《蒼眼のトライブ Last Testament(ラスト・テスタメント)》

ケリーエヴァンス

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第19話 境界を越えて、静かなる狂気

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翌朝──村長の屋敷にて

朝靄が晴れ、やわらかな陽光が村の屋根を照らしていた。
それでも空気には、どこか薄い膜のような張りつめた静けさが漂っている。
村の誰もが、心のどこかで息を潜めている——そんな気配があった。

「……案内されたのは、こっちの屋敷か」

フェイが後ろで手を組みながら、村の外れにぽつんと建つ石造りの屋敷を見上げる。
色あせた扉、苔の浮いた壁、年季を感じさせる木の窓枠。
かつては重要な建物だったのだろうが、今は人の出入りも少ないらしく、静かすぎるほど静かだった。

隣で歩調を揃えていたエヴァが、少し険しい表情で言う。

「……村長、昨日あれだけはっきりしてたのに、やっぱり何か隠してたわね」

「うん。むしろ、あの“迷い”方は、何かを“言いたくない”というより、“言えない”感じだった」

「今朝、自分から声をかけてきたのは、やっぱり……」

「ようやく“決心”がついたってことだね」

扉をノックすると、すぐに中から迎えがあった。

案内された部屋では、すでに村長が静かに腰掛けていた。
その姿は昨夜よりもずっと痩せて見えた。まるで一夜にして何年も老いたように。

「……来てくれて、ありがとう。あんたたちのような旅人を、こんな面倒に巻き込むのは本意じゃなかった。けれど……もう、誤魔化せることじゃなかった」

フェイは椅子に腰を下ろし、柔らかな声音で返す。

「話してくれれば、それでいい。……僕たちは、聞く準備をしてきたから」

村長は少しだけ目を伏せ、それからゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「村に……いや、“この村に居座るようになった男”がいる。名はレオ。最初は旅の職人だと名乗っていた。だが、この一月ほど、様子が明らかにおかしくなっていた」

エヴァがわずかに身を乗り出す。

「具体的には?」

「……夢を見ているような口ぶりで、見えない誰かと会話をする。誰もいない場所に向かって名前を呼んだり、何かを“待っている”と言い続けたり……そして、次第に、他の男たちを従えるようになった」

「昨日、広場にいた男たち……?」

村長はうなずく。

「あれはもともと別の旅の商隊に雇われていた護衛だった。だが、ここ数日で様変わりし、レオの命令で村から金を“徴収する”ようになった」

フェイの目が細くなる。

「つまり、あの男たちは“従っていた”というより、“縛られていた”。……“恐怖”で、だ」

「その通りだ。……実際、一人だけ命令に逆らった者がいた」

村長の言葉が途切れ、空気がわずかに重くなる。
エヴァが低く問う。

「……殺された?」

「……いや、生きてはいた。だが……正気を保っていなかった。言葉も発せず、目の焦点も合わず……ただ、口元だけが、何かを呟いていた。“同じ声が聞こえる”と、何度も……」

部屋に沈黙が落ちる。

窓から差し込む朝の光は暖かいはずなのに、空気はどこか冷たく、底知れぬものが足元から這い上がってくるようだった。

「そのレオは、今どこに?」

フェイの問いに、村長は硬い口調で答える。

「村の南側。古井戸のそばの納屋に、今も一人で閉じこもっている。誰も近づけない。“何か”と話している。……まるで、誰かを“待っている”ようでもある」

「……わかった。僕らで、見てくるよ」

フェイが立ち上がろうとすると、村長はふと、微かに唇を震わせて言った。

「……助けてくれとは言えん。だが、もし……もし、あの男が戻れる道があるのなら……」

その声には、村を守る者としての苦悩と、ただ一人の“人間”としての祈りが滲んでいた。

フェイはわずかに微笑んだ。けれどその笑みに、いつもの軽さはなかった。

「……見て、考える。どうするかは、それから」

そしてそのとき、沈黙を破るように、エヴァがぽつりと呟いた。

「ねえ……私たち、もしかして、何か“大きなもの”に巻き込まれ始めてる?」

フェイはその言葉に答えなかった。ただ、静かに笑った。

だがその瞳に宿っていたのは、“答えを知る者の覚悟”だった。
あたたかくも冷たい、その深い瞳の奥に——エヴァは、言葉にできない何かを見た気がした。

* * *

古井戸の脇に建てられた小さな納屋は、朝の光が差しているにもかかわらず、そこだけが妙に陰って見えた。
風も音も止まり、まるで空気そのものが怯えているかのように、重く、湿り気を帯びていた。

