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第1話「終ワル夢ノ始マリ」
6.名前
しおりを挟む展望公園を後にし、私たちは目的地である団地を目指していた。
ふと私は今まで何度も言おうとしていたことがあったことを思い出した。今更な気もしたが、気持ちも収まった今だからこそ話すべきだろうと思ったのだ。
「そういえば、言ってなかったことがあるんだけど」
「うん?どうしたの」
「私の名前、和泉じゃないわよ」
「……………………え!?」
この反応は予想していた。満足した私は茫然と立ち尽くす沙姫を置いて団地へ向かって歩く。
「うそっ、もう家見えてるよ!?」
「いや、あんたがあまりにも和泉って呼ぶから」
「え、ど、どういうこと!?クラスの子たちに騙された!?」
「あ、いや言い方が悪かったわ。和泉はあってるんだけど、それ苗字。あんた下の名前だと思ってたでしょ」
普通に考えれば苗字ではなく名前に愛称をつける。沙姫が特殊なタイプであればそのままでもいいと思っていたが、沙姫に苗字で呼ばれるのは何か引っかかる。
すでに目の前に広がる団地。沙姫の意識はそちらには一切向いていなかった。
「え、え、じゃあ下の名前ってなんなの!?」
「……笑わないでよ」
「笑わないよー!」
私は、自分からこの話題を出したことをほんの少しだけ後悔しながら、ゆっくりと唇を動かす。
「悠。和泉悠が、私の名前」
久しぶりにフルネームを口に出した。普段家族以外に名前で呼ばれることはない。でも、彼女には、どうしても言っておきたかった。
ぽかんと口を開けたままの沙姫。少し長い沈黙に耐え切れなくなった。
「……なんか言いなさいよ」
「……ふふっ」
「笑わないって言ったじゃない」
「笑ってないよぉ。嬉しくって……えへへ」
「笑ってるわよ、それ」
「えへへ、嬉しい……だってさ」
手で覆っているが、にやけた口元は隠しきれていない。見え隠れする部分から彼女の感情が溢れ出ている。
「そう言ってくれたってことは、呼んでいいんだよね。悠って」
心の底から嬉しそうな沙姫を見て、ほんの少しだけ、少しだけ言ってよかったと思った。
自分の口元も緩んでいることが分かった。
「そういう、こと……嫌ならいいのよ、別に」
「あははっ、嬉しい!悠、悠ちゃん、悠、悠……」
「何回も呼んでいいとは言ってない!」
何度も何度も、噛み締めるように沙姫は悠という名前を繰り返す。
言い慣れているはずなのに、初めて口にするように、安定しない言葉を繰り返す。
言われ慣れているはずなのに、初めて聞く言葉のような錯覚に、耳を擽られる。
「うん!やっぱり悠が一番呼びやすい!」
「でしょうね」
それはそうだ、と笑った。私も彼女から呼ばれるなら、何も飾らない方が嬉しい。
沙姫も同じ気持ちなのだろうか。妙ににやけた顔を自分の手で解している。こう見るとシャラとは正反対と言っていいほど沙姫は喜びに関する感情表現のバリエーションが豊富だ。
笑顔が引っ付いた顔を解しきった沙姫は、頬を軽く叩き気を引き締めた。
「へへっ、これからもよろしくね!」
握手を求める手が伸びてきた。今の私にそれを拒む理由はない。
「嫌でもよろしくするしかないわよ。少なくとも一年はね」
「一年じゃ離さないよー」
「勘弁して」
柔らかな手を握り、私は満更でもない笑みを返した。
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