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第25話 ー魔王城内部へー
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魔王城の外壁は、夜の闇に溶け込むように黒くそびえ立っていた。月明かりさえ届かぬ高みから、鈍く光る棘のような装飾が突き出し、まるで侵入者を拒む意思を持っているかのようだった。
レイジたちは城の北側、使用されていないはずの補給路から足を踏み入れる。風は冷たく、肌を刺すような鋭さを帯びている。それでも、ただの寒さではなかった。背筋を這い上がるような悪寒が、誰もが感じ取れる形で漂っていた。
「……空気が、重いな」
レイジが低く呟く。声は反響し、石造りの壁がそれを何度も跳ね返した。
リアナは背後を振り返り、小さく頷く。「音が吸い込まれてる……城そのものが生きてるみたい。」
石畳は湿って滑りやすく、時折、遠くから水滴が落ちる音が響いた。それが妙に近く感じるのは、この場所が空間 を歪めているからなのかもしれない。
壁に刻まれた古い魔術文字はところどころ削れ、そこから滲み出すように冷気が流れ出していた。ルーンはどれも不吉な赤い光を帯び、見ているだけで心をざわつかせる。
レイジは剣の柄にそっと手を添え、前進する。「気を抜くな。この城は俺たちを歓迎していない。」
足元で、小さな魔力の波が広がった。まるで地中から誰かが呼吸しているようだ。リアナが魔力感知を広げた瞬間、その表情がこわばった。
「……いる。私たちを見てる。」
その言葉に、仲間全員が足を止めた。耳を澄ませば、確かに、どこかから衣擦れの音がする。だが、それは一歩近づくたびに遠ざかり、また別の方向から聞こえてくる。
不意に、頭上の暗がりで影が揺れた。レイジが反射的に視線を向けると、天井近くの梁の上に、一人の女が腰掛けていた。
月明かりの欠片が差し込み、彼女の姿をかすかに照らす。艶やかな黒髪が背中まで流れ、唇は紅玉のように鮮やかだった。漆黒のドレスが身体に沿って滑り、足を組み替えるたびに形の良い太腿がちらつく。
「……やっと来たのね、侵入者たち。」
その声は、低く甘い。耳の奥に残る響きは、まるで舌先で鼓膜を撫でられるようだった。
レイジは剣を抜き、構える。「何者だ?」
女はくすりと笑い、頬杖をつく。「あなたたちがここまで来るのを、ずっと見ていたわ。私の名は……まだ秘密にしておきましょう。ただ、“門を開く者”とだけ覚えておいて。」
梁から軽やかに降り立つと、彼女は滑るような足取りで近づいてくる。赤い瞳が、まるで心の奥を覗き込むようにレイジを射抜いた。
その瞬間、空気の密度が変わる。吐息が熱を帯び、鼓動が速くなる。見えない何かが、じわじわと精神を侵食してくるのがわかった。
「この先へ進みたいのなら……私の試練を受けてもらうわ。」
女の微笑みが、甘くも危険な光を放った──。
女の足音は、濡れた石畳に落ちるたび、微かに水面のような波紋を作る。それは視覚ではなく、感覚で伝わる波だった。肌の内側にまで響くその震えに、仲間たちは無意識に呼吸を合わせ、間合いを計る。
レイジは視線を逸らさずに問いかける。
「試練、だと? 魔王の手下か、それとも――」
「どちらでもあり、どちらでもないわ。」女は首を傾げ、艶やかに唇を吊り上げる。「私はこの城の“門”。許された者だけを通す。そして、許さぬ者は……ここで沈める。」
その言葉と同時に、足元の石畳が脈打った。
赤黒い光がルーンを走り、瞬く間に廊下全体を覆う。壁に刻まれた魔術文字が呼応し、空間がねじれるように揺らめいた。視界の端で影が伸び、別の影と絡み合い、やがて形を持ちはじめる。
現れたのは、細長く歪んだ人影だった。四肢は異様に長く、肌は蝋のように白い。表情のない顔には、ただ深紅の眼だけが輝いている。
リアナが短く息を呑む。「魔影……精神を喰う下位守護体。」