「……ここか」

フェイがぽつりと呟いた。

閉ざされた扉の隙間から、何かが“滲み出て”いた。気配のようでいて、意識のようでもある。
鼻先をくすぐる焦げた臭いと、微かに金属のような鉄臭さ。そして——ほんのわずかに、“魔素”の気配。

「……おかしい。生きてはいる。でも、呼吸が異様に浅い。まるで、意識だけが別の場所にあるみたい」

エヴァが眉をひそめる。
フェイは静かに扉に手をかける前に、軽くノックをした。

コン、コン。

返事はなかった。

しかし、その次の瞬間——

「……うるさい……来るな……やつらが……やつらが、また来るんだ……!」

男の叫び声が中から響いた。
喉の奥をかきむしるような、壊れかけた声。意味を持たない単語の連なりに、どこか“他人の言葉”のような響きがあった。

「レオ、村長が心配してる。少しだけ話せないかな?」

フェイが優しく声をかけると、中の男はがたん、と何かを蹴飛ばした音を立てた。

「知ってる……見てるんだろ、おまえ……その目……青い……!」

一瞬、エヴァがぴくりと肩を震わせた。

フェイはわずかに笑みを浮かべるが、その目には一切の遊びがなかった。

「……見られてる、らしいよ。僕」

「まだだ……まだ“その時”じゃない……くるな……来るなァァッ!」

バンッ!

納屋の中から木箱が弾け飛ぶような音。物が乱暴に投げられたのか、それとも人が暴れているのか。
エヴァが剣の柄に手を添える。

「……行く?」

「うん、ちょっとだけね」

フェイが静かに扉を押し開けると、中はわずかに薄暗く、冷たい空気がぬめりながら流れ出てきた。

納屋の中、藁の散らばる床の中央で、ひとりの男が膝をついていた。
体はやせ細り、髪は伸び放題。だが何より異様だったのは、彼の周囲を取り巻く空間だった。

空気が“揺れて”いた。見えないはずのものが、そこに“ある”と感じられる。

「……魔族の干渉、だね」

フェイの声が低く、沈む。

「え……」

エヴァが息を呑んだそのとき、レオががくりと顔を上げた。

「おまえ……“なか”にいるのか……あいつの……なかに……?」

その視線はフェイを見ていたはずなのに、次の瞬間にはエヴァに向いていた。

「ちがうのか……じゃあ、女のほうか……あいつが……目を通して見ている……!」

「……っ!」

レオがふらりと立ち上がり、よろめきながら手を伸ばしてきた。
即座にエヴァが間合いを取り、手首を打ち払う。

男は倒れ、再び地面に崩れた。

「やっぱり……壊れてはいない。でも、境界が曖昧になってる。中に、誰かがいるような……でも、完全に“乗っ取られて”はいない」

フェイがしゃがみ込み、レオの様子をじっと観察する。

「これ……魔法じゃない。“入り口”がある。思考の奥深くに……別の意識が、“棲み着いて”いるような感触」

「そんなこと……本当にあるの?」

「……あるよ。古い記録に、“魔族の憑依”のようなものがあった。直接操るんじゃない。“意識の隙間”に入り込み、囁き続けて……やがて人格の一部を侵食する」

「じゃあ、これは——」

エヴァが呟きかけたそのとき、レオが地面を這いながら何かを繰り返し呟いた。

「……うしろに……うしろにいる……ずっと、立ってる……影が……声が……」

その声は、誰にも聞こえていないものへ向けた祈りか、あるいは恐怖そのものだった。

エヴァの全身に冷たいものが走る。

「これは、ただの狂気じゃない。“入り込まれてる”」

フェイは立ち上がり、ゆっくりと息を吐いた。

「……そう。たぶん、もう村の中には“痕跡”がある。気づいてないだけで、他にも……」

「私たち、狙われてる可能性もあるってこと?」

フェイはわずかに沈黙し、そして笑った。けれどその笑みは、どこか**“諦観に近い覚悟”**を含んでいた。

「そうかもしれない。……でもまあ、狙われるってことは、価値があるってことかもね」

その軽口の裏にある“本当の意味”に、エヴァは言葉を返せなかった。

納屋の中には、まだ怯えた呻きがこだましていた。
その声の向こうに、確かに“何か”がいる。
影を、言葉を、そして人の心の隙間を通して、こちらを見ている——そんな感覚だけが、強く残っていた。

