【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第六章:本能寺への序曲

第百三話:信玄の書状、光秀の葛藤

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 小太郎とおふうは、京での諜報活動で得た光秀の動向と、彼の心の揺れに関する報告を信玄に送った。

 その報を受けた信玄は、美濃の隠れ処で静かに、しかし確かな手応えを感じていた。
光秀の心は、すでに限界に達し、信長への忠誠と自らの良心との間で激しく葛藤している。
まさに、信玄が仕掛けた「楔」が、その本領を発揮する時が来たのだ。

 信玄は、一通の書状を書き上げた。
それは、簡潔でありながら、光秀の心を深く揺さぶる言葉が選ばれていた。信長の非道、そして天下の行く末を憂う信玄の真情。
そして何よりも、明智光秀こそが、この乱世を終わらせ、真の泰平をもたらすための「大義」を担うべき人物であると記されていた。

「小太郎よ。この書状を、光秀に届けよ。これは、彼の心に、最後の楔を打ち込むものとなろう」

 信玄は、書状を小太郎に託した。書状の重みが、小太郎の使命の重さを物語っていた。おふうは、小太郎の隣で、その表情を真剣に見つめていた。彼女もまた、この書状が持つ意味の大きさを理解していた。

 小太郎とおふうは、再び坂本城へと向かった。京の都を後にし、琵琶湖の畔を北上する。道中、二人の間に言葉は少なかったが、互いの視線が交錯するたびに、静かな決意が共有された。

 坂本城下は、以前にも増して重苦しい空気に包まれているように感じられた。信長からの理不尽な叱責が続き、光秀の精神的な負担は限界に達していると、市井の噂が囁いていた。

 小太郎は、光秀との再度の面会を取り付けるために、前回と同じく甲斐の商人に扮した。今度ばかりは、おふうも同行した。

 彼女の薬師としての評判は、坂本城下にも届いており、光秀の側近たちも、彼女の存在に一目置いていたからだ。

「明智様は、近頃めっきり食も細くなり、夜も眠れぬご様子。もしや、おふう様のお力添えがあれば……」

 側近の言葉に、小太郎はすかさず切り出した。

「実は、甲斐の地で病に伏しておられた武田信玄公より、明智様へぜひお渡ししたい書状がございます。信玄公は、明智様のお苦しみをお察しし、心を痛めておられます」

 小太郎の言葉に、光秀の側近の顔色が変わった。信玄の生存は、極秘事項。それを平然と口にする小太郎に、警戒と同時に、得体の知れない期待が混じり合った視線を向けた。

 だが、おふうの薬師としての評判と、光秀の深刻な状況が相まって、彼らは小太郎とおふうを、光秀の元へと案内することに同意した。

 坂本城の一室。
前回と変わらぬ静寂の中、小太郎は光秀と再び対峙した。光秀の顔は、疲労の色が濃く、その瞳の奥には、深い苦悩が宿っていた。

「甲斐の者と申すが、何の用で参った。わしは今、詮議どころではない」

 光秀の声には、苛立ちと、全てを投げ出したいかのような諦めが混じっていた。小太郎は、その心情を察し、静かに信玄からの書状を差し出した。

「明智様。武田信玄公より、貴殿へ。何卒、ご一読くだされ」

 光秀は、信玄の名を聞くと、はっと顔を上げた。
その手に書状を受け取ると、ゆっくりと封を開けた。書状を読み進める光秀の表情は、刻一刻と変化していった。

 最初は驚き、次いで困惑、そしてやががて、その目には、抑えきれない怒りと、そして深い悲しみが浮かんだ。
信玄の言葉は、まるで光秀の心の奥底に眠る、最も触れられたくない部分を抉り出すかのように、彼の心を揺さぶっていた。

 書状には、信長の非道が列挙されていた。比叡山焼き討ちの惨劇、民を顧みない強引な政策、そして、光秀自身が受けた理不尽な仕打ちに対する信玄の深い憂いが綴られていた。

 そして、極めつけは、信長がこのまま天下を統一すれば、さらなる血と混乱が繰り返されるだけであり、真の泰平は決して訪れないだろうという、信玄の強い確信であった。

「……まことか……信長公は……そのような……」

 光秀は、書状を握りしめ、体を震わせた。信長への長年の忠誠と、自らの良心との間で、彼の心は激しく葛藤していた。

 信玄の言葉は、光秀が心の奥底で感じていた疑問や不満を、明確な「大義」として彼の前に突きつけたのだ。

「明智様。信玄公は、貴殿こそが、この乱世を終わらせる真の『義』を持つお方だと、そう信じておられます。このままでは、天下は血で血を洗うばかり。信玄公は、明智様が、信長公亡き後の世を、真に安寧なるものへと導くことができる唯一の人物だと、そう確信しておられるのです」

 小太郎は、光秀の目を見据え、力を込めて語りかけた。おふうもまた、光秀の苦悩に寄り添うように、静かに見守っていた。

 光秀は、書状と小太郎の言葉に、全身で激しく揺さぶられていた。
信玄という、かつての天下の覇者からの直接的な呼びかけ。それは、光秀の心の奥底に沈殿していた、信長への不満を決定的なものに変え、彼に新たな「大義」を与えようとしていた。

「大義……か……」

 光秀は、震える声で呟いた。
彼の脳裏には、信長の冷酷なまでの笑顔と、民の悲しみに打ちひしがれる姿が、交互に去来していた。
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