女はその影たちを背に、ゆったりと歩み寄る。「あなたの仲間は、この子たちと遊んでいてもらうわ。あなた――レイジ、だけは私と来なさい。」
「勝手なことを……」
レイジが言い切る前に、床のルーンが激しく光り、仲間たちとの間に半透明の壁が立ち上がる。リアナが駆け寄るが、壁は冷たい水のように形を変え、触れた瞬間に強烈な魔力の反発が走った。
「レイジ!」
振り返る彼の目に、女の白い手が差し伸べられる。指先から漂う甘やかな香りが、鼻腔を満たす。体温が上がり、思考の端がぼやける。
「怖がらなくていい……ただ、私を信じてついて来ればいいの。」
女の声は、眠りの中に落ちる寸前のような心地よさを伴っていた。
レイジは一瞬ためらい、しかし剣を握り直す。
「……いいだろう。試練とやら、受けてやる。」
女は満足げに微笑むと、踵を返した。彼女の歩みに合わせて床の光が波打ち、二人の足元だけがゆっくりと沈み込む。視界が暗転し、冷たい風が頬を撫でた。
次に目を開けたとき、そこは廊下ではなかった。
広がるのは、艶やかな黒い大理石の床と、天井から垂れ下がる深紅の天蓋。壁一面に鏡が並び、無数の自分と女の姿が映し出されている。空気は甘く重く、呼吸をするたびに胸の奥が熱を帯びる。
女は振り返り、鏡越しにレイジを見つめる。「さあ……あなたの心と体、どちらが先に屈するのか、試してあげるわ。」
鏡の中の彼女が微笑んだ瞬間、足元から黒い靄が湧き上がり、レイジの足首に絡みついた――。
靄は冷たく、しかし触れた瞬間に熱を帯びたかのように、足首から脛へと這い上がってくる。まるで生き物のようなそれは、筋肉の動きを探るようにゆっくりと締め付け、逃れようとするほど強く絡みつく。
「……これはただの拘束じゃないな。」
レイジは低く呟き、靄を切り払おうと剣を振るう。だが刃が通り抜ける瞬間、靄は霧散するのではなく、逆に剣を包み込み、柄ごと温かく溶かすように絡みついてきた。
女は鏡の間の中央で、指先をゆるりと動かす。その仕草ひとつで、靄が脈動し、レイジの太腿へと這い上がってくる。
「これはあなたの“感覚”を試すためのもの。快楽に溺れれば溺れるほど、あなたは私に近づく。拒めば拒むほど、心が削れていく。」
鏡越しに映る彼女は十人、いや百人にも見える。それぞれが少しずつ異なる表情で笑い、唇を開き、囁きかけてくる。
――来て。
――抗わなくていい。
――そのまま委ねれば、すぐに楽になれる。
囁きは声ではなく、頭の中に直接染み込んでくる。耳の奥をくすぐる甘い響きが、理性の鎧を少しずつ緩めていく。
レイジは奥歯を噛み、視線を逸らすまいと前を睨む。「俺は……こんな誘惑で立ち止まるわけには……」
しかし靄は腰まで絡みつき、呼吸のたびにわずかな吐息がもれる。熱い。血流が加速し、手のひらまでじんじんと痺れる。
女は近づき、距離を詰める。薄紅の唇が耳元に寄せられ、微かな吐息が首筋を撫でた。
「強いのね……でも、その強さがどこまで続くか、見せてもらうわ。」
靄が一気に胸元を這い上がる。心臓の鼓動が強くなり、皮膚の下を駆ける熱が全身を巡る。鏡の中の彼女たちが同時に唇を舐め、レイジを見つめた。
一瞬、意識が霞みそうになる――その刹那、レイジは自分の内側から力を叩きつけた。
「……まだだ。」
靄を押し返すように全身に魔力を巡らせる。蒼い光が皮膚の表面を走り、絡みついていた靄が一瞬たじろいだ。
女は興味深そうに目を細める。「ふふ……やっぱり、簡単には堕ちてくれないのね。」
その声は、今度はほんの少し楽しげだった。
そして、彼女は両手を広げた。鏡の奥から、無数の靄が津波のように押し寄せ――。
靄の奔流が床一面を覆い、黒い海となって押し寄せてくる。濃度が高まったそれは視界を奪い、音さえも呑み込むように重く、粘ついた空気を生み出した。
足を踏み出すたび、靄は足首に巻き付き、太腿へと滑る。熱い、そしてやけに重い。まるで見えない手が幾重にも絡みつき、脈動しながら感覚を侵食してくるようだった。