納屋の扉が静かに閉じられたとき、まるで空気そのものが密閉されたような重さが室内を支配した。
湿った藁の匂い、染みついた汗と焦げた鉄のような臭い。生きているはずの空間なのに、そこに“命の気配”は薄かった。

レオは、散乱した藁の上に膝をつき、虚ろな瞳で何もない空間を見つめていた。
額には冷たい汗。唇は乾き、かすれた声が絶え間なく漏れる。

「……声がする……影が……また、また、来るんだ……!」

フェイはゆっくりと歩み寄る。
重苦しい空気を切り裂くことなく、まるでそれすら馴染ませるような静かな足取りだった。

正面にしゃがみ込むと、そっとレオの名を呼ぶ。

「レオ」

反応はない。
エヴァが背後で剣の柄に手を添えつつも、すぐには動かない。彼女の目は、フェイの“目”を見ていた。

「何かが……中で、ぐるぐるしてる……」
レオの言葉は、まるで自分の体の中を迷う魂のようだった。
「……自分の声なのに……自分じゃない……やつが……なかに……」

そのとき、フェイの右手がふっと持ち上がった。
胸の前で掌を開き、指先が空気の層をなぞる。まるで何か“見えない膜”を探っているように。

「……やっぱり、いるな」

囁くように言ったフェイの瞳に、淡く、深い青の光が宿る。

エヴァが思わず息をのむ。

(この空気……あの時と同じ……)

義賊に囲まれたあの夜。
彼の目が青く染まったとき、空気は沈み、何か“別の次元”がそこに現れた気がした——。

フェイの指先が、そっとレオの額に触れた——瞬間。

バシュッ。

音のない衝撃が空間を走る。
空気が波打ち、視界がふわりと揺らいだ。フェイの意識は、一瞬で“レオの内側”へと引きずり込まれた。

——声。無数の囁き。
——痛み。脳裏に刺さるような、鋭くも深い裂け目。
——名前。知らぬ誰かの名が、遠くから響いてくる。

そこには、レオの“精神の断層”があった。
自我が軋み、割れ目に黒い水のようなものが流れ込んでいた。
それは——魔族のものだ。思念だけで他者を汚染する、古く異質な“囁き”。

「……やめろ……おれは、おれは……おれは……!」

レオの心が軋みながら訴えていた。
その叫びを、フェイは受け止める。

押し返すのではない。拒むのでもない。
ただ、静かに、まるで友に語りかけるように、内側から声をかける。

「大丈夫。まだ、戻れる。君は“壊れていない”」

すると——

レオの体から、“黒い残響”のようなものがふっと揺れた。
目には見えないが、空気が確かに“澄んだ”。
まるで濁った水面に、小さな光が落ちたような……希望の揺らぎだった。

次の瞬間、レオの体から力が抜け、静かにフェイの腕の中へ倒れ込んだ。

「……終わったの?」

エヴァがそっと近づき、慎重に問いかける。

フェイは頷く。

「うん。でも、完全には抜けてない。痕跡は残ってる。……けど、もう自分を失ってはいない」

エヴァはそっとレオの顔を覗き込む。
その表情は穏やかで、目を閉じた顔はまるで眠っているかのようだった。

「……まるで、深く眠ってるだけみたい」

「彼の奥に沈んでいた自我を、少しだけ引き戻した。あとは……時間が必要だ」

そう言って、フェイはレオの体をゆっくりと横たえた。

エヴァは、さっきの出来事を脳裏で反芻する。
あの一瞬、フェイの気配は“人”のものではなかった。

(あれは……心の中に手を伸ばしていた。まるで、魂に触れるように)

その背を見つめたまま、ぽつりと呟く。

「……あなた、本当に“ただの案内人”じゃないわよね」

フェイは少し笑った。
けれど、何も言わず、そのまま扉のほうへと向かう。

その背には、“他者には踏み込めない場所”があった。
覗いたら引きずり込まれそうな深淵——
それをエヴァは、本能で感じ取っていた。

だが、同時に思う。

(それでも……この人は“帰ってこられる”。きっと、自分で決めた場所に)

