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第四章:西国の風雲
第七十二話:島津の影
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病に伏せった大友宗麟の居室は、異国の香りに満ちていた。
壁には色鮮やかなタペストリーが掛けられ、床にはペルシャ絨毯が敷き詰められている。窓から差し込む陽光は、ステンドグラスを通して七色の光を室内に散りばめ、まるで異国の教会にいるかのようだった。
しかし、その華やかさとは裏腹に、宗麟の顔色は土気色で、その頬は深くやつれている。それでも、その瞳だけは、知的な光を失わず、鋭く輝いていた。
「貴殿らが、信玄公の使者か。フロイス殿から話は聞いておる。ようこそ、この豊後へ」
宗麟の声は、病で掠れてはいたが、確かな威厳を湛えていた。小太郎、千代女、そしておふうは、宗麟の前に静かに膝をついた。小太郎は、宗麟の衰弱した姿を見て、一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに気を取り直し、深く頭を下げた。
「は、信玄公の密命を帯び、甲斐より参上いたしました、疾風の小太郎と申します。こちらは望月千代女、そして薬師のおふうでございます」
小太郎は、淀みない口調で己と同行者を紹介した。宗麟は、三人の顔を一人ずつ見つめ、その視線は鋭く、まるで心の内を見透かすかのようだった。特に、おふうの顔に留まる時間が長かったのは、その出自故か、それとも単なる偶然か。
「信玄公が、かの甲斐の虎が、まさか死を偽り、このような壮大な計画を企てておられるとは……。俄には信じがたいことよ」
宗麟は、信玄の書状をゆっくりと閉じ、深々と息を吐いた。その言葉には、驚きと同時に、深い感慨が込められているように見えた。彼は、書状を枕元に置くと、小太郎たちに座を促した。
「フロイス殿から、信玄公の目指す『和の世』の話は聞いた。武力による天下統一ではなく、多様な価値観を尊重する世とは、まことに壮大な御志。しかし、それをこの乱世で成し遂げるとは、容易なことではあるまい」
宗麟は、そう言って、遠い目をした。
彼の言葉には、長年、キリスト教と日本の伝統的な信仰、そして乱世の現実との間で苦悩してきた彼の経験が滲み出ていた。豊後国は、宗麟の統治のもと、南蛮文化を積極的に取り入れ、繁栄を謳歌していた。しかし、その一方で、伝統的な価値観を重んじる勢力との対立も深まっていた。特に、薩摩の島津家は、宗麟の南蛮化に強く反発し、両家の間には常に緊張が走っていた。
「宗麟様は、この豊後において、南蛮文化と日本の伝統を見事に融和させておられます。信玄公は、その宗麟様の才覚と、この地の多様性に、真の平和の可能性を見出しておられるのです」
フロイスは、宗麟の言葉を受けて、信玄の意図を改めて説いた。彼の言葉は、宗麟の心の奥底に深く響いているようだった。宗麟は、静かに頷くと、小太郎に目を向けた。
「して、信玄公は、この豊後において、何を望んでおられるのか。書状には、新たな『楔』を置くとあるが、それは一体、何を意味するのだ?」
宗麟の問いに、小太郎は淀みなく答えた。
「信玄公は、この国の真の安寧は、武力による支配ではなく、異なる信仰、異なる文化を持つ人々が、互いを尊重し、共に生きる『和の世』によってのみもたらされると考えておられます。
そのために、比叡山、丹波、宮島と、この国に点在する聖地に『楔』を打ち込んできました。それらは、それぞれの地の歴史と精神性、そして人々の願いが凝縮された場所であり、信玄公の目指す『和の世』の礎となるものです」
