モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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7章「描けるような気がした」

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 騒いでいた隼が一瞬にしてぴたりと硬直した。勝手に話してしまって鈴には申し訳ないと思いつつ、しかし今さら隠そうとは思えずに、俺は静かに続けた。

「だから俺は、なるべく鈴のそばにいようと思ってたんだけど……この前、接近禁止を言い渡されて」

「接近禁止……ってなにしたんだよおまえ……」

「わからない。俺にとっての鈴の存在が、どんなものなのかを考えてほしいって言われた。それがずっと、はっきり掴めなくて悩んでる」

 鈴がいない。その状態で生きていけるのかと言われたら、正直わからないのだ。
 そんなの無理だと心では思うのに、いざ離れてみると、俺の体は変わらず呼吸をして、変わらず鼓動を刻み続けている。案外、ちゃんと、生きている。
 当然といえば当然なのだろう。けれど、それが無性に不可思議にも思えた。

「昼間、鈴のコンクールの作品を見てさ。鈴が見ている世界を俺も見れたらわかるかなと思って、絵の具を引っ張り出してきたんだけど……」

 無駄に複数の絵の具を広げたパレットを持ち上げて膝の上に置く。久方ぶりに鮮明な状態で見る絵の具は、まだどれも混じり気のない色をしている。

「やっぱ描けない、とか?」

「……いや、逆」

「逆?」

 平筆で赤を掬い、そのまま空に透かすようにかざしながら俺は目を細めた。

「描けるような気がした。色のある世界を」

「ほ、お?」

「これまでは、いくら想起しても色のある世界を思い描けなかった。でも、今は不思議なくらい色がわかる。……俺が見えている世界の色のつけ方が、わかるんだ」

 どこに何色を置けばいいのか。どこをどう表現すればいいのかが感覚でわかる。あれほど、鉛筆一本で灰色の世界を表現し続けてきたにもかかわらずだ。

「いつの間に俺の世界は色づいたんだろうって考えてみたけど、そんなのわかりきっててさ。──鈴がいる世界だから、そう見えるんだよ」

 それこそ、目が開けられなくなるほど眩しいくらいに。
 あの子が生きている世界は、いつだって色鮮やかな光に満ち溢れている。

「……そして俺は、いま猛烈に、この色鮮やかな世界を描きたいと思ってる」

 まさか自分がその眩しさに影響されて、色味のある絵を描ける日が来るとは思っていなかったけれど。インスピレーションとは、いつだって唐突に舞い降りるものだ。

「結生、おまえ……」

「自分でもびっくりしてるよ。だって、この俺が絵の具を片手にキャンバスに向き合ってるところなんて、誰が想像できる? 世界に震動が起きそうじゃない?」

 これでは、モノクロ画家の名折れだ。

「せっかく俺自身も灰色に染まったのに、これじゃあまた浮きそうだよ。……まあ実際はなにかこう、しっくりこない部分もあるんだけど」

 パレットを置いて立ち上がり、俺は橙に染まる桜の巨木を見上げる。もう三年近くこの桜の木と共に過ごしてきたのだと思うと、なんだかとても感慨深い。

「……鈴を見ると、いつも桜と空を思い出すんだ」

「桜と……空?」

「うん。空により近い桜の花びらの下で、すごく楽しそうに絵を描いてる鈴。それはきっと、俺のなかにもう焼きついてるって証拠なんだよ。鮮明に、鮮烈に──自分ではどうしようもないくらいに、鈴が棲み付いているからなんだと思う」

 会わなくてもはっきりと思い描ける彼女が、どれほどかけがえのない存在なのか。
 鈴の問いの答えにはまだ近づけていないのかもしれないけれど、なんとなく、それだけはわかった。皮肉なことに、わかってしまった。

「だから、やっぱり俺は、鈴がいない世界なんて考えられない。想像もできない。そんな未来を見据えて生きていくなんて、無理だって思う」

「結生……」

「情けないけど。今でさえ怖くて怖くて堪らないんだ、俺」

 一言一言、噛みしめるように紡ぎながら振り返ると、隼はまるで自分のことのように苦しそうな顔をしていた。
 眉間に刻まれた深い皺をさらに深めながら、隼は浅く嘆息する。

「……また馬鹿なこと言ってんのな、おまえ。いなくなるのが怖いのは当たり前だろ。俺だって、結生がいなくなるかもって思ったらそれだけで怖えっての」

「俺が……?」
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