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渦巻き
3.
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とりあえず、佐奈は下の階で待つということになった。父親の守はまだ当分は帰ってこないとのことだった。
幸子が、二階にある良子の部屋のドアをノックすると、意外にもすぐに返事があった。
良子は机にスマホを広げて、何かの動画を見ている様子だった。
「良子さん、お久しぶり。ちょっといいかしら?」
良子は少し面倒そうな顔になったが、動画を切ると幸子と和人に床に座るよう促した。
和人に特に声はかけてこなかったが、和人としてはそのほうがよかった。
あまり顔はあげずに、幸子の陰に隠れるようにして腰を下ろした。
「もしかして、ドッペルゲンガーについてですか」
良子のほうか単刀直入に聞いてきた。
「聞いたわよ。ずいぶん入れ込んでいるそうね」
「はい。とても興味深いです」
良子は隠そうともしなかった。
「ドッペルゲンガーについて学ぶことは、人生について、この世界の真理について学ぶことにつながっているんです」
良子は真顔でそういった。
表情が少しも変わらず、動いているのが口元だけというのが、和人には不気味に感じられた。
それはまるで、仮面が口元だけ動かして話しているようにも見えた。
「これはまた大きく出たものね。世界の真理とは」
「幸子さん。冷やかしに来ただけなら、帰ってください。今からアメリカでドッペルゲンガーの研究をされている方の講演の録画を見るつもりなので」
「勘違いしないでほしいわね。あなたが何を研究しようとあなたの勝手なのだから、それを止める気はない」
和人は幸子のほうをチラと見た。
嘘をいっているようには見えない。
「好きなだけ研究して、好きなだけ没頭すればいい」
佐奈が聞いたら何というか、和人には不安だった。
それとも、幸子は本気でそう思っているんだろうか?
「ただこれだけはいっておく。ヴァイオリンがうまくいかないことの憂さ晴らしで、ドッペルゲンガーの研究に逃げているなら、それは本気でドッペルゲンガーを研究している人たちに失礼だ」
幸子がはっきりとした口調でそういうと、良子は一瞬目を見開いた。和人も隣でぽかんと口を開けた。
ヴァイオリンという単語がここで出てくるとは全く想像していなかったのだ。
良子はしばらくそのままの表情だったが、やがて俯くと、クックッと笑い声をあげた。
和人はどう反応していいか分からずにいたが、幸子はどこか面白そうな表情で、肩を揺らし、心底おかしそうに口を開けて笑い続ける良子を見守っていた。
しばらくして笑いが収まると、良子は真顔になった。
「面白い人ですね、幸子さんて」
「そうかな?」
「そうですよ。うちの親は学校の勉強の妨げになるから止めなさいって、そればっかりなのに、まさか本気でドッペルゲンガーを研究している人たちに失礼だからって」
そこまでいうと、もう一度良子は声を上げて笑った。
「それにしてもよく分かりましたね、私のヴァイオリンがうまくいっていないって」
「ヴァイオリンはかなりの人気楽器。進路を選択する際に競争相手が多くて諦める、というのはよくある話。その際、似た楽器であるヴィオラに転向を考えるというのもよくある話」
「あ、私のSNS、探し当てましたね」
「うん。実はそれで話があって来たの。もしかして、ドッペルゲンガーについて、誰かとSNS上でやりとりをしなかったかしら?」
良子は自身のスマホを取り出すと操作し始めた。
しかし結局は首を振った。
「実は一人、かなり丁寧に教えてくれた人がいたんです。私がフォローしているSNSに面白いコメントしてて、私がイイネしたのをきっかけに知り合ったんですけど。なんかユーモアがあって、文章も面白くて、ちょっとした進路相談なんかもしてたんです。それで、その人からドッペルゲンガーについて、もっと専門的に調べられるサイトやアカウントも教わったんですけど……」
「けど?」
「三日ほど前から、アカウントが消えてるんです」
「ほう」
「実は最近、イライラしてた理由はそれもあって。せっかく友達になれたと思っていたのに、突然連絡が取れなくなったから」
良子は和人に視線を合わせると、ペコリと頭を下げた。
