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長編版
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「わたくしでは、ありません……」
否定の言葉を繰り返す。体の震えと共に声までひどく震えていた。
アシュレイ様の目には紛れもない怒りがあって、エレシアに視線を移せば赤い瞳のあまりの鋭さに震えが酷くなる。
これは、殿下以外の男性に向けたラブレターなのは明らかで、最後には私の署名がくっきりと入っている。
もちろん私が書いたものではない。
しかしどれだけ私が否定しようが、一つだけ、ここにいる三人にとっては明らかな事実がある。
私がこの十年間、確かに殿下との婚約破棄を願っていたのだという事実が。
「落ち着きなさい」
恐怖に冷えた手先が温かく包まれて、背中にも温かな手が添えられ、我に返った。
「殿下……」
「これはお前が、書いたものではないのだな?」
詰問ではなく、確認の声音で問われて縋る思いで頷きを返す。
殿下は顔を歪めて、私を胸に抱き寄せた。
「そうか。……そうか……」
噛み締めるように言葉が耳元に落とされて、その度に抱きしめられる力が強まった。
泣きたくなるくらいに。
「わたくしではありません、殿下……」
再び言葉を落とせば、殿下は私を胸から離し、顔を覗き込んだ。
「お前を疑ってすまなかった。初めから聞いておればこんなことにはならなかったのにな。お前が書いていないと言うなら、それがなによりも信じられる言葉だったのに。本当に、悪かった。……これからは必ず直接確認する。もう二度とこのような思いをするのは御免だ」
これからというものが私達にはもうないことを、この方はお忘れのようだった。けどそれでいい。私だってもう殿下のお側を離れられない。
もう一度、私の体を強く抱きしめた殿下はいつもの凛々しいお顔になって、ご友人へと向き直った。
「……というわけだ。アシュレイ。それはリシュフィ嬢が書いたものではない。これ以降、リシュフィ嬢を疑うことは、俺が許さない」
なんとも言えない顔を返すアシュレイ様の横から、エレシアが楚々と滑り出てきた。
そして「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」と挙手して発言したエレシアは、これでもかというほどお淑やかに微笑んでいる。
「なにかな?」
普段なら殿方同士の話に割って入るエレシアではないから、殿下はきょとんとしつつも発言を許した。
エレシアの笑顔に迫力が増したように見えたのは、決して私の気のせいではない。
「このようなお手紙をリシュフィ様がお書きになったなどと信じられたのは、殿下だけでございます」
会場に静寂が降りた。
そうか、とだけ呟いた殿下に私はそっと「エレシアは怒ると怖いと言いましたでしょう」と耳打ちしておいた。
心の傷が深い殿下を慰めつつ、未だ迫力ある笑顔を殿下にぶつけているエレシアを宥めつつ、ふと疑問が生まれた。
「……では、そのお手紙はなんだったのでしょう? わたくしと同姓同名の方がいらっしゃるのかしら」
頰に手を当て首を傾げる。
項垂れていた殿下が「いや……」と溢した。
「レストリドの名前はお前の家でしかあり得ないし、本家の娘と同じ名前を付ける親はいない。それに俺が受け取った手紙はお前のノートに挟まっていたものらしい。そのノートは間違いなくお前の持ち物だっただろう」
殿下の声に力が戻る。
険しくなったお顔は私から一人私を睨む少女へと向いた。
「……どうして俺に渡した手紙と同じものをお前が持っているのか。聞かせてもらわねばならないな。ビストア男爵令嬢」
