【完結】長屋番

かずえ

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壱 習いごと

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「おや、おみっちゃん。どこへ行くんだい?」

 長屋の木戸を潜る者には、出るも帰るもおかめ婆さんの声掛かりがある。おかめは暇にあかせて木戸の辺りに日がな一日陣取っている訳ではない。不審な者が出入りしないか、長屋の者が出てから帰って来ているか、しっかりと見張っているのである。
 与兵衛長屋は、余所の長屋よりも見張りが大変な長屋であった。
 元は何の変哲もない長屋であり、おかめも時たま欠伸をしながら木戸にいたものであるが、四年前に状況が一変する。住人の、まだとおであったおみつが、火事で焼け出されたらしき少年を拾って帰ったのだ。ちょうど、たった一人の家族であった母を亡くしたばかりのおみつが、同じく母を亡くしたばかりだと言った同じ年頃の少年、作次郎と仲良く寄り添って暮らし始めたのを、誰にも咎めることはできなかった。二人は、長屋の大人たちに助けられながら一年、のびのびと暮らしていた。
 いつしか、このまま二人は夫婦めおとになって、この長屋で子どもを育てたりして暮らすのだろうと皆が思う中、作次郎の素性が判明する。長屋の裏木戸に居座るおかめなどは特に、作次郎が拾われた際に着ていた着物の生地などを見て薄々勘づいてはいたのであるが、武家の、それもさる藩の藩主の次男坊であったのだ。
 参勤交代で江戸屋敷に滞在している間にお家騒動を収めた藩主は、もう帰らない、と決めた息子の意思を尊重して、作次郎改め作次を信頼できる商人のもとへと養子に出した。そして、作ちゃんを私にください、と申し出たおみつを許嫁いいなずけとして、与兵衛長屋で暮らすことを許したのである。
 そこまでは、騒動さえ収まってしまえば、誰も彼もがそれまで通りに暮らせる案件であった。作次も、子どもらしい柔軟さで一年の間にすっかり町人の生活に染まって、そこらではちょっと見かけないような二枚目であること以外は、何の違和感もない。見目の良さからの揉め事も、作次がおみつ以外には全く目を向けないことから、相手の一人相撲で済んでしまうことが多かった。
 問題は、作次の父である綾ノ部あやのべ藩の藩主が、作次の暮らしを整えようとして与兵衛長屋のおたなを買い取り、貸布団を一新したり、雨漏りや建て付けの悪い箇所を片端から直して回ったことにある。
 特に貸布団の良さは評判を呼び、与兵衛長屋へ住みたい者が殺到する騒ぎとなってしまった。独り身の住人に粉をかける者がいたり、棒手振ぼてふりが、中の様子を確かめるために入り込もうと大量に押し掛けるので、決まった者に割り札を発行したりと大騒ぎであった。長屋の者が、一人では出掛けることもできないような時期が幾らか続いていた。
 浪人に扮した綾ノ部藩士が交代で数人づつ住み、作次やおみつ、長屋の住人を守ることで事なきを得た経緯がある。
 ようやく騒ぎは落ち着いてきたとはいえ、油断はできない。
 裏木戸で過ごすおかめの傍にも、常に綾ノ部藩の藩士が交代で付いていた。本日は、この三年ずっと長屋で浪人風の暮らしをしている松木時頼が傍にいる。

「あ、おかめさん、こんにちは。あの、ちょいと習いごとの見学へ行こうかと」

 十四となったおみつは、少し大人っぽくなったおもてを恥ずかしそうに綻ばせて答えた。

「へえ?習いごと?」
「うん。おつのちゃんとおそめちゃんが、習いごとで毎日忙しいって湯屋ゆやで話していてね。習いごとってどんなもの?って聞いたら、一緒に行こうって誘ってくれたものだから」
「そりゃいいね。あんたもたまには子どもらしいことをしてみたらいいんだよ」

 おかめの言葉に、おみつがくすくすと笑った。

「なんだい?」
「お父つぁんもおっ母さんもおんなじこと言ってた」
「そうかい」

 おみつは、とおで母を亡くす前からも、母ひとり子ひとりの暮らしであったから、本当に小さな頃から母の針仕事や家の仕事を手伝っていて、もうそれなりの腕前であった。その仕事で、拾った作次も養っていたほどである。寺子屋にも、時間のある時に通うだけであったから、子どもらしいそんな時間があってもよいと、大人たちの思いは同じであったのだろう。
 幸い、おみつがお父つぁんおっ母さんと呼ぶ、作次の養父養母の店は繁盛している。嫁となる予定のおみつの習いごと代が負担になる事もあるまい。

「作ちゃんもね、行ってきたらいいじゃないかって」

 許嫁いいなずけから、少しでも離れることを厭うていた作次も、少々大人になったらしい。

「なら今、一人かい?」
「うん」
「松木さま。お願いできますか?」

 おかめが、隣で周りを見渡しながら立っている松木を見上げると、松木はただ頷いた。

「おみっちゃん。松木さまについて行ってもらうんだよ」
「はい。よろしくお願いします」

 普段から作次に、一人で出歩くなと口を酸っぱくして言い含められているおみつは、素直に頭を下げた。

 
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