「ごめんね。なんか八つ当たりしちゃって」
「あ、いや、僕こそ、全然気づかなくて……」
和人はそう答えたが、ボソボソと口の中でいったので、果たしてちゃんの聞こえていたか不安だった。
「その相手はどんな人だったのかな?」
「女性です。たぶん二十代くらいだと思いますけど、社会人の感じでした」
幸子は少し遠くをみる目になった。
「ここで、その相手の名前は聞かない。おそらく偽名だろうからな。なぜ突然消えたのかも、考察する気はない。今、問題なのは、これから先、良子さん自身がどうするかよ」
良子は自分の手元をじっとみた。
「ここ最近、ドッペルゲンガーについて調べているときは、熱に浮かされたような興奮があったんです。でも今、幸子さんと話してたら、急に熱が冷めてきちゃって。だからといって、また楽器にどれだけ本気になれるかも分からないんです」
「私は楽器には詳しくない。ヴィオラだって、オーケストラには欠かせない立派なパート、などという気はない。ただ、どの道を行くかよりも、その道をどれだけ歩けるかのほうが大事なのでは?」
「どれだけ…… でも、オーケストラの演奏者にはなれない気がします。そこまでの才能はないかなって」
「この国で楽器一つで稼げる人間など、ごくわずか。ほとんどの演奏者はアルバイトをかけ持ちしているわ。でも私がいいたいのは、そういうことではない。あなた自身が人生のどこかで振り替えったとき、乗り換えてきた山や障害物の大きさ、自分で切り開いた道を見て、満足できたらそれで充分報われているわ」
なぜか和人には最後のほうの言葉が、幸子が自分自身にいっているように聞こえた。
「そうですね。まあ、そういうことにしておきます」
良子はふふふと力なく笑った。
それからスマホを操作し始めた。
「ドッペルゲンガー調べは、ここで一旦中止にしておきます。とりあえず、ここまで調べたことはファイルに保存しておきますけど。また逃げ出したくなったときのために。たとえそれが、本職の研究者の皆さんに失礼だったとしても、私は気にしませんから」
「なるほど。いかにも現代の若者のいいそうなことね」
「というより、幸子さんの考え方が古いのでは?」
「まあ、それは否定しないわ」
場の空気が落ち着いてきたので、和人も安心して口を開けた。
「良子さんの調べた情報ってどんなの?」
「主に海外のものね。オカルト雑誌に載っていたものから、どこかの研究機関が発表したものまで様々よ。あとは誰かが投稿した動画とか」
「そのSNSで知り合った人から教えてもらったの?」
良子は少し考え込んだ。
「そういうのもある。けど、自分で探したものがほとんどかな? そうやって夢中で探しているときだけは、他のこと考えずにすんだから」
幸子が、二階にある良子の部屋のドアをノックすると、意外にもすぐに返事があった。
良子は机にスマホを広げて、何かの動画を見ている様子だった。
「良子さん、お久しぶり。ちょっといいかしら?」
良子は少し面倒そうな顔になったが、動画を切ると幸子と和人に床に座るよう促した。
和人に特に声はかけてこなかったが、和人としてはそのほうがよかった。
あまり顔はあげずに、幸子の陰に隠れるようにして腰を下ろした。
「もしかして、ドッペルゲンガーについてですか」
良子のほうか単刀直入に聞いてきた。
「聞いたわよ。ずいぶん入れ込んでいるそうね」
「はい。とても興味深いです」
良子は隠そうともしなかった。
「ドッペルゲンガーについて学ぶことは、人生について、この世界の真理について学ぶことにつながっているんです」
良子は真顔でそういった。
表情が少しも変わらず、動いているのが口元だけというのが、和人には不気味に感じられた。
それはまるで、仮面が口元だけ動かして話しているようにも見えた。
「これはまた大きく出たものね。世界の真理とは」
「幸子さん。冷やかしに来ただけなら、帰ってください。今からアメリカでドッペルゲンガーの研究をされている方の講演の録画を見るつもりなので」
「勘違いしないでほしいわね。あなたが何を研究しようとあなたの勝手なのだから、それを止める気はない」
和人は幸子のほうをチラと見た。
嘘をいっているようには見えない。
「好きなだけ研究して、好きなだけ没頭すればいい」
佐奈が聞いたら何というか、和人には不安だった。
それとも、幸子は本気でそう思っているんだろうか?