だから、自分も目を逸らさずに隣を歩いていこう。
そう、小さく決意するように、エヴァは一歩を踏み出した。

納屋の扉がゆっくりと開かれた。

その瞬間、淀んでいた空気が押し流されるように、朝の光が差し込んだ。
けれど、それはただの光ではなかった。
まるで、何かが終わり、そして“始まり”の兆しが届いたような——そんな光。

レオを静かに抱き上げたフェイの腕に、彼の身体は抵抗なく預けられていた。
眠っているだけ——だが、今の彼は確かに“人”の姿に戻っていた。

納屋の外には、ぽつりぽつりと村人たちが集まり始めていた。
昨夜までの不安と困惑に満ちた表情はどこかに消え、代わりに、恐れと、それに混ざるようにして——希望が滲んでいた。

その希望の正体を、彼ら自身もまだ知らない。
けれど、フェイの背負う男の静かな寝顔が、その兆しを示していた。

無言のまま、フェイはゆっくりと村長の屋敷へと向かう。
彼の背に流れる空気はどこまでも静かで、けれど、なぜか心をざわつかせる。

エヴァは少し距離を取りながらその後ろを歩いた。
足取りは軽いはずなのに、何故か胸の奥がざわりと揺れる。
さっき、フェイがレオの“心”に触れた時、自分が見たもの——それは“人の領分を超えた何か”だった。

(……あの人は、いったい、どこまで知っているの?)

やがて屋敷に着くと、扉を開け放った先に、村長が立っていた。
その目がレオを見るなり、大きく見開かれる。

「……彼は……!」

「意識はない。でも、もう暴れたりしない。自我は、ちゃんと戻ってるよ」

フェイはそう言って、レオを丁寧に床に横たえた。
その腕からそっと手を放す時、彼の表情に一瞬だけ“慈しむ”色が宿った。

村長は言葉もなく、レオの傍らに膝をつき、震える手で額をそっと撫でる。

「……こんな顔を……久しく見ていなかった……」

その声には、安堵と悔恨と、深い哀しみがにじんでいた。

「時間はかかります。でも、もう“他人”の顔じゃなかったわ」

エヴァがゆっくりとそう告げると、村長は深く頷いた。

「……ありがとう。本当に、ありがとう。これでようやく、この村も……夜を、眠れる」

その言葉に、フェイは小さく首を振った。

「僕らはただ、少しだけ扉を開けただけですよ。中に入るかどうかは、村の人たち次第です」

村長は何も返さず、ただ深く頭を垂れた。

窓の外には、朝の風が吹き抜けていく。
柔らかな陽の光が草木を照らし、どこかで鳥の鳴く声が聞こえた。

広場には、もう傭兵たちの姿はなかった。
彼らは、レオの崩壊とともに姿を消したらしい。
恐怖の糸が切れたとき、彼らが縛られていた“支配”もまた、力を失ったのだ。

「……結局、彼らも“ただの人間”だったのね」

エヴァが呟く。
その声には責める響きはなかった。ただ、理解しようとする静かな温度があった。

「恐怖は、人を縛る。時に、道理も、誇りも、友情すらねじ曲げる」

フェイは窓の外を見ながらぽつりと呟いた。

「でも……それに勝てるのも、結局は“人”なんだよ。
きっかけさえあれば、誰だって、目を覚ませる」

エヴァは少しだけ、その横顔を見つめた。
その言葉は、どこか彼自身に向けたものにも思えた。

(……この人は、誰よりも“人間の強さ”を信じている)

それは、強い魔族や術者を知っている者だからこそ持てる信念。
本物の闇を見たことがある者だけが語れる言葉。

「……あのレオって人も、最初はきっと誰かを助けようとしていたのよね。
何かに取り込まれたのは、その“思い”の先だったのかもしれない」

「そうかもね。強い想いほど、闇にとっては“美味しい”。だからこそ、狙われる」

フェイの声に、ひそかに潜む“警鐘”のような響き。
それが、ただの警告ではなく——どこか“自分にも言い聞かせている”ように感じられて、エヴァは静かに目を伏せた。

(私たちも、気をつけなきゃいけない)

風が、木の枝を揺らしていた。

遠くの森のほうから、カラスの鳴く声が聞こえた。
その声が、一瞬だけ“誰かの笑い声”に聞こえたのは、気のせいだっただろうか。

——嵐の中心には、まだ誰もたどり着いていない。
だが、確かにそこへ向かって、物語は動き始めていた。
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