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第39話 ー幻淫の蝶姫、再びー
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夜空に広がった蝶の紋は、静かな星々を食い荒らすかのように大きく脈動していた。紫と黒が渦を巻き、星座の並びを塗り潰していく。かつての夜空はどこにもなく、ただ艶やかで禍々しい翅の模様が天を覆い尽くしていた。風はないのに髪が逆立ち、肺に吸い込む空気は甘ったるく湿っている。呼吸をするだけで、身体の奥に蜜のような熱が染み込んでいく感覚――それは戦場にいる者が最も忌むべき“心を蕩かす香り”だった。
セレーナは胸を押さえた。妹の笑顔が脳裏に蘇る。あの最後の絶叫が幻聴のように重なり、彼女の喉を詰まらせる。目の前の光景が現実か幻か判別できないほど、夜空の紋は妖艶で鮮烈だった。
「……リリィナ……」
声を漏らした瞬間、足元の影が彼女を引き留めた。影の王女の裾から伸びた黒い糸が、セレーナの足首を軽く絡めている。
「立っていろ。視線を逸らせば飲み込まれる」
冷徹な声が、辛うじて現実を繋ぎ止める鎖だった。
岩棚の隅でカリーネは香袋を握りしめ、必死に辛香を焚いた。甘香と混ざり合い、鼻腔に痛みが走る。それでも彼女の頬は熱に赤らみ、理性の境界が削られていくのを感じた。外交の場であれば、こうした空気の乱れさえ武器になっただろう。だが今は命を賭けた戦場。彼女は自分を叱咤するように短剣を抜き、足元の岩を突き刺した。
「ここは……会議室じゃない。私は、戦うんだ……!」
そのとき、紋の中心がゆらぎ、女の姿が浮かび上がった。
透ける翅を背に、肢体はしなやかで月光を映したように輝く。肌は雪より白く、唇は熟れた果実のように赤。紫の瞳は深淵のように広がり、覗き込む者の魂を底からすくい上げて絡め取る。衣は薄絹のように透け、歩みのたびに脚線が艶やかに浮かび上がる。美しく、そして恐ろしい。人の欲望を体現するような存在。
「ふふ……よく来たわね。ここまで生き残るなんて、私を楽しませてくれるわ」
蝶姫の声は風鈴の音色のように柔らかく、それでいて毒のように重い。耳の奥に滴り落ち、心の深層を震わせる。
レイジは一歩前に出た。剣を握る手が震えているのは恐怖ではなく怒りだ。妹を失ったセレーナを守れなかった悔恨が、胸の奥で焼けるように燃えていた。
「お前が……リリィナを奪ったのか」
その声は怒気に満ち、岩棚の空気さえ震わせる。
蝶姫は恍惚とした微笑を浮かべ、唇を舐めた。
「奪った? いいえ。甘美に酔わせて、永遠に羽ばたかせただけよ。あの子は今も、私の夢の中で微笑んでいるわ」
その言葉にセレーナが叫んだ。
「黙れ! リリィナは……私の妹は、あなたの玩具じゃない!」
岩棚の上に甘い風が渦を巻き、蝶姫の翅がゆるやかに羽ばたいた。闇の中に、戦いの幕が上がろうとしていた。
蝶姫が指先で夜を撫でると、翅から零れた微光の粒が雨のように降りそそいだ。鱗粉は空気よりも軽く、しかし水よりも濃く、触れた皮膚の上で静かにほどけて神経に入り込む。息を吸うだけで喉の奥が温み、胸の中央に蜜が注がれたかのような甘い重さが生まれる。音は綿で包まれ、色は艶を増し、輪郭がやさしく丸くなる。世界の解像度が“心地よさ”を基準に組み替えられていく。
最初に足を取られたのはセレーナだった。白い靄の向こうに、あまりにも見慣れた背中があった。肩までの髪が揺れ、くるりと振り向く。笑う、泣く、拗ねる――何度も見てきた表情のすべてを一瞬に載せた顔。
