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 バイトを終えた頃には既に日が暮れて随分経っていた。辺りは静まり返っていて、アパートの廊下を照らす蛍光灯の光だけがやけに目立っている。古びた外廊下を歩きながら鍵を取り出そうと鞄に手を突っ込んだ瞬間、違和感に気が付いた。

「あれ」

 無い。確かに入れたはずの鍵がどこにも見当たらない。焦る気持ちを抑えつつ、鞄の中を隅々まで探してもどこにも見当たらない。

「……嘘だろ」

 血の気が引くのを感じながらも、必死に記憶を辿る。家を出る時は確かに鍵を持っていたはずだ。鞄にしまったまま取り出すことも無かったから、一体どこに落としたのか見当もつかない。

「どうしよう……」

 このままでは家に入れない。今すぐ警察に届け出たとしても、今夜中に鍵が見つかるかどうかは分からない。管理会社に連絡しても、対応してくれるのは明日以降だろう。何か他の方法を、と思い立ち尽くしていると、背後から柔らかい声が投げかけられた。

「こんばんは」

 それはあまりにも自然で穏やかな声色であったが、やけにはっきりと耳に届いた気がした。反射的に振り返れば、そこには黒い服に身を包んだ長身の男性が立っていた。長い前髪の隙間から覗く瞳は吸い込まれそうなほどに深い赤色をしている。整った顔立ちには穏やかな笑みが浮かんでいるものの、どこか冷たさを感じさせるような不思議な雰囲気をまとっていた。

「どうかしましたか」
「ええと、家の鍵を落としたみたいで」

 一瞬躊躇ってから答えると、男は微かに首を傾げた。そして何かを考える素振りを見せた後、手許から小さな鍵を取り出した。

「こんな鍵ですか?」
「……そうです!」

 彼の手に握られていたのは、まさに自分が探していたものと瓜二つの鍵だった。

「でもどうして、あなたが」
「……偶然ですよ」

 男は淡々とした口調で答えると、こちらの手を取りその掌に鍵を乗せた。ひんやりとした金属の感触が伝わってくる。大きさや形状から見ても、間違いなく自分の物だ。思わず受け取ってしまったが、まだ状況は理解できていない。この男が近所で鍵を拾ってくれたのだろうか。

「え、っと……その、ありがとうございます。本当に助かりました」

戸惑いながらもお礼を言うと、男は僅かに目を細めた。しかしすぐに表情を戻し、小さく首を振った。

「では、私はこれで」
「あ、待ってください!」

 踵を返して立ち去ろうとする彼の腕を慌てて掴むと、男はゆっくりとこちらを振り返った。

「あの、何かお礼をさせてください」
「お気遣いなく」
「そういうわけには……そうだ、もし良ければ夕飯を食べていってください。大したものは出せませんけど」

 咄嗟に思いついた提案を口にすると、男はじっと顔を見つめたまま黙り込んでしまった。初めて会ったはずだが、不思議と警戒心は抱かなかった。むしろこのまま別れてしまうのは惜しいような気がしてならなかった。

「……では、お言葉に甘えて」

 しばらくして、彼は静かに頷いた。動きに合わせて男の長い前髪がふわりと揺れ、隙間からピアスがちらりと覗く。謎めいた幾何学模様のそれは、やけに鮮やかに目に焼き付いた。
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