※
「……おやすみなさいませ。フェルナンド様」
瞳を真っ直ぐに見つめてくるリシュフィ嬢の姿が細くなり見えなくなっていく。
彼女は知らないだろう。俺がどれほど閉まるこの扉を開いて抱きしめてしまいたい衝動を抑えていたか。
そんなことをして「セクハラ王子!」などと寮の廊下で叫ばれては建国以来の恥だ。まだそのような振る舞いを許されていない以上、我慢するしかない。
明日も迎えにいくと伝えて、きっとですよと念を押したリシュフィ嬢はあまりにも──愛らしかったというのに。
しかし、もしや抱きしめても許してくれたのではないかと思えるほど、今日のリシュフィ嬢との間に纏う空気は柔らかく穏やかで、孤児院で子供達と遊ぶ姿には、子供は何人いてもいいなと密かに浮かれていた。
子供と共にはしゃぐ婚約者の姿を思い出して、口元が緩む。
努力しよう。リシュフィ嬢が他に目を向けないように。……愛していると伝えても、今なら受け入れてくれるだろうか。
「殿下」
浮かれる俺を呼び止めた声はどこかで聞いたことがある気がした。
振り返れば見覚えのある亜麻色が見え、同時にアシュレイから聞いた馬鹿馬鹿しい噂を思い出した。
一人になったのを見計らったようなタイミングで声をかけられたことといい、俺一点に合わせた媚びた目といい、何をどうすればリシュフィ嬢という美しく愛らしい婚約者がいながら、コレに手を付けるというのか。せっかくリシュフィ嬢との関係がやや進展したというのに、また下らない噂を流されては敵わない。
視線を外し、声を無視して歩を進めた。相手にして噂を立てられるなら、相手にしなければ良いのだ。リシュフィ嬢の友人方のような知性と教養を備えた令嬢にこのような振る舞いをしては失礼にあたるが、この娘にはこれで良い。
しかし数歩ほど進んだところで、めげないらしい娘が慌てて声を上げた。
「殿下! あの、私、リシュフィ様の落とし物を預かっているんです!」
……落とし物?
思わず足を止めてしまい、その隙に娘は大股で近付いてきてしまった。突き付けられたのは、見覚えのあるノートだ。
「これ、リシュフィ様のなんですが落とされていたんです。殿下にお返ししてもよろしいですか?」
女子寮にいるのだから、直接届けたら良いのではないか? そんな当たり前の疑問も、口に出す前に受け取ってしまった。
ついリシュフィ嬢と会う口実になると考えての行動だったが、今の俺には婚約者殿の送り迎えを許されたという大義名分があるのだった。……慣れた習慣と言うものはなかなか抜けないらしい。
「わかった。返しておこう」
いつもの癖で礼を言いそうになって止める。必要最低限の会話で留めて立ち去ろう。期待を持たせても悪い。
そして身を翻し、出入り口に向かおうとして、前に回り込まれた。
「あ、あの、そのノートの中に手紙が入っていたんです。それで驚いてしまって……リシュフィ様が──」
「……お前は俺の婚約者のノートを覗き、挟まれていた手紙を無断で読んだのか?」
「え?」
回り込まれた無礼も、その発言への驚きで全て吹き飛んだ。異様な娘だとは思っていたが、まさか人の書いた手紙を勝手に読むほどとは。
「ノートまでなら持ち主を特定するために開くことはあるだろうが、挟まっていた手紙を無断で読むのはあまりにも無作法だとは思わないのか」
婚約者への無礼な振る舞いに内心苛立つ。しかしあまり言って泣かせてしまっては目覚めが悪い。視線を外して立ち去ろうとした背中に慌てた声がかけられた。
「──リシュフィ様は、殿下と婚約破棄したいって書いてあったんですよ!」
……………………。
物的証拠を残すんじゃない、あのアホ女!