「……リリィナ」
呼べば、彼女は駆け寄ってきた。温度がある。重さがある。腕の中の感触は記憶と寸分違わず、胸の奥で凍っていた場所にじんわりと熱が沁みていく。幻だと分かっていながら、抗えない。涙があふれ、握る杖が震える。
「姉様、もう大丈夫。こっちにおいで」
蝶姫の声色でありながら、響きは妹のそれと同じ。セレーナの足元の岩が草に変わり、花が開き、風が頬を撫でる。痛みが遠のく。思考の輪郭から、尖りが削れていく。
カリーネの前には、玉座の間が広がっていた。磨かれた床に、各国の紋章旗がずらりと並ぶ。対立してきたはずの顔ぶれが微笑み、彼女の手に羽根ペンを渡す。
「おめでとう。あなたの文案で世界はひとつになった」
喝采の音が波のように押し寄せ、胸骨をくすぐった。どこにも血の匂いはない。争いは終わる。……ここでなら、誰も傷つかない――。指先が署名へと落ちかける。辛香の袋は腰の紐にぶら下がったまま、触れる理由を失いかけていた。
影の王女には、冷えた回廊が現れた。遠い昔、彼女がただ一人で往復した長い廊下。今回は違う。行く手に、対の影が揺れている。自分の歩幅に合わせて寄り添う、温かい気配。孤独という硬質な殻に、小さな亀裂が走る。
「ずっと一人でいたのね。もういいの。あなたは理解される」
蝶姫の囁きが、長い年月で硬化した傷にそっと指をあてる。痛みではなく、ほどける感覚。影の王女の足取りが半歩、柔らいだ。
レイジは、薄曇りの朝を見た。小麦色の光が差し、木卓には湯気の立つ朝食。扉が開いてリリィナが顔を出す。「兄様、起きて」と笑う。ベンチにはセレーナ、窓辺にはカリーネ、柱の陰には気配だけの影の王女。戦いの痕はなく、いつも通りが永遠に続くと信じられる朝。
――これが、もし選べるなら。
胸の奥で誰かが言った。剣を置けば、守れなかった悔恨も、奪われた痛みも、すべて静かに眠るのだと。
「違う」
レイジは頬の内側を強く噛んだ。鉄の味が舌に滲み、景色の彩度がわずかに落ちる。瞳の端で、あり得ないものが見えた。朝の光が差しているのに、卓上の器に影が落ちていない。影が“甘さ”に溶けている――。
「戻れ!」
短く吠える声が、綿に包まれた世界を少しだけ破った。セレーナの肩が微かに揺れ、目の奥に冷たい光が戻りかける。だがリリィナの幻は、もっとやさしく抱き寄せてくる。「大丈夫、痛くないよ」と。
カリーネの目の前では祝宴が高潮に達し、乾杯の杯が並ぶ。彼女の名前を讃える声に胸が浮く。右手が羽根ペンへ引かれ――ふと、軸に影がないことに気づいた。光源が複数あるのに、どの方向にも影が落ちない。
「おかしい……」
唇がその言葉を形作った途端、拍手の音が布の裂ける音に変わった。玉座の間の壁紙がゆっくりと剥がれ、下から黒い蝶の紋がのぞく。
影の王女は己の裾に意識を落とした。回廊の灯が列を成しているのに、柱の根元の闇が呼吸をしていない。静止画のように“都合のよい”闇。
「――粗雑ね」
冷ややかな呟きとともに、彼女は踵を打った。影が輪郭を取り戻し、裾から細い糸が伸びる。自分の足首、自分の手首、自分の心臓の鼓動へと糸を結ぶ“自己錨”。視界がふっと澄み、回廊の奥に立つ“対の影”の足元が空白であることが露になる。
蝶姫の笑い声が、四人のそれぞれの夢に別々の甘さで混ざる。
「いいのよ。気づいても戻れない。あなたたちの望みは、ここにある。痛みのない朝、血の流れない統治、孤独の終わり、悔恨からの解放――ほら、手を伸ばして」