小太郎は、一つ一つの「楔」が持つ意味を丁寧に説明した。比叡山が「鎮魂と希望」、丹波が「癒しと共生」、宮島が「共生の証」。
そして、この豊後における「楔」は、キリスト教と日本の伝統的な信仰の融和、つまりは「多様な価値観の共存」を象徴するものだと。
「この豊後においては、フランシスコ・ザビエル殿が、この地の民の優しさと、深い信仰心に触れ、真の希望を見出された地。そして、臼杵の石仏群は、古くからこの地の民が大切にしてきた『祈りの場』でございます。信玄公は、そこに、キリスト教と日本の伝統的な信仰が融和し、共存する可能性を見出しておられるのです」
小太郎の言葉は、宗麟の心に深く刻まれたようだった。宗麟は、じっと小太郎の顔を見つめ、やがて静かに目を閉じた。
「ザビエル殿の遺志……。そのお方は、この豊後の地で、病に苦しむ民を癒し、古くからの信仰とキリスト教の教えが、どのように融和し得るかについて深く考察しておられたと、フロイス殿から聞いておる」
宗麟は、そう呟くと、再び目を開けた。その瞳には、かつてザビエルがこの地にもたらした希望の光と、彼自身の抱える葛藤が複雑に交錯しているように見えた。
「信玄公は、貴殿らのように若き者たちに、このような重き役目を託しておられるのか。まことに、深遠なる御心よ」
宗麟は、そう言って、小太郎たちを改めて見つめた。その眼差しは、先ほどとは異なり、どこか温かいものへと変わっていた。
その時、部屋の外から、微かな物音が聞こえてきた。千代女は、すぐにその音に気づき、警戒の表情を浮かべた。
「宗麟様、お気をつけください。複数の人影が、この部屋の周囲に潜んでおります」
千代女の言葉に、宗麟は静かに頷いた。
「案ずるな。島津の間者であろう。彼らは、常に我らの動向を監視しておる。信玄公の使者が来たとなれば、尚更のこと」
宗麟の言葉通り、部屋の障子戸が静かに開かれ、数人の男たちが姿を現した。彼らは皆、薩摩藩の紋様を身につけており、その顔には、隠しきれない敵意が宿っていた。
「大友宗麟殿。我らは島津家の者。貴殿が、かの武田信玄と密通せんと企んでおると聞き及び、その真意を確かめに参った」
一人の男が、冷ややかな声で宗麟に問いかけた。その言葉には、宗麟が南蛮文化を取り入れ、キリスト教に傾倒することへの強い反発が込められていた。島津家は、九州の伝統的な価値観を重んじており、宗麟の政策を危険視していたのだ。
「密通など、とんでもない。我らは、ただ信玄公の使者と、天下の行く末について話し合っておるだけよ」
宗麟は、病身にもかかわらず、毅然とした態度で答えた。しかし、彼の声には、僅かながら疲れが滲み出ていた。
「口上はよろしい。貴殿が、南蛮の教えに誑かされ、この九州の地を混乱に陥れようとしていることは、明白。信玄なる謀反人と手を組むなど、許されることではない!」
別の男が、激しい口調で宗麟を糾弾した。部屋の中は、一気に緊迫した空気に包まれた。千代女は、いつでも刀を抜けるよう、警戒を怠らない。おふうは、小太郎の背中に身を寄せ、その顔には不安の色が浮かんでいた。
小太郎は、島津の者たちの視線を受けながらも、冷静に状況を判断していた。この場で争いを起こすことは、信玄の目指す「和の世」とは相容れない。しかし、彼らの非難を黙って聞いているわけにもいかない。
「島津の方々よ。信玄公は、決してこの国の混乱を望んでおられませぬ。むしろ、乱世を終わらせ、真の平和をもたらすことを願っておられる。そのために、武力ではなく、対話と理解による融和を目指しておられるのです」
小太郎は、一歩前に進み出て、島津の者たちに語りかけた。彼の言葉は、彼らの耳に届いただろうか。島津の者たちは、小太郎の言葉に耳を傾ける様子もなく、宗麟への詰問を続けた。
「信玄の甘言に惑わされるな、宗麟殿!その者は、甲斐の虎と呼ばれた謀反人。その言葉に、いかなる真実があろうか!」
