【完結】『迷子札の子守唄 ~見届けられた命たち~』

月影 朔

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第2章:託されし願い

第21話:蔵からの脱出

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 静寂を破った猫の鳴き声が、夜陰に隠された緊迫を一気に引き裂いた。

 越後屋の若旦那を含め、蔵の中にいた男たちの視線が一斉に宗次に突き刺さる。隠れる場所はない。潜入が露見したのだ。

「何者だ!?」

 若旦那の鋭い声が響く。同時に、周囲にいた男たちが腰の得物に手をかけた。十人近い人数だ。全員を相手にするのは不可能。宗次の目的は戦闘ではない。ここから無事脱出し、越後屋の不正をこの目で見たという事実、そして可能ならば証拠を持ち帰ることだ。

 宗次は迷わず腰の刀を抜いた。暗闇に、刀身が鈍く光る。越後屋の男たちが一斉に宗次に向かって踏み込んできた。彼らの得物は刀や短い槍など様々だ。訓練された動きではないが、数で圧倒しようという意図が見える。

 狭い蔵の中での乱戦だ。積み上げられた木箱が視界を遮り、足元もおぼつかない。宗次は無理に攻めず、最小限の動きで敵の攻撃を受け流すことに徹した。刀を使い、迫る刃や穂先を弾き、あるいは体捌きで相手の体勢を崩す。

 一人、また一人と、宗次の冷静な剣技に翻弄され、怯んだり体勢を崩したりする男が出る。しかし、次々と新しい敵が宗次を取り囲む。若旦那は直接は斬り込まず、後ろから部下たちに指示を飛ばしている。

「生け捕りにしろ! 余計な真似はするな!」

 生け捕り──証拠隠滅のため、宗次を生かしたまま口を封じるつもりだ。

 宗次は絶体絶命の状況で、冷静に活路を探る。出口は潜り戸しかない。しかし、そこは敵に塞がれている。別の方法は?

 視線を巡らせた宗次の目に、蔵の壁に立てかけられた梯子が映った。屋根裏か、あるいは別の出口へと繋がっているのかもしれない。あそこまで辿り着ければ…!

 宗次は梯子を目指し、突破を図るべく、一気に動いた。刀を使い、邪魔な敵を素早く無力化する。切っ先で相手の得物を払い、柄頭で鳩尾を打つ。悲鳴や呻き声が上がるが、宗次は止まらない。

 その時、若旦那が叫んだ。
「そいつが何か持っているかもしれん! 懐を調べろ!」

 宗次が先ほど問屋跡地から持ち帰った記録のことか。彼らは宗次がお梅の件を調べていることを知っており、宗次がお梅の夫の秘密に辿り着くことを警戒しているのだ。

 男たちが宗次の懐を狙って掴みかかってくる。宗次は懐を守りながら後退した。梯子までの距離が遠い。

 乱闘の中で、積み重ねられていた木箱の一つが崩れた。中から、油紙に包まれた何かが転がり出る。それは、先ほど越後屋の男たちが扱っていた品物の一つだ。

 チャンスは一瞬。宗次は崩れた木箱の傍を駆け抜ける際、その転がり出た包みを咄嗟に拾い上げた。布に包まれていて中身は分からないが、確かな重みがある。

「てめぇ! 何を拾った!」

 若旦那が叫び、数人の男が宗次に襲いかかってきた。宗次は拾った包みを懐にしまい、梯子へと駆け寄る。敵の一人が梯子の前に立ちはだかる。宗次はその男の得物を刀で払い、梯子へと飛び乗った。

「待て! 逃がすな!」

 下から追ってくる男たちの声を背に、宗次は必死に梯子を駆け上がった。屋根裏への入り口らしき開口部が見える。そこへ滑り込むようにして、宗次は屋根裏へと逃れた。

 屋根裏は埃っぽく、狭い。しかし、ここならば一時的に身を隠せる。下から男たちが梯子を上がってくる気配がする。宗次は身を潜めながら、屋根裏の暗闇を進んだ。どこかに逃げ道があるはずだ。

 屋根裏の隅に、小さな窓があることに気づいた。人が一人通れるかどうかという狭さだが、ここから外に出られるかもしれない。窓の外は、海側の暗い地面だ。

 追っ手が屋根裏に入ってくる音がした。時間はない。宗次は窓枠に手をかけ、無理やり体を押し込んだ。錆び付いた金具が軋む音、木材が擦れる音が響く。

 狭い窓を通り抜け、宗次は地面へと飛び降りた。ドサリ、と音がしたが、幸い怪我はない。すぐに体を起こし、周囲を見回した。追っ手の声が屋根裏から聞こえる。彼らがこの窓に気づく前に、ここから離れなければ。

 宗次は蔵から駆け出した。海沿いの寂しい道を、闇に紛れて走る。背後から、追ってくる足音や怒声が聞こえる。見つかっている!

 宗次は地形を利して逃げようとした。入り組んだ船着き場の設備の間を縫い、物陰を利用して追っ手の視線を切る。潮風が、宗次の荒い息遣いを掻き消すかのようだ。

 追いつかれそうになりながらも、宗次は必死に逃げ続けた。かつて武士として培った体力と、危険を察知する本能が、宗次を駆り立てる。夜の街は広く、逃げ込む場所はいくらでもある。

 どれほど逃げただろうか。やがて、追っ手の気配が遠ざかっていくのを感じた。宗次は息を切らしながら、人気のない路地の陰に身を潜めた。心臓が激しく脈打っている。体中が痛むが、致命的な傷はないようだ。

 そして、懐の中に、蔵から持ち帰った包みが確かな感触としてあるのを感じた。危険を冒してまで手に入れたもの。中身は何なのか。越後屋の不正を示す、確かな証拠なのだろうか。

 宗次は夜空を見上げた。星が瞬いている。九死に一生を得た。だが、越後屋に顔を見られた今、宗次の身は、そして彼と関わる「あの人」や赤子の身は、さらなる危険に晒されることになった。

 手に入れた包みが、この危険に見合うだけの価値を持つことを願うばかりだ。早く「あの人」の元へ戻り、この包みの中身を確認し、今後のことを話し合わなければならない。

 宗次は再び立ち上がった。足は重いが、心は研ぎ澄まされている。越後屋の闇は深く、強力だ。しかし、宗次は立ち止まらない。お梅の願いと、小さな命を守るために。夜明け前の道を、宗次は「あの人」の家を目指して歩き出した。

 懐の包みが、彼の決意の重さを物語っていた。
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