「……くそ……!」
レイジは魔力を迸らせる。青白い稲光が靄を裂くが、その切れ間からは、すぐさま新たな靄が湧き出す。
その中心に、女がいた。深紅のドレスの裾が床を引き、足首をかすかに覗かせる。彼女の瞳は夜のように深く、その奥で揺らめく光がレイジの意志を試すかのように輝いていた。
「あなたは強い。でも……私を本当に退けられるのかしら?」
女の声は耳ではなく、心の奥に直接響く。温かく、湿り気を帯びた声が、背骨をゆっくりと撫で下ろしてくるようだった。
次の瞬間、靄が一気に収束し、鎖のようにレイジの両腕を縛る。背後から伸びたそれが肩に絡み、胸板を締め付ける。呼吸が乱れ、熱が体内で暴れ出す。
「……離せっ……!」
声を振り絞るが、その熱は力を奪うどころか、奇妙な快感を伴って全身に広がる。まるで血流そのものが甘く溶けていくような感覚。
女はゆっくりと歩み寄り、顔の距離を詰める。吐息が唇に触れるほど近く――そして、わずかに笑う。
「抵抗すればするほど、あなたは私に染まっていく……」
鏡の中の彼女たちが一斉に手を伸ばし、虚空から触れる。背後から、横から、無数の指先が首筋を撫で、耳朶をなぞる。視覚も触覚も、全てが彼女に支配されていく。
――ダメだ、ここで負ければ。
理性の奥底で、鋭い光が弾けた。レイジは魔力を一点に集中させ、胸の奥から爆発させるように解き放つ。青白い衝撃波が全方向へ走り、靄を一気に吹き飛ばした。
女はわずかに目を見開き、後ずさる。だが次の瞬間、その口元に艶やかな笑みを浮かべた。
「……やっぱり面白い。あなた、魔王城に来たのは正解かもしれないわ。」
靄が消え、鏡の幻影も霧のように薄れていく。残されたのは、ただひとりの女の姿だけ。
「私は魔王の側近、城の鍵を預かる者。名前は――」
そこで彼女は、意味深に言葉を切り、背を向ける。
「また会いましょう、侵入者。」
紅いドレスの裾が翻り、彼女は闇の向こうへ溶けていった。
レイジはその場に膝をつき、荒い息を整える。まだ全身に熱が残り、心臓は収まらないままだった。
――あれが魔王の側近……そして、試練。
だが確信した。これから進む先は、ただの戦いでは終わらない。
魔王城は、欲と力と陰謀が渦巻く、生きた迷宮だ。
レイジたちは城の北側、使用されていないはずの補給路から足を踏み入れる。風は冷たく、肌を刺すような鋭さを帯びている。それでも、ただの寒さではなかった。背筋を這い上がるような悪寒が、誰もが感じ取れる形で漂っていた。
「……空気が、重いな」
レイジが低く呟く。声は反響し、石造りの壁がそれを何度も跳ね返した。
リアナは背後を振り返り、小さく頷く。「音が吸い込まれてる……城そのものが生きてるみたい。」
石畳は湿って滑りやすく、時折、遠くから水滴が落ちる音が響いた。それが妙に近く感じるのは、この場所が空間 を歪めているからなのかもしれない。
壁に刻まれた古い魔術文字はところどころ削れ、そこから滲み出すように冷気が流れ出していた。ルーンはどれも不吉な赤い光を帯び、見ているだけで心をざわつかせる。
レイジは剣の柄にそっと手を添え、前進する。「気を抜くな。この城は俺たちを歓迎していない。」
足元で、小さな魔力の波が広がった。まるで地中から誰かが呼吸しているようだ。リアナが魔力感知を広げた瞬間、その表情がこわばった。
「……いる。私たちを見てる。」
その言葉に、仲間全員が足を止めた。耳を澄ませば、確かに、どこかから衣擦れの音がする。だが、それは一歩近づくたびに遠ざかり、また別の方向から聞こえてくる。
不意に、頭上の暗がりで影が揺れた。レイジが反射的に視線を向けると、天井近くの梁の上に、一人の女が腰掛けていた。
月明かりの欠片が差し込み、彼女の姿をかすかに照らす。艶やかな黒髪が背中まで流れ、唇は紅玉のように鮮やかだった。漆黒のドレスが身体に沿って滑り、足を組み替えるたびに形の良い太腿がちらつく。
「……やっと来たのね、侵入者たち。」
