【完結】『大江戸妖怪診療所~奇病を治すは鬼の医者~』

月影 朔

文字の大きさ
111 / 150
第六章:古き神々の涙と因果の病

第百十一話:火神の戒め

しおりを挟む
 江戸の空は、これまでになく熱気を帯び、見えない火の粉が舞っているかのようだった。

 玄庵診療所には、火を扱う生業の者たちが、高熱と火傷に苦しむ姿でひっきりなしに運び込まれる。

 彼らの皮膚は赤く爛れ、その呻き声は、まるで燃え盛る薪が弾ける音にも似て、おみつの心を深く締め付けた。

 運び込まれた鍛冶師の熱は一向に引かず、意識も朦朧としたままだ。彼の体からは、焦げ付くような「火の匂い」が立ち込め、おみつが触れるたびに、彼女の心に、熱く、そして悲しい「火への冒涜」の意識が押し寄せた。それは、火神の、言葉にならぬほどの嘆きが、この男の身に現れているかのようだった。

 「先生……この熱を、どうにかしてあげられませんか……」

 おみつは、不安と焦燥に駆られながら、玄庵に訴えた。彼女の浄化の光は、熱をわずかに和らげるものの、根本的な治癒には至らない。

 玄庵は、黙って鍛冶師の脈を測り、その表情には深い思索の影が落ちていた。火神の因果。それは、他の因果にも増して、人々の「利便性の追求」に根差している。火は、人々の暮らしを豊かにし、文明を発展させた。しかし、その恩恵を当然のように受け、火への感謝を忘れた結果、この病は生まれた。

 その時、診療所の戸が、勢いよく開かれた。現れたのは、竜胆だった。彼の顔には、疲労の色が濃く、その手には、炭で汚れた古い手ぬぐいが握られていた。

 「玄庵……おみつ……。この奇妙な熱病は、何なのだ? 俺の知る限り、これほどの高熱が続き、全身が爛れる病など、前例がない」

 竜胆の声には、珍しく焦りの色が混じっていた。彼は、風の因果に苦しむ患者のために、風神を祀る廃れた神社を訪ねていたのだ。しかし、その道中で、この新たな病の兆候に触れたのだろう。

 玄庵は、静かに竜胆に、火の因果について説明した。火神の嘆きが、火を粗末に扱い、その恵みを当然のように享受した者たちに、病として現れているのだと。

 「……そんな、馬鹿な。火神が、人間に病をもたらすなど……。だが、確かに、この熱は、尋常ではない……」

 竜胆は、信じられないといった様子で呟きながらも、彼の理性は、玄庵の言葉に、ある種の真実を見出していた。彼の身近にも、この病に苦しむ者が現れ始めているのだろう。

 「では、どうすればよい? この火の病を鎮めるには、どうすればいいのだ?」

 竜胆は、焦りの色を隠さずに問いかけた。
 「火神の悲しみを癒やすには、人々の心を変える必要がある。火を粗末に扱い、その恵みを忘れ去った者たちが、その過ちを悔い改め、火への感謝と畏敬の念を取り戻すことだ」

 玄庵の言葉に、竜胆は深く眉をひそめた。
 「そんな、絵空事のような話で、この病が治るとでもいうのか? 目に見えぬ神に、人々が突然感謝するなど……」

 「しかし、そうしなければ、この病は止まらない。おみつの力は、人々の心に宿る罪悪感を視覚化し、それを認識させることで、悔い改めと感謝の心を芽生えさせる。それが、火神の悲しみを癒やし、因果の病を根本から治す道なのだ」

 玄庵の言葉に、おみつは改めて鍛冶師の手に触れた。すると、彼女の心に、鍛冶師が過去に、火の恵みを当たり前のように使い、余った火の種を無造作に捨て、小さな山火事を引き起こしたことへの「無責任」な意識が、鮮明に浮かび上がった。

 そして、その光景の奥に、燃え盛る炎の中で、悲しみに顔を歪ませる、火神の姿がぼんやりと見えた。

 「見えます……! この方が、火を粗末に扱ったことへの、火神様の悲しみが……」

 おみつの言葉は、まるで彼女自身が、その光景を体験しているかのようだった。その光景が、鍛冶師の心に、そしてそれを聞く竜胆の心にも、微かながら伝わっていく。

 竜胆は、呆然とした表情でおみつを見つめた。彼は、これまで妖怪を悪と断じ、調伏することのみに生きてきた。だが、このような「目に見えぬ因果」に対し、彼はなすすべもなかった。

 「玄庵……ならば、具体的に、何をすれば良いのだ? 風の神社のことのように……」
 竜胆の言葉に、玄庵は静かに頷いた。

 「火神を祀る場所は、かつては多くの村や集落に存在した。竈の神、鍛冶の神、火伏せの神として、人々の暮らしに深く根付いていたはずだ。だが、今ではその多くが忘れ去られ、祠は荒れ果てている」

 玄庵の言葉は、この火の因果もまた、人々の「忘れられた信仰」に根差していることを示唆していた。

 「その廃れた祠を清め、再び火神への祈りを捧げること。そして、火を扱う者たちが、自らの行いを悔い改め、火への感謝を再認識すること。それが、この病を鎮めるための、具体的な行動となるだろう」

 玄庵の言葉に、竜胆の瞳に、新たな決意の光が宿った。彼は、これまでのように妖怪を追うだけでは、この因果の病は解決できないことを、より強く確信したのだ。

 その夜、玄庵診療所では、おみつが患者の鍛冶師の手に触れ、その心に、火への感謝と、過ちへの悔い改めを促していた。彼女の浄化の光が、鍛冶師の体を包み込み、高熱が、わずかながらも引いていくのが見て取れた。

 竜胆は、その様子を傍らで静かに見守っていた。彼の脳裏には、玄庵の言葉が何度も反芻されていた。

 「全く、神様ってのも、人間が勝手に忘れちまうと、こんな形で訴えかけてくるのか……。だが、俺は……俺は、人々を救いたい。それが、たとえ目に見えぬ神の戒めだとしても……」

 竜胆は、強く拳を握りしめた。彼は、退魔師として、人々の安全と平穏を守ることに尽力してきた。その信念は、たとえ相手が神であっても、揺らぐことはなかった。

 夜の帳が下りた鬼灯横丁には、静かな決意の灯が揺れていた。火の因果は、依然として人々の不安を煽るが、玄庵とおみつ、そして彼らに協力し始めた竜胆の存在が、その不安を打ち破る希望の光となり始めていた。

 彼らは、この因果の病を乗り越え、人間と神々、そしてこの世界全体が、真の平穏を取り戻すための、新たな戦いの扉を開こうとしていたのだ。

 翌朝、竜胆は、玄庵診療所を後にした。彼の向かう先は、江戸の町外れにある、小さな鍛冶場だった。そこには、かつて火神を祀っていたとされる、朽ちかけた祠があった。

 竜胆の胸には、この因果の病を鎮めるため、そして人々を救うためという、確かな使命感が燃え盛っていた。
彼は、退魔師として、人々の負の感情によって生じた穢れを調伏してきた。
だが、今、彼が向き合っているのは、人々の「無関心」と「傲慢さ」が招いた、神々の悲しみだった。

 風の因果に苦しむ患者を救うため、風神の祠を清めることを決意した竜胆の背中には、新たな覚悟が宿っていた。

 この火の因果もまた、彼の使命の一部となったのだ。彼は、単なる退魔師としてではなく、人々を真に導く者として、生まれ変わろうとしていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

古書館に眠る手記

猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。 十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。 そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。 寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。 “読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

処理中です...