囁きはやさしい。やさしすぎる。まるで傷口に温水を垂らすように、痛みを“意味のあるもの”に変えてくる。
レイジは剣の柄を握り直し、音のない朝食の皿を斜めに撫でた。金属が陶器に当たる高い音が、鳴らない。音を食う夢。
「……これは、お前の形に合わせた檻だ」
言葉にすると、檻がわずかに軋んだ。卓や椅子の脚がほんの少しだけ長く、窓の外の鳥が同じ軌跡で繰り返し羽ばたいている。繰り返し。循環。快適の牢。
セレーナは腕の中の温度に震えながら、指先で小さな印を結んだ。痛みを呼ぶのでも、涙を止めるのでもない。自身の脈を“数える”印。一定の間隔で意識に波を起こし、夢の流体に縞模様を走らせる。
「一、二、三……あなたは、いない。私が、呼んでいるだけ」
リリィナの幻が悲しげに眉を寄せた。次の瞬間、その眉の影が失われ、頬の上を滑る“泣き影”が消えた。
「影が、落ちない」
セレーナの瞳が硬く結ばれ、抱擁の腕が静かにほどける。
カリーネは香袋を絞り、辛香の粉を強引に吸い込んだ。喉が焼け、涙が滲む。祝宴の音ががらがらと崩れ、賛歌の合唱が薄紙のように破れる。
「私は……望む。けれど、代償を知らない平和に、印は押さない」
羽根ペンの先が紙を裂き、紙の繊維から黒い蝶の粉が溢れた。彼女は短剣で卓を叩き割り、幻の板が波紋を立てて退く。
影の王女は自分に縫い付けた錨糸を使い、視線を現実へ引き戻した。彼女の靴裏が確かな岩肌を踏み、裾の端が風に揺れる。回廊は消え、夜空の蝶が戻ってくる。
「戻ったわ。――二人とも、目を開けて」
声が綿を裂き、セレーナとカリーネの焦点が同じ場所に合う。揺らぐ世界の端で、レイジは剣先で“音のない空間”を切り裂いた。薄い膜が破れ、冷たい夜気が一気に流れ込む。
蝶姫は唇に指を触れ、目を細めた。
「気づきが早いのね。じゃあ、もう少し深いところへ行きましょう」
翅がひと打ちされ、鱗粉の密度が増す。甘さが濃く、重く、舌の根にからみつく。遠近感が崩れ、岩棚が波のようにうねり、四人の足元に“やわらかい落差”が生まれる。心地よく落ちたいという欲求が、気持ちの底から泡立つ。
レイジは歯を食いしばり、叫んだ。
「影を目印にしろ! 音を数えろ! 匂いを混ぜろ! ――ここは、進めば沈む床だ!」
それぞれが持つ“現実の糸”を手繰る。影、拍動、辛香、鉄の味。四人の視界に、わずかだが“まともな輪郭”が戻り始めた。
そして――レイジの視界の隅で、確かな違和に気づく。蝶姫が掲げた指先に、月光が当たっているのに、爪先の影だけが逆方向へ流れていた。
「これは…」
小さく呟いた声に、蝶姫の微笑がほんの少しだけ深くなる。甘い罠の底で、かすかな“ほどき目”がきらりと光った。
岩棚に渦巻く甘美な空気のなか、四人は互いの“現実の糸”を必死に手繰っていた。辛香で鼻を灼き、舌で鉄の味を確かめ、脈を数え、影を結びつける。その行為のひとつひとつが、蝶姫の紡いだ夢を少しずつ裂き、世界の輪郭を取り戻していく。
「……見つけた」
レイジが低く呟き、剣先をかすかに震わせた。蝶姫の指先、月光が照らしているのに爪先の影が逆へ流れていた。歪んだ影は幻の証――そこに刃を突き立てれば、仮初めの世界は崩れる。
影の王女はレイジの視線を追い、瞬時に理解した。裾から黒い糸を伸ばし、逆流する影へと縫い付ける。黒と紫が弾け合い、空気が火花を散らすように軋んだ。
「幻と現実の境目を、縫い止めたわ。――今!」
