実の父に隣国へ死にに行けと言われた王女は、隣国の王に溺愛される。

曼珠沙華

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助けて。
なんて、恐ろしい。

早くあの男から離れなければ。
あの子の始末に夢中なうちに。

だって、わたくしにはなにも出来ないもの。
だからしょうがないじゃない。

「一番目障りなのは狂い姫でしたが、一番許せないのはあなたですよ」

我が子を見捨てて馬車から飛び出し、男から離れられたと思っていたのに、その声はすぐ後ろから聞こえた。

「ひぃっ……」

恐怖に走ることもままならず足がもつれて地面へ倒れてしまう。

顔を上げれば、いつの間にか男は目の前にいた。

「やめて!助けて!」

「オリビア様も同じよう懇願されたのではないですか?孤独と恐怖と苦痛の中で。ねぇ?エメラルド国の王妃様」

「……なんのこと?わたくしは何も……あの子に何もしてないわよ!」

「親娘共々同じことを仰る。我々の情報網を舐めないで頂きたい」

オリビアのことはエメラルド国の民さえ知らない。
他国の者が知るわけがない。

「オリビア様の存在が表に出るまではなかなか情報を得るのに苦労しましたが、サファイア国へ来られてからは出るわ出るわ、痛ましい情報の数々が。オリビア様を幽閉していた頃は徹底されていた情報もサファイア国に送られてからは密偵たちによって簡単に手に入りましたよ。まぁ、オリビア様がサファイア国で死ぬことを確信していたことによる怠慢でしょうね」

体に冷たい汗が流れるのが分かる。

男は笑みを消し、顔を傾け、鋭い眼光でこちらを睨め付けた。

「ゲスが。散々オリビア様を虐げてきたようだな。楽に死ねると思うなよ」

男の言葉が合図のように突然周りに濃い霧が現れた。

「な、なに……」

あっという間に目の前にいたはずの男の姿も霧の中に消える。

何も見えない。
馬車も、魔獣も。

「なによ……なんなのよ!!」

みんなどこ……。
陛下は?
陛下はどこ?

あぁ、こんな時でさえ陛下の姿を捜し続けなければならないなんて。

いつも……いつも、いつも!!

