【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第五章:風前の灯火

第八十四話:高坂昌信の奮戦

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 千代女の身を挺した殿(しんがり)によって、小太郎、おふう、フロイスの一行は、黒百合組の追撃から辛くも逃れた。

 しかし、その代償は大きかった。
千代女の安否は不明。そして、武田の密約の縁、絆の糸、人脈が、信長の放った刺客によって次々と寸断されているという事実に、小太郎の心は重く沈んだ。

 山道をひたすら駆け抜け、夜が明け始めた頃、彼らはようやく小さな里にたどり着いた。疲労困憊の三人だが、休む間も惜しい。信玄からの緊急帰還命令を果たすため、甲斐への道のりを急がねばならない。

「千代女は、必ずや無事であろう。彼女ほどの腕があれば、あの程度の刺客に遅れを取るはずがない」

 小太郎は、自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その声には、拭いきれない不安が滲んでいた。

「わたくし、千代女様が無事であるよう、心からお祈りいたします」

 おふうもまた、憔悴しきった顔で答えた。彼女は、千代女が自分を庇ってくれたことを、深く心に刻んでいた。フロイスは、静かに聖書を握りしめ、目を閉じていた。

 彼らが里を抜け、街道へと出た時、遠くから轟くような地鳴りが聞こえてきた。それは、大軍が移動する時に発する、地の底を揺るがすような音だった。小太郎たちは、慌てて身を隠す。

「あれは……織田の軍勢か……!」

 小太郎が、驚きの声を上げた。
街道を埋め尽くすほどの兵士たちが、旗指物をなびかせながら、怒涛のように押し寄せてくる。その数、ゆうに数万にも及ぶであろう。信長が、長篠の戦勝に乗じて、本格的な甲斐侵攻を開始したのだ。

「武田は、長篠で大敗を喫したばかり。これほどの兵力差では、とても……」

 おふうが、恐怖に顔を歪めた。フロイスもまた、その圧倒的な軍勢を前に、言葉を失っていた。

 その織田の大軍勢を前に、わずかな兵で立ち塞がる一団があった。彼らは、武田菱の旗を掲げ、赤備えの甲冑に身を包んでいる。

「あれは……!高坂昌信様ではないか!」

 小太郎は、思わず声を上げた。
武田四天王の一人、高坂昌信。「逃げ弾正」の異名を持ち、信玄の信頼厚き猛将である。しかし、彼が率いる兵は、織田の大軍に比べれば、あまりにも少ない。長篠の戦で多くの兵を失った武田には、もはや織田の大軍を迎え撃つ余力はないのだ。

 高坂昌信は、馬上で堂々と構え、織田の大軍を睨みつけていた。
彼の顔には、疲労の色が濃いものの、その眼差しには、武田の将としての誇りと、主君への忠誠心が宿っている。

「織田の犬どもめ!ここから先は、一歩たりとも通さぬ!武田の地を踏ませるものか!」

 昌信の声が、荒野に響き渡る。彼の周りには、わずか数百に満たない兵たちが、決死の覚悟で並び立っていた。彼らは、長篠の敗戦で生き残った者たち、あるいは、領地を守るために駆けつけた者たちであろう。

「高坂昌信め、無駄な抵抗を!」

 織田軍の先頭に立つ武将が、昌信に降伏を促した。しかし、昌信は、嘲笑うかのように鼻を鳴らした。

「信長に伝えておけ!武田は、決して屈せぬと!我らは、この地で武田の意地を見せてくれる!」

 昌信は、叫ぶと、刀を抜き放った。その合図と共に、武田の兵たちが、織田の大軍へと突撃を開始した。数百の兵が、数万の敵へと向かっていく様は、まるで荒波に立ち向かう小舟のようだった。

「無謀だ……!」

 小太郎は、歯を食いしばった。
昌信の行動は、自殺行為に等しい。しかし、彼は、武田の将として、信玄への忠義を示すために、死を覚悟で戦っているのだ。

 織田の鉄砲隊が、一斉に火を吹いた。轟音と共に、弾丸が武田の兵たちを次々と貫いていく。それでも、武田の兵たちは、怯むことなく前へ進む。彼らは、信玄が築き上げた武田の魂を、その身をもって示そうとしていた。

 高坂昌信は、自ら先頭に立って、織田軍の中へと切り込んでいく。彼の剣は、舞うように敵を打ち払い、次々と織田の兵士を斬り倒していく。しかし, 兵力差は圧倒的だった。

 織田軍の波に飲み込まれるように、武田の兵たちは、一人、また一人と倒れていく。

「高坂様……!」

 小太郎は、その光景を、ただ見ていることしかできなかった。自分たちが助けに入ることは、さらなる危険を招くだけだ。信玄からの命令は、甲斐へ帰還すること。ここで足を止めるわけにはいかない。

「小太郎殿、行かねばなりません。高坂殿の奮戦は、我々に時間を稼いでくれております。彼の犠牲を無駄にしてはなりませぬ!」

 フロイスが、小太郎の腕を掴み、強く促した。おふうもまた、涙を流しながらも、小太郎の袖を引いた。

 小太郎は、苦渋の決断を下した。高坂昌信の奮戦は、まさに武田の魂を賭けた捨て身の行為。その尊い犠牲を無駄にしないためにも、自分は甲斐へ向かわねばならない。信玄の「秘策」を発動させるために。

 小太郎たちは、再び森の中へと身を隠し、織田の大軍の横をすり抜けるようにして、甲斐へと急いだ。

 背後からは、まだ銃声と、剣戟の音が聞こえてくる。高坂昌信が、命を賭して、武田の未来を守ろうとしているのだ。その奮戦が、どれほどの時間を稼いでくれるか。

 美濃の庵室では、武田信玄が、高坂昌信の奮戦の報告を受けていた。
報告書を読み終えた信玄は、静かに目を閉じ、深く息を吐いた。

「昌信よ……。お主の忠義、しかと受け取ったぞ……。お主の犠牲は、決して無駄にはせぬ」
 信玄の目尻には、一筋の涙が光っていた。彼は、愛する家臣が、自らの命を賭して、武田の魂を守ろうとしていることを知っていた。その痛みは、信玄の胸を深く抉る。

 しかし、信玄は、そこで立ち止まるわけにはいかなかった。武田の未来、そしてこの国の安寧のため、彼は、さらなる非情な決断を迫られることになるだろう。

 高坂昌信の奮戦は、信玄の「秘策」を発動させるための、最後の時間を稼いでくれたのだ。

 小太郎たちの逃避行は続く。
武田の存亡をかけた戦いは、今、まさに最終局面へと突入しようとしていた。そ

 して、信長の放った刺客の影は、彼らのすぐ背後にまで迫っていた。
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