その声は、低く甘い。耳の奥に残る響きは、まるで舌先で鼓膜を撫でられるようだった。
レイジは剣を抜き、構える。「何者だ?」
女はくすりと笑い、頬杖をつく。「あなたたちがここまで来るのを、ずっと見ていたわ。私の名は……まだ秘密にしておきましょう。ただ、“門を開く者”とだけ覚えておいて。」
梁から軽やかに降り立つと、彼女は滑るような足取りで近づいてくる。赤い瞳が、まるで心の奥を覗き込むようにレイジを射抜いた。
その瞬間、空気の密度が変わる。吐息が熱を帯び、鼓動が速くなる。見えない何かが、じわじわと精神を侵食してくるのがわかった。
「この先へ進みたいのなら……私の試練を受けてもらうわ。」
女の微笑みが、甘くも危険な光を放った──。
女の足音は、濡れた石畳に落ちるたび、微かに水面のような波紋を作る。それは視覚ではなく、感覚で伝わる波だった。肌の内側にまで響くその震えに、仲間たちは無意識に呼吸を合わせ、間合いを計る。
レイジは視線を逸らさずに問いかける。
「試練、だと? 魔王の手下か、それとも――」
「どちらでもあり、どちらでもないわ。」女は首を傾げ、艶やかに唇を吊り上げる。「私はこの城の“門”。許された者だけを通す。そして、許さぬ者は……ここで沈める。」
その言葉と同時に、足元の石畳が脈打った。
赤黒い光がルーンを走り、瞬く間に廊下全体を覆う。壁に刻まれた魔術文字が呼応し、空間がねじれるように揺らめいた。視界の端で影が伸び、別の影と絡み合い、やがて形を持ちはじめる。
現れたのは、細長く歪んだ人影だった。四肢は異様に長く、肌は蝋のように白い。表情のない顔には、ただ深紅の眼だけが輝いている。
リアナが短く息を呑む。「魔影……精神を喰う下位守護体。」
女はその影たちを背に、ゆったりと歩み寄る。「あなたの仲間は、この子たちと遊んでいてもらうわ。あなた――レイジ、だけは私と来なさい。」
「勝手なことを……」
レイジが言い切る前に、床のルーンが激しく光り、仲間たちとの間に半透明の壁が立ち上がる。リアナが駆け寄るが、壁は冷たい水のように形を変え、触れた瞬間に強烈な魔力の反発が走った。
「レイジ!」
振り返る彼の目に、女の白い手が差し伸べられる。指先から漂う甘やかな香りが、鼻腔を満たす。体温が上がり、思考の端がぼやける。
「怖がらなくていい……ただ、私を信じてついて来ればいいの。」
女の声は、眠りの中に落ちる寸前のような心地よさを伴っていた。
レイジは一瞬ためらい、しかし剣を握り直す。
「……いいだろう。試練とやら、受けてやる。」
女は満足げに微笑むと、踵を返した。彼女の歩みに合わせて床の光が波打ち、二人の足元だけがゆっくりと沈み込む。視界が暗転し、冷たい風が頬を撫でた。
次に目を開けたとき、そこは廊下ではなかった。
広がるのは、艶やかな黒い大理石の床と、天井から垂れ下がる深紅の天蓋。壁一面に鏡が並び、無数の自分と女の姿が映し出されている。空気は甘く重く、呼吸をするたびに胸の奥が熱を帯びる。
女は振り返り、鏡越しにレイジを見つめる。「さあ……あなたの心と体、どちらが先に屈するのか、試してあげるわ。」
鏡の中の彼女が微笑んだ瞬間、足元から黒い靄が湧き上がり、レイジの足首に絡みついた――。
靄は冷たく、しかし触れた瞬間に熱を帯びたかのように、足首から脛へと這い上がってくる。まるで生き物のようなそれは、筋肉の動きを探るようにゆっくりと締め付け、逃れようとするほど強く絡みつく。
「……これはただの拘束じゃないな。」
レイジは低く呟き、靄を切り払おうと剣を振るう。だが刃が通り抜ける瞬間、靄は霧散するのではなく、逆に剣を包み込み、柄ごと温かく溶かすように絡みついてきた。
女は鏡の間の中央で、指先をゆるりと動かす。その仕草ひとつで、靄が脈動し、レイジの太腿へと這い上がってくる。
「これはあなたの“感覚”を試すためのもの。快楽に溺れれば溺れるほど、あなたは私に近づく。拒めば拒むほど、心が削れていく。」