セレーナが杖を振り抜き、炎と氷を同時に放った。幻に包まれていた翅の一部が焼け、凍り付き、鱗粉が雪崩のように剥がれ落ちる。煌めく欠片の中で、蝶姫の実体が露わになる。
「そこか……!」
レイジは全身の力を込めて剣を振り下ろした。
刃は確かな感触を捉えた。蝶姫の肩口が裂け、紫の液が夜気に飛び散る。確かな手応えに、仲間の胸が一瞬だけ熱く震えた。カリーネは短剣を閃かせ、剥き出しになった鱗粉の膜を裂いて追撃する。
蝶姫の唇が微かに開き、甘い吐息が漏れた。苦悶ではない。むしろ悦楽に濡れた吐息。
「……ああ……そう、それよ。その痛み、その怒り。もっと、もっとちょうだい」
四人は息を呑む。確かに一撃を与えたはずなのに、蝶姫は恍惚として身を震わせていた。痛みさえも彼女にとっては“甘露”。斬れば斬るほど悦ぶなら、戦いは泥沼になる。
「……こいつ、戦いを愉しんでいる……!」
セレーナの呟きに、レイジは剣を構え直した。
蝶姫の瞳が深く染まり、空に広がる紋章が再び脈打つ。紫黒の翅が大きく羽ばたき、次なる嵐を呼ぶ準備を始めていた。
裂かれた肩から紫の液を滴らせながら、蝶姫は快楽に濡れた吐息を漏らした。その艶やかな表情は苦痛とは無縁で、むしろ愛を受けた花のように綻んでいた。四人の胸に寒気が走る。――斬撃すら、この女にとっては甘露でしかない。
「もっと……深くまで、堕ちてきて」
彼女の囁きと同時に、夜空の紋章が轟音を立てて羽ばたいた。岩棚を吹き飛ばすほどの風が渦を巻き、鱗粉は吹雪のように散る。だがそれは雪ではない。肌に触れるたび熱が走り、耳の奥で囁きが芽吹く。愛を語る声、慰める声、責める声――四人それぞれの“弱点”を正確に突いてくる声だった。
セレーナの耳元では、リリィナが微笑んでいた。
「姉様、もう戦わないで。わたしが望むのは、あなたの安らぎだけ」
胸の奥がえぐられる。涙がにじみ、杖を握る指が震える。
カリーネの視界には、敵国の重鎮たちが膝をつき、平和を讃える幻が広がる。外交官としての夢が目の前に形を成し、理性を鈍らせた。
影の王女には、長い孤独の回廊が再び現れる。けれど今度は、その先に人影があった。自分と同じ影を纏ったもう一人の女。抱擁を求めるように手を差し伸べてくる――それは存在しないはずの「同族の温もり」。
レイジには、血を流すことも戦うこともない朝の光景が再び訪れた。セレーナもリリィナも笑い、カリーネが微笑み、影の王女すら椅子に腰掛けて談笑している。穏やかな朝。痛みのない世界。
――だが。
レイジは歯を食いしばり、剣を岩に突き立てた。甲高い金属音が幻を切り裂く。幻の朝食の皿はその音を響かせず、ただ揺れて消えた。
「現実を喰う夢なんて……俺たちは望んでいない!」
剣を振り抜いた瞬間、翅の嵐が反発し、岩棚全体が軋んだ。黒と紫の光が稲妻のように走り、四人の体を切り裂くかのように撫でた。甘美と痛苦がない交ぜになった波が襲いかかり、立っているだけで膝が笑う。
「快楽も絶望も、同じ場所にあるのよ。あなたたちを、もっと深くまで導いてあげる」
蝶姫の瞳が妖しく光り、夜空の紋章がさらに広がる。世界が彼女を中心に作り替えられていく。
四人は互いの腰綱を握り直した。視界は歪み、足場は揺れ、心は甘さに沈みかける。それでも――。
「ここで、倒れるわけにはいかない!」
レイジの叫びが夜を震わせ、仲間の心を現実に引き戻した。
だが蝶姫は恍惚と笑い、さらに翅を羽ばたかせた。
幻淫の嵐は、これからが本番だった。
セレーナは胸を押さえた。妹の笑顔が脳裏に蘇る。あの最後の絶叫が幻聴のように重なり、彼女の喉を詰まらせる。目の前の光景が現実か幻か判別できないほど、夜空の紋は妖艶で鮮烈だった。
