【完結】『からくり長屋の事件帖 ~変わり発明家甚兵衛と江戸人情お助け娘お絹~』

月影 朔

文字の大きさ
3 / 64
第一部:長屋の日常と奇妙な事件の始まり

第三話:格子破りの帳面

しおりを挟む
 江戸の大通りから一本入った小路に、呉服商、伊勢屋の立派な店があった。堅実な商いで知られ、主人の伊兵衛は番頭や手代たちの勤めぶりにも厳しく、店の裏にある住居兼事務所の警備には特に気を配っていた。夜間は店の者が見張りに立ち、事務所の戸棚は頑丈な鍵をかけ、窓には格子を嵌めている。しかし、そんな厳重な警備にもかかわらず、前夜、事件は起こった。

「消えたんだ…! 大事な売り上げ帳が、跡形もなく!」

 伊兵衛は顔を真っ青にして訴えた。事務所の戸棚に仕舞い、確かに鍵をかけたはずの三冊綴りの売り上げ帳が、朝見ると消えていたのだ。事務所の鍵はかかったまま、窓の格子も外れていない。見張りの者は、一晩中異常はなかったと証言している。

「幽霊か、狐か狸か…そうでなければ、どうやってこんなことが…」

 この話は、お絹が町の仕立て屋仲間から耳にした。伊勢屋は長屋の者とは直接付き合いはないが、堅物で知られる伊兵衛が慌てふためいている様子や、「見えない泥棒」の話は、たちまち長屋にまで伝わった。

「へえ、格子破りどころか、戸も窓も破らずに物を盗むなんて、また面白い事件ですいね」お絹は、いつものように甚兵衛に話を持っていった。

 甚兵衛は、丁度奇妙な音を立てる小さな箱型のからくりを調整しているところだった。それは、部屋の振動を感知して自動で音を鳴らすという、これも実用性の低い(らしい)警報器だった。

「警報器、か…設置されていたのに作動しなかったということか?」甚兵衛は興味を示した。「音や振動を起こさずに侵入する、あるいは物だけを運び出す…これはまた高度なからくりが必要だな」

 甚兵衛は、お絹に頼まれて伊勢屋の店へと向かった。伊兵衛は、長屋の貧乏発明家に何を頼るのかと露骨に不審がったが、お絹が「この方は見た目はあれですが、目利きは確かなんです」と上手く言い含め、事務所を見せてもらうことになった。

 甚兵衛は事務所の中を歩き回り、隅々まで観察した。伊兵衛が「問題ない」と言った鍵や格子、壁や床、天井まで、舐めるように目を凝らす。彼は、伊兵衛が気づかない、埃の積もり方の僅かな違い、壁紙の貼り合わせのほんの小さな段差、床板の継ぎ目の微細な隙間を見つけていく。

「厳重に見えますが、甘いところはありますな」甚兵衛は呟いた。彼は、窓の格子と壁の間に、人が通るには狭すぎるが、何か細いものが通せそうな隙間があることに気づいた。また、戸棚の鍵穴にも、普通の鍵とは違う、何か特殊な器具を使ったような微細な傷があることを指摘した。
「まさか…この小さな隙間から?」伊兵衛は信じられないという顔をした。
「恐らく。そして、その道具を使って、この鍵を開け、帳面を持ち出した」甚兵衛は断言した。

 甚兵衛は、自身の懐から細い針金のようなものと、小さな耳かきのような道具を取り出した。それは、彼が鍵の構造を調べるために作った「錠前探り器」だった。彼は伊勢屋の戸棚の鍵穴にそれを差し込み、器用に操作した。「この鍵は、特定の順番で内部のピンを操作すれば開きます。しかし、音を立てずに、そして痕跡を残さずに開けるには、高度な技術と、それに適した道具が必要です」

 甚兵衛は言った。「犯人は、この鍵の仕組みを知っていたか、あるいは特殊な錠前破りの技術を持っている。そして、帳面をこの隙間から外へ運び出すための、細く長く、ある程度硬さのある道具を使ったはずだ。まるで…そう、かつて私が知っていた、『忍び仕事』で使われるようなからくりの応用だ」