密かに婚約者を罵り「リシュフィ嬢の冗談だ。決して他言しないように」と言い含める。
明日、手紙を突き付けて叱っておかなければ……。証拠になるものは残すんじゃないと。
「冗談なんかじゃありません! 殿下もお読みになればお分かりになりますよ!」
「ふざけるんじゃない。いくら婚約者とはいえ手紙を盗み見るなど恥知らずのすることだ」
この娘は俺がリシュフィ嬢の気持ちを知って憤れば良いとでも思っているのか、しきりに読むことを進めてきたが、人の手紙を読むなどとんでもないことだ。
それに婚約を破棄したがっていることは今更騒ぐほどのことじゃない。いつものことだ。
「とにかく、騒ぎ立てるんじゃない。公爵家の令嬢に対して下らない流言を広げれば、お前を罰することも出来るのだぞ」
あえて厳しい言い方をして、さっさと立ち去る。思ったよりも長い時間話をしてしまった。早いところ離れて先ほどの可愛らしいリシュフィ嬢に思いを馳せたい。
何か言いたげな瞳を向けてきていたリシュフィ嬢の姿を思い出し、もしも愛していると伝えたらどのような表情を見せてくれるのか。あまりにも可愛い婚約者に、明日にでも実行してしまいそうな逸る気持ちを抑えた。
「殿下と婚約破棄して、別の男性のそばにいたいって書いてあったんですよ!?」
その背に投げつけられた言葉に心臓が止まるかと思った。
「別の男性とは誰だ」
無意識に尋ねていて、娘は喜色を浮かべた。
「相手の名前は書いてませんでしたけど、でも確かにあなたと並びたいって書いてありました。リシュフィ様は殿下の思っているような女性じゃありません!」
「声を落とせ。大きな声を出すんじゃない」
この娘の話は十中八九嘘であろうが、それでもこんな話をしていることが知られてはリシュフィ嬢にとって大変な不名誉となる。知らずに声を潜める形になった。
「その手紙が証拠ですよ。読まれれば分かりますから」
そのようなことをしていいはずがない。これはリシュフィ嬢のプライバシーであり、俺はそこに踏み込んでいい立場にいないのだから。
しかしこの娘が嘘を付いているに決まっていると自分に言い聞かせながらも、俺の頭はリシュフィ嬢の相手となりうる男を探していた。
アシュレイは、あり得ない。長い間友人として過ごしてきたうえに、アシュレイはエレシア嬢を愛している。もしもリシュフィ嬢から愛を告げられていたら俺に真っ先に報告するはずだ。
護衛騎士のアランはどうだ。在学中や幼い頃から親しくしていた様子ではあったが……茶目っ気がありながらも実直なあの男の忠誠を疑うことはできない。本日も婚約者殿はたいそうお綺麗でが口癖の男ではあるが、信用はしている。
──なら、誰だ。リシュフィ嬢はいったい誰を……。
その答えは手元にある封筒を開ければわかる。わかるが……これを開けてしまえば、リシュフィ嬢からの信頼を全て失うことと同義だ。それだけは──。
この娘が嘘を付いていてくれれば良いと思った。他愛もない話を、エレシア嬢にでも書いていたら。そうだ。そうに、決まっている。
抗いがたい誘惑に負けた自己嫌悪で酷い吐き気を催した。いや、それだけではないだろう。
「良いか。このことは他言無用だ。もしも噂が流れればお前が流したものとみなし、男爵家へ処分を下すこととなる」
余裕なく、脅しの言葉を投げつける。このようなことを言われたら普通の娘であれば震えあがるだろうが、この娘は徹頭徹尾普通ではなかった。
「流したりなんかしません。ただ私は裏切られた殿下がお可哀想で……」
涙を流す娘に構う時間はない。さっさと身を翻して歩みを進め──ふと足を止めて、振り返った。
一年生の女生徒の間で下らない噂が流れた。俺が、この娘を可愛がっているという根も葉もない噂が。
幼い時分にはままあるのだろう。深くは考えずに、偶然知り得た話を誰かに言いたくて仕方ないという時期が。
この娘は、本当に黙っているのか。もしもこのような話が周知となれば、リシュフィ嬢に極めて不利益な傷がつくこととなる。
当然、俺は婚約を破棄して放逐するつもりなどさらさらないが──それをリシュフィ嬢は喜ぶのか。他に好きな男がいる、リシュフィ嬢が。