「……リリィナ……」
声を漏らした瞬間、足元の影が彼女を引き留めた。影の王女の裾から伸びた黒い糸が、セレーナの足首を軽く絡めている。
「立っていろ。視線を逸らせば飲み込まれる」
冷徹な声が、辛うじて現実を繋ぎ止める鎖だった。
岩棚の隅でカリーネは香袋を握りしめ、必死に辛香を焚いた。甘香と混ざり合い、鼻腔に痛みが走る。それでも彼女の頬は熱に赤らみ、理性の境界が削られていくのを感じた。外交の場であれば、こうした空気の乱れさえ武器になっただろう。だが今は命を賭けた戦場。彼女は自分を叱咤するように短剣を抜き、足元の岩を突き刺した。
「ここは……会議室じゃない。私は、戦うんだ……!」
そのとき、紋の中心がゆらぎ、女の姿が浮かび上がった。
透ける翅を背に、肢体はしなやかで月光を映したように輝く。肌は雪より白く、唇は熟れた果実のように赤。紫の瞳は深淵のように広がり、覗き込む者の魂を底からすくい上げて絡め取る。衣は薄絹のように透け、歩みのたびに脚線が艶やかに浮かび上がる。美しく、そして恐ろしい。人の欲望を体現するような存在。
「ふふ……よく来たわね。ここまで生き残るなんて、私を楽しませてくれるわ」
蝶姫の声は風鈴の音色のように柔らかく、それでいて毒のように重い。耳の奥に滴り落ち、心の深層を震わせる。
レイジは一歩前に出た。剣を握る手が震えているのは恐怖ではなく怒りだ。妹を失ったセレーナを守れなかった悔恨が、胸の奥で焼けるように燃えていた。
「お前が……リリィナを奪ったのか」
その声は怒気に満ち、岩棚の空気さえ震わせる。
蝶姫は恍惚とした微笑を浮かべ、唇を舐めた。
「奪った? いいえ。甘美に酔わせて、永遠に羽ばたかせただけよ。あの子は今も、私の夢の中で微笑んでいるわ」
その言葉にセレーナが叫んだ。
「黙れ! リリィナは……私の妹は、あなたの玩具じゃない!」
岩棚の上に甘い風が渦を巻き、蝶姫の翅がゆるやかに羽ばたいた。闇の中に、戦いの幕が上がろうとしていた。
蝶姫が指先で夜を撫でると、翅から零れた微光の粒が雨のように降りそそいだ。鱗粉は空気よりも軽く、しかし水よりも濃く、触れた皮膚の上で静かにほどけて神経に入り込む。息を吸うだけで喉の奥が温み、胸の中央に蜜が注がれたかのような甘い重さが生まれる。音は綿で包まれ、色は艶を増し、輪郭がやさしく丸くなる。世界の解像度が“心地よさ”を基準に組み替えられていく。
最初に足を取られたのはセレーナだった。白い靄の向こうに、あまりにも見慣れた背中があった。肩までの髪が揺れ、くるりと振り向く。笑う、泣く、拗ねる――何度も見てきた表情のすべてを一瞬に載せた顔。
「……リリィナ」
呼べば、彼女は駆け寄ってきた。温度がある。重さがある。腕の中の感触は記憶と寸分違わず、胸の奥で凍っていた場所にじんわりと熱が沁みていく。幻だと分かっていながら、抗えない。涙があふれ、握る杖が震える。
「姉様、もう大丈夫。こっちにおいで」
蝶姫の声色でありながら、響きは妹のそれと同じ。セレーナの足元の岩が草に変わり、花が開き、風が頬を撫でる。痛みが遠のく。思考の輪郭から、尖りが削れていく。
カリーネの前には、玉座の間が広がっていた。磨かれた床に、各国の紋章旗がずらりと並ぶ。対立してきたはずの顔ぶれが微笑み、彼女の手に羽根ペンを渡す。
「おめでとう。あなたの文案で世界はひとつになった」
