《蒼眼のトライブ Last Testament(ラスト・テスタメント)》

ケリーエヴァンス

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第8話 酒場騒動、そして彼は何者か

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日もすっかり傾き、空は茜から紫へと色を変え始めていた。やがて暮れの風が冷たさを帯び始めたころ、フェイとエヴァは道中二つ目となる小さな村へとたどり着いた。

村の入り口から見えるのは、素朴を絵に描いたような宿屋。年季の入った木造の建物は、少々くたびれた様子を見せており、正面に掲げられた木の看板は片方の鎖が外れ、今にも地面に落ちそうなほど斜めに傾いていた。

「わー……看板、傾いてるねこの宿。味があるっていうか、まぁ……うん、倒れてはない。ギリギリ。」

フェイは馬上でそれを見上げ、感心したような表情を浮かべながらぽつりと呟いた。冗談めかしたその言葉に、エヴァは呆れたように目線をそらす。

「……一応、営業はしてるみたいね。今日はここで休むわよ」

宿屋の隣には、それと同じくくたびれた建物の酒場があり、開いた木窓からは音楽と笑い声、そしてアルコールに酔った喉の潤いが混ざった喧噪が漏れていた。テラス席には何人かの男たちが足を投げ出し、椅子にぐったりと身を預けたまま眠りこけている。そのうちの一人は、口元にパンを咥えたままいびきをかいていた。

フェイはその光景を見て、肩を揺らして笑う。

「ふふ、まさに“旅の途中”って感じの情景だねぇ。こういう村に来ると、逆に落ち着くなあ。あっちもこっちも、いい具合に緩んでる」

エヴァは視線だけでフェイを一瞥し、静かに馬を下りると手綱を引いた。

「……私が先に部屋を取ってくるわ。あなたはここで待ってて。くれぐれも騒がないでよ」

フェイは軽く手を上げて応えた。

「任せて任せて。気配を消すのは得意だから。……木陰に溶け込むのは生きる術みたいなもんだしね」

その口調は軽妙だったが、エヴァはふとその言葉の裏に、ほんのわずかな“本気”の気配を感じ取った。

「……どうかしら」

そう返す声には、わずかに探るような鋭さが滲む。

エヴァはそう言い残し、足取りも音も静かに、宿の引き戸を開けて中へと入っていった。フェイは彼女の背中を目で追いながら、小さく息を吐いた。

「……騎士様も、なかなかに隙がないな」

誰にともなく呟くその声は、酒場の喧騒にあっさりと溶けて消えていった。

 中に入れば、案の定、空気は濃かった。

 古びた木の床は歩くたびに軋み、油が焦げたような匂いが燻ったランプの灯りと共に鼻をつく。カウンターの奥には黙々と酒を注ぐ主人の姿が見え、その傍らには、どこか乾いた視線をこちらに向ける男たちの姿があった。