ひたと視線を合わせた亜麻色の髪の娘は、何を勘違いしているのか潤ませた視線に何かを期待しているようだった。
──口を、封じておいた方が良いかもしれない。
この娘の名は確か、ビストア家だ。ビストア男爵家。王都の西に位置する一地方を治めているに過ぎない地方領主だ。子は、娘と息子がいたはず。ならば娘が──在学中に不慮の事故に遭ったとて騒ぎ立てることはないか。
……何を馬鹿なことを。
頭を振って、歩みを再開した。
証拠を押さえてある以上、あの娘がどれほど言いふらしたとしても問題はない。
それよりも今はこちらの方だった。
私室へと戻り、封筒から再度手紙を取り出した。
殿下との婚約などなくなってしまえばいいのに。そうすれば、わたくしは大手を振ってあなた様と並ぶことが出来るのに。
それはパズルのピースがぴたりと噛み合ったような気持ちだった。
「……それで、婚約を破棄したがっていたのか……」
すぐに崩してしまいたくなるほど不快なパズルだ。
否定の言葉を繰り返す。体の震えと共に声までひどく震えていた。
アシュレイ様の目には紛れもない怒りがあって、エレシアに視線を移せば赤い瞳のあまりの鋭さに震えが酷くなる。
これは、殿下以外の男性に向けたラブレターなのは明らかで、最後には私の署名がくっきりと入っている。
もちろん私が書いたものではない。
しかしどれだけ私が否定しようが、一つだけ、ここにいる三人にとっては明らかな事実がある。
私がこの十年間、確かに殿下との婚約破棄を願っていたのだという事実が。
「落ち着きなさい」
恐怖に冷えた手先が温かく包まれて、背中にも温かな手が添えられ、我に返った。
「殿下……」
「これはお前が、書いたものではないのだな?」
詰問ではなく、確認の声音で問われて縋る思いで頷きを返す。
殿下は顔を歪めて、私を胸に抱き寄せた。
「そうか。……そうか……」
噛み締めるように言葉が耳元に落とされて、その度に抱きしめられる力が強まった。
泣きたくなるくらいに。
「わたくしではありません、殿下……」
再び言葉を落とせば、殿下は私を胸から離し、顔を覗き込んだ。
「お前を疑ってすまなかった。初めから聞いておればこんなことにはならなかったのにな。お前が書いていないと言うなら、それがなによりも信じられる言葉だったのに。本当に、悪かった。……これからは必ず直接確認する。もう二度とこのような思いをするのは御免だ」
これからというものが私達にはもうないことを、この方はお忘れのようだった。けどそれでいい。私だってもう殿下のお側を離れられない。
もう一度、私の体を強く抱きしめた殿下はいつもの凛々しいお顔になって、ご友人へと向き直った。
「……というわけだ。アシュレイ。それはリシュフィ嬢が書いたものではない。これ以降、リシュフィ嬢を疑うことは、俺が許さない」
なんとも言えない顔を返すアシュレイ様の横から、エレシアが楚々と滑り出てきた。
そして「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」と挙手して発言したエレシアは、これでもかというほどお淑やかに微笑んでいる。
「なにかな?」
普段なら殿方同士の話に割って入るエレシアではないから、殿下はきょとんとしつつも発言を許した。
エレシアの笑顔に迫力が増したように見えたのは、決して私の気のせいではない。
「このようなお手紙をリシュフィ様がお書きになったなどと信じられたのは、殿下だけでございます」
会場に静寂が降りた。
そうか、とだけ呟いた殿下に私はそっと「エレシアは怒ると怖いと言いましたでしょう」と耳打ちしておいた。
心の傷が深い殿下を慰めつつ、未だ迫力ある笑顔を殿下にぶつけているエレシアを宥めつつ、ふと疑問が生まれた。
「……では、そのお手紙はなんだったのでしょう? わたくしと同姓同名の方がいらっしゃるのかしら」
頰に手を当て首を傾げる。
項垂れていた殿下が「いや……」と溢した。
