のためなら僕の部屋にだって来れちゃうってことだよねぇ。
なんだか妬いてしまいそうだった。
「……よく、回収出来ましたわね……」
やや顔を青ざめさせたエレシアは、デスクの上に並べた大量の紙片を見て慄いた。
「エレシアは関係ないってちゃんと殿下に伝えるから大丈夫だよ」
苦笑して言うも、エレシアは「そんな問題ではありませんわよ!」といつもの調子で怒鳴った。
「これは一朝一夕では終わりそうもありませんわね」
紙片はかなり細かく千切られていて、殿下の決して世に出さないという強い意志を感じるほどだった。
だからこそ、それほどのことがこの紙に書かれていると考えていい。
「やるしかないね。ある程度内容がわかれば予測もできるだろうし」
ピンセットを取り出して、並べていく。
愛する人と顔を突き合わせての作業だというのに、色気のかけらもない日々が続いた。
授業の合間を縫って日に日に復元されていく書類に、初めこそ他愛もない話をしながらだった僕達はいつからか無言で作業を進めるようになって、そしてついにその全貌が明らかになった。
真っ白になるほど握り込んでいる拳に手を重ねる。
計り知れない怒りに体を震わせるエレシアの肩を抱き、同じく怒りが激しく沸き上がるのを感じたが、それと同時に脱力しそうなほど呆れる思いも内心に共存していた。
「……まさか、あの方はこんなものを信じたのか」
僕の内心を正確に表した呟きだったが、エレシアの中には怒りしかなかったらしい。
「抗議して参ります」
「待って。証拠もなしに犯人扱いするのはまずいよ」
誰の仕業かは明らかだが。
「言い逃れできない証拠を用意してからじゃないと……それに、卒業パーティーはもうすぐだ」
それまでになんとか解決して仲直りしてもらいたいところだが、紙はごく普通のものだしインクも一般的な黒。
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