あの人は気が多い人だから、いつも傍にいてくれない。

魅力的な人だから。
周りの女たちも彼を放っておかない。

違う。
こんな時に何を考えているの。
あぁ、どうしてこんな目に……。

どうして。
どうしてこんな時でさえ陛下は傍にいてくれないの。
また他の女の所に行ったの?
わたくしが一番彼を愛しているのに。

違う。
彼が悪いんじゃない。
色目を使い、媚びへつらい、惑わす女たちが悪い。

彼は悪くない。
わたくしだって悪くない。

彼がよそ見ばかりしてわたくしを見てくれないのは、わたくしのせいじゃない。

全部全部、彼の周りにいる女たちが悪い。

だから排除してきた。
立場をわきまえない低級貴族の娘も、彼を誘惑する卑しい女中たちも。

わたくしより美しい女はいらない。
わたくしから彼を奪う女はいらない。

だからあいつも消してやった。
殺してやった。

栄養失調?餓死?
なんて惨めな死。

当然の報いよ。
わたくし以外の子を成すなんて許されないことをするから。
踊り子だか何だか知らないけど、顔が良いだけの価値のない女。

「それは私のこと?」

するりと肩に冷たいものが触れる。

「ひっ……だれっ……」

振り向いても誰もいない。

でも間違いなく今誰かに触られた。
声だって聞こえた。
そう、声。

あれは、知っている声だった。

疎ましくて、忌々しい声。

「……そんなはずないわ……だって、生きているはずがないもの。死んだ……あの女は死んだのよ」

「そう、あなたたちに殺された」

耳元で妖しく囁かれる声。
はっと横に視線を向ける。

「そして、私の愛しいオリビアを傷つけた。あなたが、あなたたちが」

あの女が、すぐ目の前に立っていた。
とても恨めしそうな顔で。

「ひいぃっ……なんでっ……なんでっ……」

「なんで?お行儀よく天に召されると思った?あなたたちへの憎しみを抱えたまま?よくもオリビアを……私の可愛い子を……」

「化け物っ……憎しみ?自業自得よ!あの人の子を産んだお前が悪い!わたくしを惨めにさせて……死んで償うのは当たり前じゃない!」

女はわずかに眉をひそめ、口の端を吊り上げた。

「あの人?」

吐き捨てるような声に笑みが滲む。
でもそれは愉快の笑みではない。

まるでこちらが滑稽なほど愚かに見えるとでも言いたげだった。

視線が痛い。
沈黙の中に立ち込める鋭く乾いた空気。

女は「あははっ」と声を上げて笑った。

「あなたはまだあの男にご執心なのね。ほら、ごらんなさい。あなたが愛してやまない陛下はあそこにいるわ」

女が指し示す方から野太い魔獣の声に混じって、愛する彼の叫び声が聞こえた。

「へ、陛下……」

わたくしの愛しい人。
どこに……。

「だずげでぐれぇぇぇええっ!!私を、早くっ!はやくー!!早くたすけろぉぉぉー!!」

「へ……」

なにあれ。
顔のあらゆる穴から体液を垂れ流して。
魔獣から逃げ惑い、みっともなく喚き散らしている姿に愛していた凛々しい陛下の面影はない。

いつもは国王だからと偉そうにしているくせに。
今は自身の命乞いに夢中。
わたくしのことなんて目も向けず、その姿は魔獣たちのただの食料でしかなかった。

なんて……なんて……。

「なんて無様なんでしょう!」

鈴の音のような声で女は嘲笑う。

「あ、あんたのせいでっ!!あんたがあの娘を産まなければ!!この疫病神どもっ!!」

「あぁ、偉大なる王妃様。何故私にそのようなことを仰るの」

女はずいっと顔を近付けた。

「あなたが嫉妬に駆られたのは私にだけではないというのに」

美しく微笑む女。
それが余計に不気味さを煽った。

「な、なにを言っているの……」

「愛しい陛下を独り占めしたくて、あなたは彼に近付く女全てに嫉妬していた」

「それの何が悪いというの!悪いのはあの人を誑かす女たちじゃない!!」

「それだけ?」

「え?」

「貴族の娘、女中たち。それだけ?いいえ、あなたが一番嫉妬していたのは哀れな彼女たちではないわ。ほら、思い出して。愛してやまないあの人を一番独り占めしていたのは、誰?私?それとも、あなた?」

違う。
わたくしでも、この女でもない。

彼が一番傍に置いたのも、愛したのも、可愛がったのも、優しい言葉をかけたのも、眩しい笑顔を見せたのも、全部……。

そう、全部。
……あの子。

「アリス……」

陛下がオリビアよりもアリスを可愛がるのはわたくしの子だからとずっと思い込ませていた。
愛する妻の子だから、と。
そうやってごまかしていた。
でも本当はずっと……。

「なんて恨めしいの……」

サファイア国へ嫁いでやっと彼を独占できると思ったのに。
オリビアですら愛されている国から出戻りだなんて。
本当に役に立たない。

あぁ、だからわたくしは平気であの子を置いてきたんだわ。
あの危険な男に殺されようと構わない、と。
あっさり見捨てた。

「わたくし、あの子を愛してなんていなかったのね」

目の前の女の顔から完全に笑みが消える。
そして吐き捨てるように言った。

「母親失格ね」

母親って何よ。
わたくしのお腹がなければ産まれてもこられなかったくせに。

女ならみんなそうでしょ?

産んだからって愛する人を奪われて無償で愛せるはずがないじゃない。

あんただって、きっと……きっと……。

そういえばこの女は我が子を守って死んだ。
あぁ、あんたはオリビアをちゃんと愛していたのね……本当にどこまでも癪に障る。

わたくしに殺されながらも、いつまでもわたくしを苦しめて。

そうよ、あんたはわたくしに殺された。
あんたは負けたのよ。
わたくしはあんたに殺されてなんてあげない。

どうせこのままでは魔獣に食われて終わり。
それならいっそ、わたくしは自らの手で終わらせるの。

足元に落ちていた木の枝を掴む。

「あんたなんかに負けないんだからっ!!」

迷うことなく木の枝を喉へ突き刺す。
己の皮膚を突き破る嫌な感触。
ゴポッと口から大量に血が零れた。
細いとはいえ、鋭利ではないその枝はより激しい痛みを与えた。

あぁ、陛下……アリス……天国でまた家族一緒に暮らしましょう。
やり直しましょう。
今度こそ誰にも邪魔されずに……。

「家族揃って、地獄に落ちなさい」

忌々しい女の声。
視界が歪み、もう何も見えない。

最期に聞こえたのは愛する人の最期を告げる恐ろしい断末魔だった。



*



「害虫駆除完了ですね」

イライジャは隣に立つラビンスに満足げに言った。

「えぇ。喜ばしい限りです。これでやっとオリビア様の憂いはなくなります」

ラビンスは、珍しく心底嬉しそうに笑った。
滅多に感情を表に出すことがない彼女も、オリビアのこととなると話は別だった。

「それにしても、相変わらず素晴らしいですね。あなたの幻術魔法は」

「イライジャ様の魔獣使いも恐れ入ります」

「ですか……」とラビンスは訝しげに続けた。

「本当に彼女が視ていたのは私の幻術だけでしょうか」

「どういう意味です?」

ラビンスは首を傾げ、考える素振りを見せたが、答えに行き着かなかったようだ。

「いえ、なんというか……別の思念を感じたような気がして……」

幻術といってもエメラルド王妃が視たのは、自身の心の闇だ。
彼女が視たくないものを見せただけ。
けれどその中にラビンスの幻術とは別のものが混じっているような気がした。

それを聞き、イライジャは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに納得したような顔をした。

「なるほど。あの女が視たのはただの幻術ではなく、オリビア様を想う誰かだったのかもしれませんね」

もしそうならば、次はオリビア様が幸せになった姿をお見せしなければ。

「ラビンス、オリビア様に誠心誠意お仕えしますよ。二度と、『眠り姫』となってしまわれないように」

「承知しております」

生き残りが誰一人いないことを確認して、二人の姿は闇に消えた。
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