【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第三章:京洛の蜘蛛巣

第五十七話:敵中突破

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 丹波国の山中、負傷した赤井直正の兵士たちとの出会いは、小太郎たちに黒井城への潜入の糸口を与えた。

 光秀軍の厳重な包囲網の中、唯一の突破口は、彼らが教えてくれた、ほとんど誰も通らない獣道だった。しかし、そこもまた、光秀の斥候が目を光らせている可能性は否定できない。

「この道ならば、光秀の兵も油断しているかもしれぬ。だが、より一層の警戒が必要だ」

 小太郎は、そう言って、慎重に獣道へと足を踏み入れた。道は狭く、木々が鬱蒼と生い茂り、昼間でも薄暗い。足元はぬかるみ、滑りやすい。

 千代女は、小太郎の背後を固め、周囲の気配に全神経を集中させていた。
おふうもまた、息を潜め、小太郎たちに続いて歩いた。彼女の表情には、依然として不安の色が浮かんでいるが、その瞳には、傷ついた兵士たちを救いたいという、強い意志が宿っていた。

 獣道を進むこと数刻。彼らは、草むらに身を潜める光秀の斥候隊に遭遇した。斥候たちは、小太郎たちの存在に気づき、刀を抜き放つ。

「武田の密偵め!ここまでだ!」

 斥候の一人が、そう叫ぶと、小太郎たちに斬りかかってきた。小太郎は、瞬時に刀を抜き、応戦する。狭い獣道での戦いは、不利だ。彼は、千代女とおふうに目配せをした。

 千代女は、小太郎の意図を察し、素早く斥候の一人に飛びかかり、その喉元に短刀を突きつけた。彼女の動きは、闇に溶け込むように滑らかで、ほとんど音を立てない。

 おふうもまた、懐から煙玉を取り出し、地面に叩きつけた。白い煙が、獣道いっぱいに広がり、斥候たちの視界を奪う。

「今のうちに!」

 小太郎は、そう叫び、煙に紛れて斥候たちを突破した。彼らは、煙の中を駆け抜け、さらに獣道の奥へと進んでいった。

 斥候たちは、煙の中から小太郎たちの姿を追おうとするが、煙は濃く、視界を完全に遮っている。彼らが煙の中から抜け出した時には、小太郎たちの姿は、すでに闇の中に消え去っていた。

 しかし、光秀の包囲網は、獣道だけでは終わらなかった。黒井城に近づくにつれて、光秀軍の兵士たちの数が、次第に増えていく。彼らは、城の周囲に幾重もの陣を張り、赤井直正を完全に孤立させていた。

「これでは、城に近づくことすら叶わぬ……」
 小太郎は、光秀軍の厳重な警戒態勢に、歯噛みした。

 その時、おふうが、再び機転を利かせた。彼女は、周囲に生えている薬草を素早く摘み取り、それをすり潰し始めた。

「小太郎様!千代女様!あたしに、策がございます!」

 おふうは、そう言って、出来上がったばかりの薬草の汁を、小太郎と千代女に差し出した。その汁は、独特の匂いを放っている。

「これを、顔や衣に塗るのです。この匂いは、毒気を帯びているように見せかけ、病が蔓延していると錯覚させる効果があります。光秀の兵は、病を恐れて、我々に近づこうとはしないはず」

 おふうの言葉に、小太郎と千代女はハッとした。これは、薬草売りの娘であるおふうだからこそできる、斬新な策だ。

 小太郎と千代女は、おふうの指示に従い、薬草の汁を顔や衣に塗った。彼らの姿は、まるで重病人のように見え、その周囲からは、独特の悪臭が漂う。

 三人は、堂々と光秀軍の陣地へと足を踏み入れた。兵士たちは、小太郎たちの姿を見ると、その異様な悪臭と、病人のような姿に、思わず顔を背けた。

「病気か……」「近づくな!」「疫病神だ!」

 兵士たちは、そう叫びながら、小太郎たちから距離を取った。彼らは、戦場で負傷するよりも、病に倒れることを恐れていたのだ。

 その隙を突き、小太郎たちは、光秀軍の陣地を突破し、黒井城へと近づいていった。光秀軍の兵士たちは、病を恐れるあまり、彼らを追跡しようとはしなかった。

 黒井城の周囲には、土塁が築かれ、その上には、矢狭間が設けられている。城壁の上からは、赤井直正の兵士たちが、光秀軍の動きを警戒していた。

「城へ近づけば、弓矢の雨が降り注ぐだろう」
 千代女は、そう言って、警戒を促した。

 小太郎は、懐の歌集を強く握りしめた。信玄が比叡山に残した「楔」の仏像の慈愛に満ちた表情が、彼の脳裏に浮かんだ。信玄は、この戦渦の中で、何を願っていたのか。

 小太郎は、城壁に向かって大声で叫んだ。
「赤井直正殿にお伝えしたいことがある!我らは、信玄公の密命を受けた者!」

 小太郎の言葉に、城壁の兵士たちは、ざわめいた。信玄の名は、彼らにとって、もはや伝説だった。

 兵士の一人が、城主の赤井直正に報告するため、城内へと駆け戻った。その間、小太郎たちは、城壁からの攻撃を受けないよう、身を低くした。

 しばらくすると、城壁の上から、一人の武将が姿を現した。
彼は、屈強な体躯に、赤色の甲冑を身につけている。その顔には、長年の戦で刻まれた深い皺が刻まれているが、その瞳には、不屈の闘志が宿っていた。

 彼こそが、赤井直正(あかい なおまさ)、通称「丹波の赤鬼」だった。

「信玄公の密命だと申すか……。信玄公は、すでにこの世にはおられぬはず。貴様ら、何者だ!」

 直正は、警戒の眼差しで小太郎たちを見下ろした。彼は、信玄の「死」を信じている。
しかし、その言葉の奥には、かすかな期待の色が滲み出ていた。

 信玄という稀代の軍師が、もし生きていたならば、この絶望的な状況を打破してくれるかもしれないという、かすかな希望が。

 小太郎は、直正の警戒心を解くため、比叡山で発見した信玄の「楔」である仏像を掲げた。

「直正殿。この仏像は、信玄公が比叡山の焼き討ちの跡地に残されたもの。そこに刻まれた和歌に、信玄公の真の御心が込められております」

 小太郎は、そう言って、和歌を読み上げた。

「燃え尽きし 山に咲く花 人の世の 悲しみ超えて 光とならん」

 直正は、小太郎の言葉と、仏像に刻まれた和歌に、息を呑んだ。彼の顔には、驚きと、そして深い感動が浮かんでいる。

 信玄が、この乱世の悲しみの中で、なおも平和への願いを抱いていたことに、直正は心を打たれたのだ。

「信玄公が……。まさか、生きておられたとは……」

 直正の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼は、信玄の真の志を理解し、その秘策への協力を決意した。

 丹波の赤鬼との接触に成功した小太郎たち。光秀の厳重な包囲網を突破し、次の「楔」へと近づいた。
しかし、光秀は、小太郎たちが赤井直正と接触したことを知れば、さらに執拗な追跡を仕掛けてくるだろう。

 丹波の地で、小太郎と赤井直正は、信玄の秘策を成就させるため、共に戦うことになる。
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