「しのび、ごと…?」お絹は思わず息を飲んだ。甚兵衛が、初めて自身の「過去」に直接関わるような言葉を口にした瞬間だった。彼の顔に、一瞬硬い光が宿るのを、お絹は見逃さなかった。

 お絹は、伊勢屋の近所や、店に出入りする人々から情報を集めた。伊兵衛には商売敵が多いこと、最近大きな取引で成功し、周囲の羨望や嫉妬を集めていること、店の従業員の中に以前素行の悪かった者がいることなどを聞き出した。また、伊勢屋が出入りする問屋街で、「ある筋」の人間が伊勢屋の帳面を探っているという噂があることも耳にした。その「ある筋」とは、表稼業を持ちながら裏で厄介な仕事も請け負う、あまり関わりたくない連中らしい。

「『ある筋』…」甚兵衛は、お絹の情報に何かを感じ取ったようだった。彼の目つきが、長屋で見せる穏やかなそれとは違う、鋭いものになる。まるで、昔の武士に戻ったかのようだ。

 甚兵衛は、自身の「錠前探り器」や、別の「遠隔操作式操作棒」のようなからくりを使い、伊勢屋の鍵穴と窓の隙間からどのように帳面を抜き出すことが可能か、その原理を伊兵衛に見せた。それは、まるで手品のような、だが確かな物理法則に基づいたからくりだった。

「このような仕掛けを扱えるのは、特定の技術を持つ者…そして、その技術を隠密裏に使う必要があった者だ」

 甚兵衛の推理は、特定の人物像へと絞り込まれた。伊兵衛の商売敵、従業員、あるいは…お絹が耳にした「ある筋」の人間。その中で、帳面を盗む動機があり、鍵穴や隙間を通す道具を扱える者、そして何より、甚兵衛が感じ取った「忍び仕事」のような空気を持つ者…。

 甚兵衛は、ある特定の人物に目星をつけた。それは、伊勢屋の元従業員で、素行不良でクビになった男だった。彼は手先が器用で、伊勢屋の事務所の間取りや鍵の構造をよく知っていた。そして、借金があり、「ある筋」と関わりがあるという噂もあった。

 甚兵衛とお絹は、その元従業員、名を定吉という男に当たった。定吉は最初しらを切ったが、甚兵衛が「お前が使ったのは、鍵穴から細い針金を通し、内部のピンを操作するからくりだろう。そして、帳面は細く丸め、隙間から抜き出すために、竹ひごのようなもので押し出した」と、彼が使ったであろう具体的な手口と、そこに隠された「からくり」の原理を目の前で再現して見せると、定吉は蒼白になった。

 定吉は全てを白状した。やはり借金苦で、「ある筋」の者に頼まれ、帳面を盗み出したのだという。帳面には、伊勢屋が隠している裏帳簿、あるいは不正な取引の記録があったらしい。「ある筋」の者は、それをネタに伊勢屋を脅迫するつもりだったのだ。

 伊兵衛は、帳面が戻ってきたこと、そして犯人が身近な人間であったことに安堵しつつも、自身の脇の甘さ、そして帳面に記した内容に顔色を変えた。甚兵衛とお絹は、帳面をどうするかについては伊兵衛自身に任せた。人情としては、定吉の借金苦も理解できるが、彼のやったことは許されることではない。伊兵衛は迷った末、定吉を役人に突き出すことを選んだ。定吉は捕らえられたが、伊兵衛もまた、この一件で自身が抱える問題と向き合わざるを得なくなった。人情の複雑さが残る結末だった。

 事件は解決した。見えない泥棒の正体は、人間の欲と、それを叶えるために使われた「忍びのからくり」だった。そして、その「からくり」を見抜いたのは、甚兵衛の知識と、お絹が繋いだ情報、そして甚兵衛自身の過去の経験だった。