鏡越しに映る彼女は十人、いや百人にも見える。それぞれが少しずつ異なる表情で笑い、唇を開き、囁きかけてくる。
――来て。
――抗わなくていい。
――そのまま委ねれば、すぐに楽になれる。
囁きは声ではなく、頭の中に直接染み込んでくる。耳の奥をくすぐる甘い響きが、理性の鎧を少しずつ緩めていく。
レイジは奥歯を噛み、視線を逸らすまいと前を睨む。「俺は……こんな誘惑で立ち止まるわけには……」
しかし靄は腰まで絡みつき、呼吸のたびにわずかな吐息がもれる。熱い。血流が加速し、手のひらまでじんじんと痺れる。
女は近づき、距離を詰める。薄紅の唇が耳元に寄せられ、微かな吐息が首筋を撫でた。
「強いのね……でも、その強さがどこまで続くか、見せてもらうわ。」
靄が一気に胸元を這い上がる。心臓の鼓動が強くなり、皮膚の下を駆ける熱が全身を巡る。鏡の中の彼女たちが同時に唇を舐め、レイジを見つめた。
一瞬、意識が霞みそうになる――その刹那、レイジは自分の内側から力を叩きつけた。
「……まだだ。」
靄を押し返すように全身に魔力を巡らせる。蒼い光が皮膚の表面を走り、絡みついていた靄が一瞬たじろいだ。
女は興味深そうに目を細める。「ふふ……やっぱり、簡単には堕ちてくれないのね。」
その声は、今度はほんの少し楽しげだった。
そして、彼女は両手を広げた。鏡の奥から、無数の靄が津波のように押し寄せ――。
靄の奔流が床一面を覆い、黒い海となって押し寄せてくる。濃度が高まったそれは視界を奪い、音さえも呑み込むように重く、粘ついた空気を生み出した。
足を踏み出すたび、靄は足首に巻き付き、太腿へと滑る。熱い、そしてやけに重い。まるで見えない手が幾重にも絡みつき、脈動しながら感覚を侵食してくるようだった。
「……くそ……!」
レイジは魔力を迸らせる。青白い稲光が靄を裂くが、その切れ間からは、すぐさま新たな靄が湧き出す。
その中心に、女がいた。深紅のドレスの裾が床を引き、足首をかすかに覗かせる。彼女の瞳は夜のように深く、その奥で揺らめく光がレイジの意志を試すかのように輝いていた。
「あなたは強い。でも……私を本当に退けられるのかしら?」
女の声は耳ではなく、心の奥に直接響く。温かく、湿り気を帯びた声が、背骨をゆっくりと撫で下ろしてくるようだった。
次の瞬間、靄が一気に収束し、鎖のようにレイジの両腕を縛る。背後から伸びたそれが肩に絡み、胸板を締め付ける。呼吸が乱れ、熱が体内で暴れ出す。
「……離せっ……!」
声を振り絞るが、その熱は力を奪うどころか、奇妙な快感を伴って全身に広がる。まるで血流そのものが甘く溶けていくような感覚。
女はゆっくりと歩み寄り、顔の距離を詰める。吐息が唇に触れるほど近く――そして、わずかに笑う。
「抵抗すればするほど、あなたは私に染まっていく……」
鏡の中の彼女たちが一斉に手を伸ばし、虚空から触れる。背後から、横から、無数の指先が首筋を撫で、耳朶をなぞる。視覚も触覚も、全てが彼女に支配されていく。
――ダメだ、ここで負ければ。
理性の奥底で、鋭い光が弾けた。レイジは魔力を一点に集中させ、胸の奥から爆発させるように解き放つ。青白い衝撃波が全方向へ走り、靄を一気に吹き飛ばした。
女はわずかに目を見開き、後ずさる。だが次の瞬間、その口元に艶やかな笑みを浮かべた。
「……やっぱり面白い。あなた、魔王城に来たのは正解かもしれないわ。」
靄が消え、鏡の幻影も霧のように薄れていく。残されたのは、ただひとりの女の姿だけ。
「私は魔王の側近、城の鍵を預かる者。名前は――」
そこで彼女は、意味深に言葉を切り、背を向ける。
「また会いましょう、侵入者。」
紅いドレスの裾が翻り、彼女は闇の向こうへ溶けていった。
レイジはその場に膝をつき、荒い息を整える。まだ全身に熱が残り、心臓は収まらないままだった。
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