男たちの言葉は、宗麟の心を深く抉っているようだった。宗麟は、苦しげに顔を歪ませた。長年にわたる島津家との対立、そして、キリスト教を受け入れたことによる周囲からの反発。それらの重圧が、宗麟の病身にのしかかっているかのようだった。
その時、フロイスが静かに口を開いた。
「島津の方々。私がこの豊後を訪れたのは、信玄公の使者として、宗麟様と天下の安寧について話し合うためでございます。決して、争いを望むものではございません。
信玄公の御心は、フランシスコ・ザビエル殿がこの国に伝えた神の愛と、相通ずるものがあると、私は確信しております。
争いではなく、対話によって、この国の未来を切り開くことこそが、今、我々に求められていることではないでしょうか」
フロイスの言葉は、静かでありながらも、確かな説得力を秘めていた。彼の言葉に、島津の者たちは、一瞬、戸惑いの表情を見せた。
「フロイス殿……。貴殿は、我々の神の教えを、戦国の世に持ち込むつもりか」
一人の男が、疑念に満ちた声で尋ねた。
「神の教えは、争いを禁じ、愛と平和を説きます。戦国の乱世にあってこそ、神の教えは、人々の心の拠り所となるでしょう。信玄公もまた、そのことを理解しておられる」
フロイスは、真摯な眼差しで答えた。彼の言葉は、島津の者たちの心に、微かな揺らぎをもたらしたようだった。彼らは、互いに顔を見合わせ、やがて、その中の一人が口を開いた。
「フロイス殿の言葉は、確かに聞き入るに値する。しかし、信玄なる謀反人の言葉は、そのまま受け取るわけにはいかぬ。我らは、宗麟殿がこれ以上、南蛮の教えに深入りせぬよう、警告に参ったまで。今日のところは、これで引き下がらせていただく」
男は、そう言って、他の者たちと共に、静かに部屋を後にした。彼らの足音が遠ざかると、部屋には再び静寂が戻った。宗麟は、深々と息を吐くと、その疲労を隠すこともなく、静かに目を閉じた。
「小太郎殿、フロイス殿……。そなたらの言葉に、わしの心は揺れ動いた。しかし、島津の者たちの懸念も、また無理からぬこと。この国の民は、長きにわたり、戦乱と混乱に苦しんできた。新たな教えや文化を受け入れることには、大きな不安が伴う」
宗麟の声は、先ほどよりも弱々しくなっていた。彼の心には、信玄の理想と、現実の厳しさとの間で、深い葛藤が渦巻いているようだった。
「宗麟様。信玄公は、その不安を理解しておられます。だからこそ、武力による統一ではなく、各地の文化や信仰を尊重する形で、この国の未来を切り開こうとしておられるのです」
小太郎は、宗麟の言葉に静かに答えた。宗麟は、ゆっくりと目を開け、小太郎の顔を見つめた。その瞳には、諦めではなく、何か新たな決意のようなものが宿っているように見えた。
「そうか……。わしは、これまで、キリスト教の信仰と、日本の伝統的な価値観との間で、常に葛藤を抱えてきた。しかし、信玄公の目指す『和の世』は、その葛藤を乗り越え、新たな道を示してくれるかもしれぬ」
宗麟は、そう呟くと、静かに微笑んだ。その微笑みは、病身の彼には似合わないほど、清々しいものだった。
「臼杵の石仏群……。信玄公が、そこに『楔』を置かれた意図、わしには理解できた。ザビエル殿がこの豊後で見た希望の光と、古くからの祈りの場が、信玄公の壮大な計画の中で、一つに繋がるのだな」
宗麟の言葉に、小太郎は深く頷いた。
九州の地で、信玄の秘策は、宗教、文化、そして新たな勢力を巻き込み、さらなる複雑さを増していく。しかし、宗麟の理解を得られたことは、小太郎たちにとって、大きな一歩だった。
小太郎は、フロイスの協力を得て、臼杵の石仏群に隠された「楔」を見つけることができるのか。そして、島津家の影が迫る中、彼らは、いかなる困難に立ち向かうのか。