 長屋に戻る道すがら、お絹は甚兵衛に尋ねた。
「甚兵衛さん、『忍び仕事のからくり』って、どうしてそんなこと知ってるんですい? やっぱり、武士だった頃に…」

 甚兵衛は遠い目をして空を見た。
「…過去には、色々な『からくり』があったのだ。人の命を奪うもの、情報を盗むもの、そして…人の心を操るものまで」

 彼の言葉はどこか重く、いつもの変人ぶりは消えていた。

 定吉が盗んだ帳面の内容、「ある筋」と呼ばれる連中。それは、今回の事件が単なる長屋の騒動や近所の揉め事ではなく、江戸の町の、もっと深く、暗い部分に繋がっていることを示唆していた。甚兵衛の過去が、今、少しずつ現在の彼の周りに影を落とし始めている。からくり長屋の日常は続くが、見えないところで、新たな歯車が回り始めていた。それは、やがて江戸を揺るがす大きな「からくり」の一部となるのだろう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

高遠の翁の物語

本広 昌
歴史・時代
時は戦国、信州諏方郡を支配する諏方惣領家が敵に滅ぼされた。 伊那郡高遠の主、諏方頼継は惣領家家族のうち、齢十一歳の姫君を、ひょんなことから保護できた。 頼継は豪傑でもなければ知将でもない。その辺の凡将だろう。 それでも若き姫を守りながら、滅びた惣領家の再興を叶えるため、死に物狂いで強大な敵に立ち向かっていく歴史物語。

十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部

陵月夜白(りょうづきやしろ)
歴史・時代
天明三年――浅間山が火を噴いた。 神の怒りに触れたかのように、黒い灰は空を塞ぎ、郷も田畑も人の営みも、容赦なく呑み込んでいく。噴火と飢饉が藩を蝕み、救いを求める声の裏で、名もなき影が蠢いた。灰の夜を踏むのは、血も温もりも失った“黒屍人”。誰が、何のために――。 その災厄に呼応するように、忍びの郷に封じられていた「十二輝の干支の珠」が、ひとつ、またひとつと眠りから解かれる。 珠は器を選び、器は力に喰われ、力は人を裏返す。 伊賀と甲賀の長い因縁、奪われる珠、引き裂かれる同胞。 そして、灰の国で拾い集められていく十二の輝きが揃う時、世界の秩序そのものが――動き出す。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

江戸情話 てる吉の女観音道

藤原 てるてる 
歴史・時代
この物語の主人公は、越後の百姓の倅である。 本当は跡を継いで百姓をするところ、父の後釜に邪険にされ家を出たのであった。 江戸に出て、深川で飛脚をして渡世を送っている。 歳は十九、取り柄はすけべ魂である。女体道から女観音道へ至る物語である。 慶応元年五月、あと何年かしたら明治という激動期である。 その頃は、奇妙な踊りが流行るは、辻斬りがあるはで庶民はてんやわんや。 これは、次に来る、新しい世を感じていたのではないのか。 日本の性文化が、最も乱れ咲きしていたと思われるころの話。 このてる吉は、飛脚であちこち街中をまわって、女を見ては喜んでいる。 生来の女好きではあるが、遊び狂っているうちに、ある思いに至ったのである。 女は観音様なのに、救われていない女衆が多すぎるのではないのか。 遊女たちの流した涙、流せなかった涙、声に出せない叫びを知った。 これは、なんとかならないものか。何か、出来ないかと。 ……(オラが、遊女屋をやればええでねえか) てる吉は、そう思ったのである。 生きるのに、本当に困窮しとる女から来てもらう。 歳、容姿、人となり、借金の過多、子連れなど、なんちゃない。 いつまでも、居てくれていい。みんなが付いているから。 女衆が、安寧に過ごせる場を作ろうと思った。 そこで置屋で知り合った土佐の女衒に弟子入りし、女体道のイロハを教わる。  あてがって来る闇の女らに、研がれまくられるという、ありがた修行を重ねる。 相模の国に女仕入れに行かされ、三人連れ帰り、褒美に小判を頂き元手を得る。 四ツ谷の岡場所の外れに、掘っ立て小屋みたいな置屋を作る。  なんとか四人集めて来て、さあ、これからだという時に…… てる吉は、闇に消えたのであった。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

処理中です...