 数人の男たちが、明らかに「よそ者チェック中」だ。フェイはあえて目を逸らし、軽く肩をすくめながら店内に足を進める。

 ──が、その一人が立ち上がった。

「おい、おまえ……見ねえ顔だな。どこから来た?」

「どこからって……えーと、道から?」

 真顔で言ったフェイに、男たちが一斉に眉をひそめる。

「いやいや、冗談冗談。しがない旅の者です。たまたま帰路の途中で寄らせてもらっただけだよ」

 笑ってごまかすフェイだが、男たちは明らかに色めき立っていた。にじり寄るように囲み始める。

 小柄だが目つきの鋭い青年、肩幅の広い中年、刃物の匂いを感じさせるような若い男──やれやれ、これはまた面倒な展開だなとフェイは心の中でため息をつく。

「この辺、最近盗賊が出るって話でな。妙な格好のやつは全部怪しいんだよ」

 ニタニタと笑うその言葉に、背後から別の声が被さった。

「あー、確かにフェイって見た目が怪しいものね」

 ──エヴァだった。いつの間にか後ろに立っていた彼女は、冷ややかな声音と鋭い目で男たちを見据えている。

 フェイは小さく笑って肩をすくめた。

「そんなに怪しいかな? ……でも、まぁ、見た目って当てにならないよ?」

 次の瞬間。

 ドンッ。

 前にいた中年の男がフェイの肩を押した──その直後、空気が変わった。

 フェイの腕がすっと上がり、その手を掴んだかと思えば、軽やかに身体を回転させ──

 ドゴン、と鈍く重い音を立てて、男の背が床に叩きつけられた。

「っとと、ごめんごめん。つい、条件反射ってやつで」

 フェイは申し訳なさそうに苦笑しながら言ったが、その表情はどこか楽しそうでもあった。

 酒場が一瞬で静まり返る。

「てめぇ……ッ!」

 小柄な青年が短剣を抜いた。しかし、その一手すら遅い。

「危ないなあ」

 数秒のうちに、三人が床に転がった。

 青年の突きを紙一重でかわし、足払いからの肘打ちで沈める。後ろから来た若者には椅子を蹴り飛ばして足を止め、その隙に踏み込み、前蹴り一閃で壁際に吹き飛ばす。

 酒場のテーブルが倒れ、ジョッキが宙を舞った──が、それすらもフェイは手で受け止め、音ひとつ立てずにカウンターに戻していた。

 無駄がない。それでいて、どこか軽やかで、飄々としている。

「……あなた、本当は何者?」

 酒場の片隅で、誰かが呟いたその声が妙にクリアに響いた。

 フェイは手をヒラヒラと振って笑う。

「いやいや、辺境に住んでる、ただの旅の者だってば」

 エヴァは黙ってその横顔を見つめていた。今までのどんな場面よりも、真剣なまなざしだった。

(陽気な顔の下に、これは……正確で制御された“力”。しかも、見せるつもりもないまま、意図して抑えている)

 評価──ではない。それは理解に近いものだった。

 この男は、間違いなく「ただの旅人」ではない。

「……これじゃあ、ゆっくり酒も飲めないね、エヴァ。仕方ないから、部屋行こうか? この人たち、ちょっと寝かせとこう」

「……あんた、本当に“ただの旅人”?」

 男三人を軽くいなしておいて、顔色ひとつ変えずに笑っている。その姿には高揚もなく、自慢げな様子もない。

 ただ、自然にこなした、というだけのように見えた。

「まぁ、そういうことにしといてよ」

 夜は静寂を取り戻し、倒れた男たちの低いうめき声だけが、酒場の床に残されていた。

──翌朝。

 東の空がうっすらと白み始めるころ、二人は宿を後にした。

 昨夜の騒ぎが嘘のように、街はまだ眠りの中。ひんやりとした朝の空気を吸い込みながら、霧の彼方に浮かび始めた帝都の城壁が、うっすらとその輪郭を現していた。

「さ、今日も歩くよー。王様に“おつかれさま”ぐらいは言ってもらわないとね」

 フェイが馬の首筋を軽く撫でながら、気の抜けた調子で言う。

 その横でエヴァはぼそりと呟いた。

「……その前に、報告書には何て書こうかしら。トラブル全部、嘘偽りなく書こうかしら」

 フェイは振り返り、顔をしかめた。

「そこは……ほら、いい感じにオブラートに包んでくれると助かるなぁ」

「“条件反射で三人倒した”とか、“椅子を蹴って華麗に制圧した”とか?」

「おおぅ……それ、ぜんぶ書いたら変な噂が立つからやめてぇ……」

 そんな言葉を交わしながら、二人は並んで馬を進めた。

 柔らかな朝靄の中を踏みしめる馬蹄の音が、静かな大地に小さく響いていた。空は白み、帝都の塔が朝日に照らされて輝き出す。

 ――凱旋の朝が、静かに幕を開ける。
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