戦国の乱世で繰り広げられる、知略と心の戦いは、新たな局面へと突入する。
壁には色鮮やかなタペストリーが掛けられ、床にはペルシャ絨毯が敷き詰められている。窓から差し込む陽光は、ステンドグラスを通して七色の光を室内に散りばめ、まるで異国の教会にいるかのようだった。
しかし、その華やかさとは裏腹に、宗麟の顔色は土気色で、その頬は深くやつれている。それでも、その瞳だけは、知的な光を失わず、鋭く輝いていた。
「貴殿らが、信玄公の使者か。フロイス殿から話は聞いておる。ようこそ、この豊後へ」
宗麟の声は、病で掠れてはいたが、確かな威厳を湛えていた。小太郎、千代女、そしておふうは、宗麟の前に静かに膝をついた。小太郎は、宗麟の衰弱した姿を見て、一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに気を取り直し、深く頭を下げた。
「は、信玄公の密命を帯び、甲斐より参上いたしました、疾風の小太郎と申します。こちらは望月千代女、そして薬師のおふうでございます」
小太郎は、淀みない口調で己と同行者を紹介した。宗麟は、三人の顔を一人ずつ見つめ、その視線は鋭く、まるで心の内を見透かすかのようだった。特に、おふうの顔に留まる時間が長かったのは、その出自故か、それとも単なる偶然か。
「信玄公が、かの甲斐の虎が、まさか死を偽り、このような壮大な計画を企てておられるとは……。俄には信じがたいことよ」
宗麟は、信玄の書状をゆっくりと閉じ、深々と息を吐いた。その言葉には、驚きと同時に、深い感慨が込められているように見えた。彼は、書状を枕元に置くと、小太郎たちに座を促した。
「フロイス殿から、信玄公の目指す『和の世』の話は聞いた。武力による天下統一ではなく、多様な価値観を尊重する世とは、まことに壮大な御志。しかし、それをこの乱世で成し遂げるとは、容易なことではあるまい」
宗麟は、そう言って、遠い目をした。
彼の言葉には、長年、キリスト教と日本の伝統的な信仰、そして乱世の現実との間で苦悩してきた彼の経験が滲み出ていた。豊後国は、宗麟の統治のもと、南蛮文化を積極的に取り入れ、繁栄を謳歌していた。しかし、その一方で、伝統的な価値観を重んじる勢力との対立も深まっていた。特に、薩摩の島津家は、宗麟の南蛮化に強く反発し、両家の間には常に緊張が走っていた。
「宗麟様は、この豊後において、南蛮文化と日本の伝統を見事に融和させておられます。信玄公は、その宗麟様の才覚と、この地の多様性に、真の平和の可能性を見出しておられるのです」
フロイスは、宗麟の言葉を受けて、信玄の意図を改めて説いた。彼の言葉は、宗麟の心の奥底に深く響いているようだった。宗麟は、静かに頷くと、小太郎に目を向けた。
「して、信玄公は、この豊後において、何を望んでおられるのか。書状には、新たな『楔』を置くとあるが、それは一体、何を意味するのだ?」
宗麟の問いに、小太郎は淀みなく答えた。
「信玄公は、この国の真の安寧は、武力による支配ではなく、異なる信仰、異なる文化を持つ人々が、互いを尊重し、共に生きる『和の世』によってのみもたらされると考えておられます。
そのために、比叡山、丹波、宮島と、この国に点在する聖地に『楔』を打ち込んできました。それらは、それぞれの地の歴史と精神性、そして人々の願いが凝縮された場所であり、信玄公の目指す『和の世』の礎となるものです」
小太郎は、一つ一つの「楔」が持つ意味を丁寧に説明した。比叡山が「鎮魂と希望」、丹波が「癒しと共生」、宮島が「共生の証」。
そして、この豊後における「楔」は、キリスト教と日本の伝統的な信仰の融和、つまりは「多様な価値観の共存」を象徴するものだと。