「レストリドの名前はお前の家でしかあり得ないし、本家の娘と同じ名前を付ける親はいない。それに俺が受け取った手紙はお前のノートに挟まっていたものらしい。そのノートは間違いなくお前の持ち物だっただろう」
殿下の声に力が戻る。
険しくなったお顔は私から一人私を睨む少女へと向いた。
「……どうして俺に渡した手紙と同じものをお前が持っているのか。聞かせてもらわねばならないな。ビストア男爵令嬢」
※
「……おやすみなさいませ。フェルナンド様」
瞳を真っ直ぐに見つめてくるリシュフィ嬢の姿が細くなり見えなくなっていく。
彼女は知らないだろう。俺がどれほど閉まるこの扉を開いて抱きしめてしまいたい衝動を抑えていたか。
そんなことをして「セクハラ王子!」などと寮の廊下で叫ばれては建国以来の恥だ。まだそのような振る舞いを許されていない以上、我慢するしかない。
明日も迎えにいくと伝えて、きっとですよと念を押したリシュフィ嬢はあまりにも──愛らしかったというのに。
しかし、もしや抱きしめても許してくれたのではないかと思えるほど、今日のリシュフィ嬢との間に纏う空気は柔らかく穏やかで、孤児院で子供達と遊ぶ姿には、子供は何人いてもいいなと密かに浮かれていた。
子供と共にはしゃぐ婚約者の姿を思い出して、口元が緩む。
努力しよう。リシュフィ嬢が他に目を向けないように。……愛していると伝えても、今なら受け入れてくれるだろうか。
「殿下」
浮かれる俺を呼び止めた声はどこかで聞いたことがある気がした。
振り返れば見覚えのある亜麻色が見え、同時にアシュレイから聞いた馬鹿馬鹿しい噂を思い出した。
一人になったのを見計らったようなタイミングで声をかけられたことといい、俺一点に合わせた媚びた目といい、何をどうすればリシュフィ嬢という美しく愛らしい婚約者がいながら、コレに手を付けるというのか。せっかくリシュフィ嬢との関係がやや進展したというのに、また下らない噂を流されては敵わない。
視線を外し、声を無視して歩を進めた。相手にして噂を立てられるなら、相手にしなければ良いのだ。リシュフィ嬢の友人方のような知性と教養を備えた令嬢にこのような振る舞いをしては失礼にあたるが、この娘にはこれで良い。
しかし数歩ほど進んだところで、めげないらしい娘が慌てて声を上げた。
「殿下! あの、私、リシュフィ様の落とし物を預かっているんです!」
……落とし物?
思わず足を止めてしまい、その隙に娘は大股で近付いてきてしまった。突き付けられたのは、見覚えのあるノートだ。
「これ、リシュフィ様のなんですが落とされていたんです。殿下にお返ししてもよろしいですか?」
女子寮にいるのだから、直接届けたら良いのではないか? そんな当たり前の疑問も、口に出す前に受け取ってしまった。
ついリシュフィ嬢と会う口実になると考えての行動だったが、今の俺には婚約者殿の送り迎えを許されたという大義名分があるのだった。……慣れた習慣と言うものはなかなか抜けないらしい。
「わかった。返しておこう」
いつもの癖で礼を言いそうになって止める。必要最低限の会話で留めて立ち去ろう。期待を持たせても悪い。
そして身を翻し、出入り口に向かおうとして、前に回り込まれた。
「あ、あの、そのノートの中に手紙が入っていたんです。それで驚いてしまって……リシュフィ様が──」
「……お前は俺の婚約者のノートを覗き、挟まれていた手紙を無断で読んだのか?」
「え?」
回り込まれた無礼も、その発言への驚きで全て吹き飛んだ。異様な娘だとは思っていたが、まさか人の書いた手紙を勝手に読むほどとは。
「ノートまでなら持ち主を特定するために開くことはあるだろうが、挟まっていた手紙を無断で読むのはあまりにも無作法だとは思わないのか」
婚約者への無礼な振る舞いに内心苛立つ。しかしあまり言って泣かせてしまっては目覚めが悪い。視線を外して立ち去ろうとした背中に慌てた声がかけられた。
「──リシュフィ様は、殿下と婚約破棄したいって書いてあったんですよ!」
……………………。
物的証拠を残すんじゃない、あのアホ女!