「ただこれだけはいっておく。ヴァイオリンがうまくいかないことの憂さ晴らしで、ドッペルゲンガーの研究に逃げているなら、それは本気でドッペルゲンガーを研究している人たちに失礼だ」
幸子がはっきりとした口調でそういうと、良子は一瞬目を見開いた。和人も隣でぽかんと口を開けた。
ヴァイオリンという単語がここで出てくるとは全く想像していなかったのだ。
良子はしばらくそのままの表情だったが、やがて俯くと、クックッと笑い声をあげた。
和人はどう反応していいか分からずにいたが、幸子はどこか面白そうな表情で、肩を揺らし、心底おかしそうに口を開けて笑い続ける良子を見守っていた。
しばらくして笑いが収まると、良子は真顔になった。
「面白い人ですね、幸子さんて」
「そうかな?」
「そうですよ。うちの親は学校の勉強の妨げになるから止めなさいって、そればっかりなのに、まさか本気でドッペルゲンガーを研究している人たちに失礼だからって」
そこまでいうと、もう一度良子は声を上げて笑った。
「それにしてもよく分かりましたね、私のヴァイオリンがうまくいっていないって」
「ヴァイオリンはかなりの人気楽器。進路を選択する際に競争相手が多くて諦める、というのはよくある話。その際、似た楽器であるヴィオラに転向を考えるというのもよくある話」
「あ、私のSNS、探し当てましたね」
「うん。実はそれで話があって来たの。もしかして、ドッペルゲンガーについて、誰かとSNS上でやりとりをしなかったかしら?」
良子は自身のスマホを取り出すと操作し始めた。
しかし結局は首を振った。
「実は一人、かなり丁寧に教えてくれた人がいたんです。私がフォローしているSNSに面白いコメントしてて、私がイイネしたのをきっかけに知り合ったんですけど。なんかユーモアがあって、文章も面白くて、ちょっとした進路相談なんかもしてたんです。それで、その人からドッペルゲンガーについて、もっと専門的に調べられるサイトやアカウントも教わったんですけど……」
「けど?」
「三日ほど前から、アカウントが消えてるんです」
「ほう」
「実は最近、イライラしてた理由はそれもあって。せっかく友達になれたと思っていたのに、突然連絡が取れなくなったから」
良子は和人に視線を合わせると、ペコリと頭を下げた。
「ごめんね。なんか八つ当たりしちゃって」
「あ、いや、僕こそ、全然気づかなくて……」
和人はそう答えたが、ボソボソと口の中でいったので、果たしてちゃんの聞こえていたか不安だった。
「その相手はどんな人だったのかな?」
「女性です。たぶん二十代くらいだと思いますけど、社会人の感じでした」
幸子は少し遠くをみる目になった。
「ここで、その相手の名前は聞かない。おそらく偽名だろうからな。なぜ突然消えたのかも、考察する気はない。今、問題なのは、これから先、良子さん自身がどうするかよ」
良子は自分の手元をじっとみた。
「ここ最近、ドッペルゲンガーについて調べているときは、熱に浮かされたような興奮があったんです。でも今、幸子さんと話してたら、急に熱が冷めてきちゃって。だからといって、また楽器にどれだけ本気になれるかも分からないんです」
「私は楽器には詳しくない。ヴィオラだって、オーケストラには欠かせない立派なパート、などという気はない。ただ、どの道を行くかよりも、その道をどれだけ歩けるかのほうが大事なのでは?」
「どれだけ…… でも、オーケストラの演奏者にはなれない気がします。そこまでの才能はないかなって」
「この国で楽器一つで稼げる人間など、ごくわずか。ほとんどの演奏者はアルバイトをかけ持ちしているわ。でも私がいいたいのは、そういうことではない。あなた自身が人生のどこかで振り替えったとき、乗り換えてきた山や障害物の大きさ、自分で切り開いた道を見て、満足できたらそれで充分報われているわ」
なぜか和人には最後のほうの言葉が、幸子が自分自身にいっているように聞こえた。
「そうですね。まあ、そういうことにしておきます」
良子はふふふと力なく笑った。
それからスマホを操作し始めた。
「ドッペルゲンガー調べは、ここで一旦中止にしておきます。とりあえず、ここまで調べたことはファイルに保存しておきますけど。また逃げ出したくなったときのために。たとえそれが、本職の研究者の皆さんに失礼だったとしても、私は気にしませんから」
「なるほど。いかにも現代の若者のいいそうなことね」
「というより、幸子さんの考え方が古いのでは?」
「まあ、それは否定しないわ」
場の空気が落ち着いてきたので、和人も安心して口を開けた。
「良子さんの調べた情報ってどんなの?」
「主に海外のものね。オカルト雑誌に載っていたものから、どこかの研究機関が発表したものまで様々よ。あとは誰かが投稿した動画とか」
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良子は少し考え込んだ。
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