「この豊後においては、フランシスコ・ザビエル殿が、この地の民の優しさと、深い信仰心に触れ、真の希望を見出された地。そして、臼杵の石仏群は、古くからこの地の民が大切にしてきた『祈りの場』でございます。信玄公は、そこに、キリスト教と日本の伝統的な信仰が融和し、共存する可能性を見出しておられるのです」
小太郎の言葉は、宗麟の心に深く刻まれたようだった。宗麟は、じっと小太郎の顔を見つめ、やがて静かに目を閉じた。
「ザビエル殿の遺志……。そのお方は、この豊後の地で、病に苦しむ民を癒し、古くからの信仰とキリスト教の教えが、どのように融和し得るかについて深く考察しておられたと、フロイス殿から聞いておる」
宗麟は、そう呟くと、再び目を開けた。その瞳には、かつてザビエルがこの地にもたらした希望の光と、彼自身の抱える葛藤が複雑に交錯しているように見えた。
「信玄公は、貴殿らのように若き者たちに、このような重き役目を託しておられるのか。まことに、深遠なる御心よ」
宗麟は、そう言って、小太郎たちを改めて見つめた。その眼差しは、先ほどとは異なり、どこか温かいものへと変わっていた。
その時、部屋の外から、微かな物音が聞こえてきた。千代女は、すぐにその音に気づき、警戒の表情を浮かべた。
「宗麟様、お気をつけください。複数の人影が、この部屋の周囲に潜んでおります」
千代女の言葉に、宗麟は静かに頷いた。
「案ずるな。島津の間者であろう。彼らは、常に我らの動向を監視しておる。信玄公の使者が来たとなれば、尚更のこと」
宗麟の言葉通り、部屋の障子戸が静かに開かれ、数人の男たちが姿を現した。彼らは皆、薩摩藩の紋様を身につけており、その顔には、隠しきれない敵意が宿っていた。
「大友宗麟殿。我らは島津家の者。貴殿が、かの武田信玄と密通せんと企んでおると聞き及び、その真意を確かめに参った」
一人の男が、冷ややかな声で宗麟に問いかけた。その言葉には、宗麟が南蛮文化を取り入れ、キリスト教に傾倒することへの強い反発が込められていた。島津家は、九州の伝統的な価値観を重んじており、宗麟の政策を危険視していたのだ。
「密通など、とんでもない。我らは、ただ信玄公の使者と、天下の行く末について話し合っておるだけよ」
宗麟は、病身にもかかわらず、毅然とした態度で答えた。しかし、彼の声には、僅かながら疲れが滲み出ていた。
「口上はよろしい。貴殿が、南蛮の教えに誑かされ、この九州の地を混乱に陥れようとしていることは、明白。信玄なる謀反人と手を組むなど、許されることではない!」
別の男が、激しい口調で宗麟を糾弾した。部屋の中は、一気に緊迫した空気に包まれた。千代女は、いつでも刀を抜けるよう、警戒を怠らない。おふうは、小太郎の背中に身を寄せ、その顔には不安の色が浮かんでいた。
小太郎は、島津の者たちの視線を受けながらも、冷静に状況を判断していた。この場で争いを起こすことは、信玄の目指す「和の世」とは相容れない。しかし、彼らの非難を黙って聞いているわけにもいかない。
「島津の方々よ。信玄公は、決してこの国の混乱を望んでおられませぬ。むしろ、乱世を終わらせ、真の平和をもたらすことを願っておられる。そのために、武力ではなく、対話と理解による融和を目指しておられるのです」
小太郎は、一歩前に進み出て、島津の者たちに語りかけた。彼の言葉は、彼らの耳に届いただろうか。島津の者たちは、小太郎の言葉に耳を傾ける様子もなく、宗麟への詰問を続けた。
「信玄の甘言に惑わされるな、宗麟殿!その者は、甲斐の虎と呼ばれた謀反人。その言葉に、いかなる真実があろうか!」
男たちの言葉は、宗麟の心を深く抉っているようだった。宗麟は、苦しげに顔を歪ませた。長年にわたる島津家との対立、そして、キリスト教を受け入れたことによる周囲からの反発。それらの重圧が、宗麟の病身にのしかかっているかのようだった。
