【完結】『迷子札の子守唄 ~見届けられた命たち~』

月影 朔

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第2章:託されし願い

第20話:夜陰の現場

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 越後屋が不正な取引を行う可能性のある場所と日時。「あの人」が読み解いた記録の断片が示すその場所は、江戸の街の東、海に近い寂れた船着き場の一角にある古い蔵らしき場所だった。

 日時は数日後の夜。宗次はその情報を胸に、指定された日の夜、目的の場所へと向かった。

 夜の海風が宗次の頬を撫でる。潮の匂いと、遠くの漁火が、街の中心部とは異なる雰囲気を醸し出していた。人影はほとんどなく、波の音だけが静かに響いている。越後屋がこのような場所を選ぶのは頷ける。人目を避けて、異国から持ち込まれた品などを陸揚げするには最適な場所だろう。

「あの人」から聞いた場所を頼りに、宗次は注意深く周囲を探った。複数の古い蔵が立ち並ぶ一角だ。どれが記録の示す場所なのかは定かではないが、最も海に近い、一際古びた蔵に人の気配があるように感じられた。

 宗次は蔵から少し離れた物陰に身を潜め、様子を窺った。夜の闇は宗次のような者にとっては味方だ。気配を殺し、五感を研ぎ澄ませる。潮風に乗って、低い話し声が微かに聞こえてくる。

 蔵の戸は固く閉ざされているが、脇の小さな潜り戸が開いているようだ。そこから明かりが漏れ、人影が動いているのが見える。越後屋の取引は、ここで本当に行われようとしている。

 宗次はさらに距離を詰め、潜り戸の傍まで音もなく忍び寄った。中からは、重い物を引きずる音や、いくつかの低い声が聞こえる。会話の内容は聞き取れないが、緊迫した雰囲気が伝わってくる。

 息を潜めて潜り戸の隙間から中を覗いた。蔵の中央には、いくつかの木箱が置かれている。数人の男たちがその周りに立っている。顔はよく見えないが、越後屋の者か、あるいは取引相手だろう。そして、宗次が見慣れた顔があった。

 越後屋の若旦那──。昼間、越後屋の店の周りを探っていた宗次を襲わせた張本人だ。やはり、彼が直接このような場に関わっている。若旦那は、部下らしき男たちに指示を出しているようだ。彼の傍には、もう一人、身なりの良い男がいる。彼が取引相手だろうか。

 さらに奥を見ると、大きな木箱がいくつか置かれており、その中から何かが取り出されているのが見えた。暗くてよく分からないが、布に包まれた長い棒状のもの……刀だろうか。あるいは、他の禁制品か。

 証拠を押さえなければならない。この目で見たこと、ここで何が行われているかを、確かな形で記録する必要がある。しかし、蔵の中は警戒が厳重だ。中に踏み込むのは無謀すぎる。

 宗次は、蔵の外側から、何か痕跡を見つけられないかと考えた。蔵の壁に耳を当ててみたり、周囲の地面を探ってみたり。風向きが変わったのか、会話の声が少しだけ鮮明になった。

「……品は確かだな?」

「ああ、間違いねぇ。約束通りだ」

 取引相手らしき男の声が聞こえた。品物、約束。越後屋が不正な取引を行っていることは間違いない。

 その時、蔵の中から一人の男が出てきた。宗次が隠れている潜り戸のすぐ近くのようだ。男は外の様子を窺うように、ゆっくりと戸を閉めかけた。

 このままでは、潜り戸が閉められてしまう。内部の様子を見ることも、会話を聞くこともできなくなる。

 宗次は咄嗟の判断で、潜り戸の脇に隠れていた自身の懐から、小さな石を一つ取り出した。男が潜り戸を完全に閉める寸前、宗次はその石を蔵の裏手の方へ投げつけた。

 カラン、と瓦か何かに石が当たる音が響いた。

「ん? 今、何か音がしなかったか?」

 蔵から出てきた男が不審そうにそちらを振り向いた。

 宗次はその一瞬の隙を逃さなかった。男が裏手を見ている間に、宗次は潜り戸の隙間から、素早く蔵の中に忍び込んだ。物陰に身を寄せ、気配を完全に消す。

 蔵の中は、予想以上に薄暗く、埃っぽい。明かりは中央に集まっている。宗次は壁際に張り付き、男たちの様子を伺った。

 先ほど外に出た男が不審そうな顔で戻ってきた。

「何かの聞き間違いか? 何もいねぇようだが」

「馬鹿な! 用心しろ! こんな時に物音など…」
 若旦那らしき男が苛立った声で言った。

 宗次は身を隠したまま、男たちの会話に耳を澄ませようとした。しかし、彼らは用心のためか、声を潜めて話し始めた。内容は聞き取れない。

 しかし、宗次が中にいることには誰も気づいていない。この機会に、何らかの証拠を探さなければ。記録の切れ端や、取引された品物の一部でも構わない。

 宗次がさらに物陰を伝って奥に進もうとした、その時だった。

 突然、蔵の奥から、ニャー、という猫の声が響いた。

 宗次の体が硬直した。しまった、と思っても遅い。猫が宗次の存在に気づき、鳴き声を上げたのだ。

「何だ! 今の声は! 誰かいるのか!」

 若旦那が鋭い声で叫んだ。男たちの視線が一斉に蔵の奥、宗次が潜んでいる方向へと向けられる。

 隠れていた物陰から、宗次の姿が露わになった。もう逃げ隠れることはできない。取引現場に潜入していることが露見したのだ。

 宗次は静かに腰の刀に手をかけた。手ぶらで帰るわけにはいかない。たとえ危険を冒してでも、越後屋の不正を示す、確かな証拠を掴まなければならない。

 蔵の中に、宗次と越後屋の男たちの間に、張り詰めた空気が満ちた。夜陰に潜む刃と、隠された秘密が、今、剥き出しになろうとしていた。

 逃走か、それとも証拠を掴むための強行策か。宗次は次の手を考えながら、襲いかかってくるであろう男たちを睨みつけた。
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