密かに婚約者を罵り「リシュフィ嬢の冗談だ。決して他言しないように」と言い含める。
明日、手紙を突き付けて叱っておかなければ……。証拠になるものは残すんじゃないと。
「冗談なんかじゃありません! 殿下もお読みになればお分かりになりますよ!」
「ふざけるんじゃない。いくら婚約者とはいえ手紙を盗み見るなど恥知らずのすることだ」
この娘は俺がリシュフィ嬢の気持ちを知って憤れば良いとでも思っているのか、しきりに読むことを進めてきたが、人の手紙を読むなどとんでもないことだ。
それに婚約を破棄したがっていることは今更騒ぐほどのことじゃない。いつものことだ。
「とにかく、騒ぎ立てるんじゃない。公爵家の令嬢に対して下らない流言を広げれば、お前を罰することも出来るのだぞ」
あえて厳しい言い方をして、さっさと立ち去る。思ったよりも長い時間話をしてしまった。早いところ離れて先ほどの可愛らしいリシュフィ嬢に思いを馳せたい。
何か言いたげな瞳を向けてきていたリシュフィ嬢の姿を思い出し、もしも愛していると伝えたらどのような表情を見せてくれるのか。あまりにも可愛い婚約者に、明日にでも実行してしまいそうな逸る気持ちを抑えた。
「殿下と婚約破棄して、別の男性のそばにいたいって書いてあったんですよ!?」
その背に投げつけられた言葉に心臓が止まるかと思った。
「別の男性とは誰だ」
無意識に尋ねていて、娘は喜色を浮かべた。
「相手の名前は書いてませんでしたけど、でも確かにあなたと並びたいって書いてありました。リシュフィ様は殿下の思っているような女性じゃありません!」
「声を落とせ。大きな声を出すんじゃない」
この娘の話は十中八九嘘であろうが、それでもこんな話をしていることが知られてはリシュフィ嬢にとって大変な不名誉となる。知らずに声を潜める形になった。
「その手紙が証拠ですよ。読まれれば分かりますから」
そのようなことをしていいはずがない。これはリシュフィ嬢のプライバシーであり、俺はそこに踏み込んでいい立場にいないのだから。
しかしこの娘が嘘を付いているに決まっていると自分に言い聞かせながらも、俺の頭はリシュフィ嬢の相手となりうる男を探していた。
アシュレイは、あり得ない。長い間友人として過ごしてきたうえに、アシュレイはエレシア嬢を愛している。もしもリシュフィ嬢から愛を告げられていたら俺に真っ先に報告するはずだ。
護衛騎士のアランはどうだ。在学中や幼い頃から親しくしていた様子ではあったが……茶目っ気がありながらも実直なあの男の忠誠を疑うことはできない。本日も婚約者殿はたいそうお綺麗でが口癖の男ではあるが、信用はしている。
──なら、誰だ。リシュフィ嬢はいったい誰を……。
その答えは手元にある封筒を開ければわかる。わかるが……これを開けてしまえば、リシュフィ嬢からの信頼を全て失うことと同義だ。それだけは──。
この娘が嘘を付いていてくれれば良いと思った。他愛もない話を、エレシア嬢にでも書いていたら。そうだ。そうに、決まっている。
抗いがたい誘惑に負けた自己嫌悪で酷い吐き気を催した。いや、それだけではないだろう。
「良いか。このことは他言無用だ。もしも噂が流れればお前が流したものとみなし、男爵家へ処分を下すこととなる」
余裕なく、脅しの言葉を投げつける。このようなことを言われたら普通の娘であれば震えあがるだろうが、この娘は徹頭徹尾普通ではなかった。
「流したりなんかしません。ただ私は裏切られた殿下がお可哀想で……」
涙を流す娘に構う時間はない。さっさと身を翻して歩みを進め──ふと足を止めて、振り返った。
一年生の女生徒の間で下らない噂が流れた。俺が、この娘を可愛がっているという根も葉もない噂が。
幼い時分にはままあるのだろう。深くは考えずに、偶然知り得た話を誰かに言いたくて仕方ないという時期が。
この娘は、本当に黙っているのか。もしもこのような話が周知となれば、リシュフィ嬢に極めて不利益な傷がつくこととなる。
当然、俺は婚約を破棄して放逐するつもりなどさらさらないが──それをリシュフィ嬢は喜ぶのか。他に好きな男がいる、リシュフィ嬢が。
ひたと視線を合わせた亜麻色の髪の娘は、何を勘違いしているのか潤ませた視線に何かを期待しているようだった。
──口を、封じておいた方が良いかもしれない。
この娘の名は確か、ビストア家だ。ビストア男爵家。王都の西に位置する一地方を治めているに過ぎない地方領主だ。子は、娘と息子がいたはず。ならば娘が──在学中に不慮の事故に遭ったとて騒ぎ立てることはないか。
……何を馬鹿なことを。
頭を振って、歩みを再開した。
証拠を押さえてある以上、あの娘がどれほど言いふらしたとしても問題はない。
それよりも今はこちらの方だった。
私室へと戻り、封筒から再度手紙を取り出した。
殿下との婚約などなくなってしまえばいいのに。そうすれば、わたくしは大手を振ってあなた様と並ぶことが出来るのに。
それはパズルのピースがぴたりと噛み合ったような気持ちだった。
「……それで、婚約を破棄したがっていたのか……」
すぐに崩してしまいたくなるほど不快なパズルだ。
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