その時、フロイスが静かに口を開いた。
「島津の方々。私がこの豊後を訪れたのは、信玄公の使者として、宗麟様と天下の安寧について話し合うためでございます。決して、争いを望むものではございません。
信玄公の御心は、フランシスコ・ザビエル殿がこの国に伝えた神の愛と、相通ずるものがあると、私は確信しております。
争いではなく、対話によって、この国の未来を切り開くことこそが、今、我々に求められていることではないでしょうか」
フロイスの言葉は、静かでありながらも、確かな説得力を秘めていた。彼の言葉に、島津の者たちは、一瞬、戸惑いの表情を見せた。
「フロイス殿……。貴殿は、我々の神の教えを、戦国の世に持ち込むつもりか」
一人の男が、疑念に満ちた声で尋ねた。
「神の教えは、争いを禁じ、愛と平和を説きます。戦国の乱世にあってこそ、神の教えは、人々の心の拠り所となるでしょう。信玄公もまた、そのことを理解しておられる」
フロイスは、真摯な眼差しで答えた。彼の言葉は、島津の者たちの心に、微かな揺らぎをもたらしたようだった。彼らは、互いに顔を見合わせ、やがて、その中の一人が口を開いた。
「フロイス殿の言葉は、確かに聞き入るに値する。しかし、信玄なる謀反人の言葉は、そのまま受け取るわけにはいかぬ。我らは、宗麟殿がこれ以上、南蛮の教えに深入りせぬよう、警告に参ったまで。今日のところは、これで引き下がらせていただく」
男は、そう言って、他の者たちと共に、静かに部屋を後にした。彼らの足音が遠ざかると、部屋には再び静寂が戻った。宗麟は、深々と息を吐くと、その疲労を隠すこともなく、静かに目を閉じた。
「小太郎殿、フロイス殿……。そなたらの言葉に、わしの心は揺れ動いた。しかし、島津の者たちの懸念も、また無理からぬこと。この国の民は、長きにわたり、戦乱と混乱に苦しんできた。新たな教えや文化を受け入れることには、大きな不安が伴う」
宗麟の声は、先ほどよりも弱々しくなっていた。彼の心には、信玄の理想と、現実の厳しさとの間で、深い葛藤が渦巻いているようだった。
「宗麟様。信玄公は、その不安を理解しておられます。だからこそ、武力による統一ではなく、各地の文化や信仰を尊重する形で、この国の未来を切り開こうとしておられるのです」
小太郎は、宗麟の言葉に静かに答えた。宗麟は、ゆっくりと目を開け、小太郎の顔を見つめた。その瞳には、諦めではなく、何か新たな決意のようなものが宿っているように見えた。
「そうか……。わしは、これまで、キリスト教の信仰と、日本の伝統的な価値観との間で、常に葛藤を抱えてきた。しかし、信玄公の目指す『和の世』は、その葛藤を乗り越え、新たな道を示してくれるかもしれぬ」
宗麟は、そう呟くと、静かに微笑んだ。その微笑みは、病身の彼には似合わないほど、清々しいものだった。
「臼杵の石仏群……。信玄公が、そこに『楔』を置かれた意図、わしには理解できた。ザビエル殿がこの豊後で見た希望の光と、古くからの祈りの場が、信玄公の壮大な計画の中で、一つに繋がるのだな」
宗麟の言葉に、小太郎は深く頷いた。
九州の地で、信玄の秘策は、宗教、文化、そして新たな勢力を巻き込み、さらなる複雑さを増していく。しかし、宗麟の理解を得られたことは、小太郎たちにとって、大きな一歩だった。
小太郎は、フロイスの協力を得て、臼杵の石仏群に隠された「楔」を見つけることができるのか。そして、島津家の影が迫る中、彼らは、いかなる困難に立ち向かうのか。
戦国の乱世で繰り広げられる、知略と心の戦いは、新たな局面へと突入する。
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