【完結】長屋番

かずえ

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四 御守り

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 気丈に振る舞っていた三味線の師匠も、隣の部屋へ入ると途端にへたりと座り込んだ。

「手当てを」

 手で押さえている手拭いが、結構な量の血を吸い込んでいる。懐から傷の手当てをできる道具を出した松木がそう言うと、

「ああ。頼んでもいいかね」

 と、途端に疲れた顔を見せた。子ども達に心配をかけないための空元気からげんきであったか、と思い至って、松木はこの師匠に良い印象を抱いた。

師匠せんせい、診療所へは?」

 おつのの女中が、おずおずと後ろから声を上げた。

「年寄りの我儘で済まないが、今はもう動きたくないねえ。水を汲んできてくれるかい?」
「はいっ」

 すべき事を得た女中の動きは早かった。手に抱えていた荷を部屋の隅に置いて飛び出していく。

「あの、私は……」
「水は幾らあってもいいさね」
「はい」

 おそめの女中も慌てて出て行った。酷い怪我をしている者の近くで見ているのがいたたまれなかった事もあるだろう。気持ちは分かる。松木たち武士でも、このような流血沙汰はとんと見なくなった。世は泰平。武士が怪我をするのも、稽古でよほど手酷く失敗した時だ。
 松木とて、あまりの流血の多さに少々心乱れてはいる。武士として、みっともない姿は見せられないとの矜恃でそこに立っているだけだ。そして、頭の傷は小さな傷でも血が多く流れやすいと知っているだけだ。
 拠り所はその知識だけだった。

「御免」

 隅にしっかりと畳んで置いてある二組の布団にもたれかからせて、手拭いを外す。果たして予想通りに、傷は深くなかった。
 松木がほっと息を吐いていると、女中たちが戻ってくる。
 隣からは、見事な三味線の音が響き始めた。予定通りに稽古が始まったらしい。激しい調べは、あの痩せた娘が弾いているとは思えぬ力強さだった。

「ふむ。流石に粗いが……」

 師匠の呟きに、これが粗いのかと松木は驚いた。松木自身は、不調法で楽器の素養を持たないが、元許嫁のさよがことの名手であったことで、幾度かその演奏を耳にしていた。さよの箏と三味線との合奏もあった。かしこまった席で、名手と呼ばれる者の演奏も聞いたことがある。長屋暮らしのここ三年ほどはそういった雅な席から遠ざかってはいるが、この演者がかなりな腕前であることくらいは判別できた。
 
「見事、かと……」
「おや。有り難いお言葉。かよに伝えておきますよ」

 髪に付いた血も丁寧に拭っていく松木に、師匠は目を細める。

「あの子は本当は、ことを得手としているんですがね。こんな狭い長屋では置くこともできませぬので」
「さようで」

 ことと聞いて、心臓が跳ねた。
 
「私ももう良い歳なものですから、一人で指導するのはしんどい日がありましてね。あの子の三味線を聞いた時には、良い後継者を拾ったと喜んでいたのですが、あの通り見目が良いもので男衆が寄ってきて」

 見目が良い、と聞いても松木にはぴんとこなかった。酷く痩せて、よく日に焼けた浅黒い肌であったことしか印象にない。

「さようで」

 当たり障りの無い言葉を返して口を閉じた。
 代わりに師匠が口を開く。

「おみつさんは、訳ありですか?」
「いや」
「あの、おみつさんは商家の娘さんです。清兵衛商店の」
「おや、あの」
「はい」

 短く答えては口を閉じる松木に焦れたのか、女中が口を開いた。正確には、清兵衛商店の養子である作次郎改め作次の許嫁である。まあ、些細な事かと松木は聞き流した。
 清兵衛商店の名は知れていたらしい。小さな小物屋であるが、作次が手伝うようになってからは特に、大層繁盛していた。作次も養父の清兵衛も、どんなに繁盛しても今以上に手を広げる気はないようで、店は小さなままであった。こじんまりとした店先には、いつも人集りができている。
 
「ええ。松木様は、おみつさんと同じ長屋に住むお方で、たまたまお手隙であったからとおみつさんについていらっしゃった剣のお師さんなんです」
「へええ。そりゃまた、随分と腰の低いお方だ」

 松木は黙々と師匠の傷の手当てをして、拙い三味線の音が流れてくるのを聞いていた。懐に、御守りにと入れていた油紙が役に立つ日が来るとは、と思いながら。
 それもまた、許嫁であったさよが、殿の参勤交代の伴をする事になった松木へと渡してくれた思い出の品であった。
 いざという時の御守りです、と怪我の手当てに使える品を巾着に入れて渡してくれたものを、もう四年以上も毎日懐に忍ばせていた自身の女々しさに気付く。
 良い潮時なのかもしれぬ、と不意に思った。
 お家騒動が落ち着いてからもう三年。側室様に毒を盛った主犯であるたちばな大善たいぜんの家と縁戚であったさよの家もお取り潰しとなった。その前にと離縁され、実家に帰ったと聞いたさよの母とさよがどうなったのか、松木には知ることもできない。
 ただ無事を祈りつつ、新しい縁談を厭うて江戸に留まり続けていた。
 


 
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