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1 二年が経って
しおりを挟む肺に吸い込む空気の温度が上がるにつれて透明度を増す日差しに焼かれ、じわじわと庭の蝉が鳴いている。まるでこの世への名残を惜しむ様に、朝っぱらから元気に生きまくる蝉たちの声。彼らの成虫が一週間しか生きられないと言うのは俗説だと、ラジオで誰かが言っていたのを思い出した。
摘まんだホースに力を入れる。勢い、尖った水が束になって土を抉りだす。赤くなり始めたトマトの、まだ緑色の影を弾いていく。鞭打つように上下に手首を動かしていたずらに影を攻撃していると、ふとトマトが有名なのは夏の雨が少ない地域だから、あまり水をあげない方が良いのかもしれないと言う考えが頭の中に差し込んできた。
水が無い方が、甘みが増すんだとかだったっけ。
だとしたら、ひどい話だ。人間がそれを美味しく食べるために、トマトの喉を乾かす。見てみろ、あまりの暑さで真っ赤になったトマト達を。これが動物だったなら愛護団体は黙っていないだろう。世の中から『可哀想な動物』がいなくなった暁には、きっと奴らはトマトを救うために動き出す。イタリアからトマトは消え、トマト祭りはイチゴ色の元に成るあの虫の汁をぶつけ合う催しになるだろう。虫の保護は植物の次だ。あいつらは可哀想度が低いから。マンガやゲームの敵と同じ。グロテスクだから、殺す事への抵抗を感じる人間は少なくなる。
そうやって悲鳴をあげる人間が少なければ少ないほど、その感情は他の人間によって蹂躙されていくのだろう。
ならば、孤独はどうだろう。孤独に悲鳴を上げる人は、孤独であるが故にその声が大きさを増すことは無く――。
ドドドドド……と水の突進を受け続けた土が一部分だけ抉れているのに気が付いて、ポケットに入っていたスマホで時間を確認する。
七月十九日、朝七時半。着替えて学校に行く時間だ。
「……よし」
肌を潤す水を得た代わり味の落ちたトマト達に別れを告げ、まだ新築の匂いが残る階段をトントンと上がり、“Yucco”と書かれたプレートが掛かった部屋の前を通りすぎる。
二年になる。半年ほど閉じこもっていた扉の向こうから優しい彼女の声が聞こえてから。
『――十七歳になるまでに30デシコロンの孤独を集めると、魔法使いに成れるんだよ。だから、大丈夫。心配御無用。うん。頑張れ、魔法使い候補生。私はきっと、応援してる』
あの頃の引きこもりの自分には、その優しさが心に痛く、その間抜けさが気に障り、イラつくしかなかった言葉。
意味が分からない事を言うなと笑った気がするけれど、成程あれは水を貰わないトマトが甘みを増す様な事だったのかと、鏡の中のネクタイを見ながらふと思った。
『……ちなみに、今はどれくらい?』喉に絡まった声で聞くと『ん~、十五から二十位。今度会ったときに、スカウターしてあげる』と扉の向こうで彼女は笑った。
この街へ引っ越してきて、家の造りも扉の色も、食卓の風景すら。何もかもが変わったはずなのに。あの会話はこの扉を挟んで行われたような気がしてしまう。
「……行ってきます」
小さな声で、もう二度と揺れることの無いネームプレートが掛かった扉の向こうに声を掛けた。
父が籠りっきりの書斎のドアに視線を送り、玄関に鍵を掛け、さっきよりも少しうるさくなった蝉の声の中へと歩き出す。
暑い。影が濃い。背後の山が、蒸し暑そうな深緑の衣に覆われている。その中腹にぽつんと佇む白くて大きな精神科病棟。あの窓から、この街は一体何色に見えるのだろうか。母さんは、そこにまだ、姉の幻を見ているのだろうか。
多分、向こう一年は思い付きもしないだろう真夏の疑問が頭に浮かんだ。
そんな、今日を逃すと来年まで解消されない思い付きに首を捻りながら小さな門を閉め、熱さを溜め始めたアスファルトの上を行く。
いずれにしろ、明日からは夏休み。高校二年の夏休み。
――この夏休みが終わると、十七歳になる日がやってくる。
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