モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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5章「生きてくださいね」

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 ふいに背後からかけられた声に、俺は驚きながら振り返った。
 弟くんがいた。手には花瓶を持っている。その顔はいつにも増して不機嫌そうな仏頂面だが、真っ直ぐにこちらを見据えてくる辺り、俺になにか用があるのだろうか。

「ちょっと、話したいんだけど」

「……俺と?」

「他に誰がいるんだよ。あんたとに決まってんだろ」

 まあそりゃあ、たしかに。
 つかつかと俺の方に歩いてきた弟くんは、そのまま俺の横を通り過ぎて歩いていく。
 彼の足が向く先には、面会者用のフリースペースがあった。
 なるほど、あそこで話すつもりらしい。話の内容は予測もつかないが。
 疑問を浮かべながら付いていくと、彼は向かいあわせのソファに座って待っていた。
 俺がすごすごと向かい側に座れば、ドン、と花瓶を間に挟んだ机の上に置かれる。
 超絶不機嫌だ。もしや俺は、これから怒られるのだろうか。

「あんた、姉ちゃんと付き合ってるんだろ」

 そして開口いちばん、弟くんは突き放すような口調で言った。あれ怒られない、と拍子抜けしながらも、視線の置き場を探しながら首肯する。

「付き合ってる、けど」

 鈴が弟には話したと言っていた。
 だから知っているのだろうが、それにしては声音があまりにも不穏だ。俺はどういう反応をするべきなのか迷いつつ、ひとまず様子を窺うことにした。
 弟くんはしばし黙り込んだかと思うと、はあ、と深いため息を吐き出した。

「……あんま口出しはしたくないんだけどさ。姉ちゃんには、幸せならいいんじゃないって言っちまったし。でも、やっぱ気になるから聞きたい」

「ん、なに」

「あんた、そういう覚悟はあんの?」

 そういう、とは。やは、り鈴の『余命』についての話だろうか。

「おれは……おれたち家族はさ。この五年、ずっと覚悟を積み重ねてきたんだ。姉ちゃんとは比べものにならないと思うけど、それでも覚悟してきたんだ。姉ちゃんが死ぬってことを、ずっと心に留めて、受け入れられるように努力してきたんだよ」

「受け入れる? 死、を?」

「そうだよ。いついなくなってもおかしくないからこそ、一緒にいられる時間の限りを尽くして姉ちゃんを一秒でも長く感じておこうって。覚悟ってそういうもんだろ」

「そう……なの、かな」

 どんな手を尽くしても逃れようのない、定められた未来だからこそ、なのか。
 彼のなかの覚悟が、はたしてどんなものを指すのかがわからない以上、俺は現在進行形でその答えを持っていない。
 だから、そういうものだろと言われれば、うなずくしか選択肢がなかった。
 だって俺よりも、彼の方が圧倒的に鈴の命に向き合ってきた期間が長いのだから。
 否定でも肯定でもなく、一意見として受け入れるしかないのだ。弟くんにとっての覚悟がそういうものなら、またそれもひとつの形でしかない。

「で? 覚悟、あんの?」

 絵と同じで、考え方まで共有するのは不可能だ。
 きっと鈴なら、こういう場面でも臆さず自分の意見を伝えるのだろうけど。

「君は、おれに覚悟を持っていてほしいってことでいいのかな」

「持っているのかいないのかを聞いてんだよ。ほしいとかじゃなくて」

「ああ……でも、うん、ごめんね。君と同じ覚悟とやらの話はちょっと……」

 ──俺にはとても真似できないな、と思う。
 そんな未来に待ち受ける『死』なんかよりも、今を見ていたい俺には、あまりに理解が及ばない。

「あんたはわかってないんだろ。もうすぐ死んじゃう姉ちゃんの彼氏になんかなって、そのあとどんだけつらいか。どんだけ、この現実が残酷なのか」

「…………」

「ここはさ、現実だから。アニメやドラマとかみたいに、奇跡が起こって命が救われるなんてことはないんだよ。有り得ないんだ」

 そうだろうな、となにも答えないまま静かに目を伏せた。
 奇跡が起きれば、と願う気持ちはもちろんある。けれども、それが起きると信じているほど俺も馬鹿ではない。現実は、いつだってそこにあるままが現実なのだ。
 枯桜病は、そんなに甘い病気ではない。

「──姉ちゃんには気の毒だけど。申し訳ないと思うけど。でも、これからも生きていかなきゃいけないのは、あんたの方なんだ。つらい思いをするのが嫌なら、生半可な気持ちで……」

「そんなんじゃない」
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