喝采の音が波のように押し寄せ、胸骨をくすぐった。どこにも血の匂いはない。争いは終わる。……ここでなら、誰も傷つかない――。指先が署名へと落ちかける。辛香の袋は腰の紐にぶら下がったまま、触れる理由を失いかけていた。
影の王女には、冷えた回廊が現れた。遠い昔、彼女がただ一人で往復した長い廊下。今回は違う。行く手に、対の影が揺れている。自分の歩幅に合わせて寄り添う、温かい気配。孤独という硬質な殻に、小さな亀裂が走る。
「ずっと一人でいたのね。もういいの。あなたは理解される」
蝶姫の囁きが、長い年月で硬化した傷にそっと指をあてる。痛みではなく、ほどける感覚。影の王女の足取りが半歩、柔らいだ。
レイジは、薄曇りの朝を見た。小麦色の光が差し、木卓には湯気の立つ朝食。扉が開いてリリィナが顔を出す。「兄様、起きて」と笑う。ベンチにはセレーナ、窓辺にはカリーネ、柱の陰には気配だけの影の王女。戦いの痕はなく、いつも通りが永遠に続くと信じられる朝。
――これが、もし選べるなら。
胸の奥で誰かが言った。剣を置けば、守れなかった悔恨も、奪われた痛みも、すべて静かに眠るのだと。
「違う」
レイジは頬の内側を強く噛んだ。鉄の味が舌に滲み、景色の彩度がわずかに落ちる。瞳の端で、あり得ないものが見えた。朝の光が差しているのに、卓上の器に影が落ちていない。影が“甘さ”に溶けている――。
「戻れ!」
短く吠える声が、綿に包まれた世界を少しだけ破った。セレーナの肩が微かに揺れ、目の奥に冷たい光が戻りかける。だがリリィナの幻は、もっとやさしく抱き寄せてくる。「大丈夫、痛くないよ」と。
カリーネの目の前では祝宴が高潮に達し、乾杯の杯が並ぶ。彼女の名前を讃える声に胸が浮く。右手が羽根ペンへ引かれ――ふと、軸に影がないことに気づいた。光源が複数あるのに、どの方向にも影が落ちない。
「おかしい……」
唇がその言葉を形作った途端、拍手の音が布の裂ける音に変わった。玉座の間の壁紙がゆっくりと剥がれ、下から黒い蝶の紋がのぞく。
影の王女は己の裾に意識を落とした。回廊の灯が列を成しているのに、柱の根元の闇が呼吸をしていない。静止画のように“都合のよい”闇。
「――粗雑ね」
冷ややかな呟きとともに、彼女は踵を打った。影が輪郭を取り戻し、裾から細い糸が伸びる。自分の足首、自分の手首、自分の心臓の鼓動へと糸を結ぶ“自己錨”。視界がふっと澄み、回廊の奥に立つ“対の影”の足元が空白であることが露になる。
蝶姫の笑い声が、四人のそれぞれの夢に別々の甘さで混ざる。
「いいのよ。気づいても戻れない。あなたたちの望みは、ここにある。痛みのない朝、血の流れない統治、孤独の終わり、悔恨からの解放――ほら、手を伸ばして」
囁きはやさしい。やさしすぎる。まるで傷口に温水を垂らすように、痛みを“意味のあるもの”に変えてくる。
レイジは剣の柄を握り直し、音のない朝食の皿を斜めに撫でた。金属が陶器に当たる高い音が、鳴らない。音を食う夢。
「……これは、お前の形に合わせた檻だ」
言葉にすると、檻がわずかに軋んだ。卓や椅子の脚がほんの少しだけ長く、窓の外の鳥が同じ軌跡で繰り返し羽ばたいている。繰り返し。循環。快適の牢。
セレーナは腕の中の温度に震えながら、指先で小さな印を結んだ。痛みを呼ぶのでも、涙を止めるのでもない。自身の脈を“数える”印。一定の間隔で意識に波を起こし、夢の流体に縞模様を走らせる。
「一、二、三……あなたは、いない。私が、呼んでいるだけ」
リリィナの幻が悲しげに眉を寄せた。次の瞬間、その眉の影が失われ、頬の上を滑る“泣き影”が消えた。
「影が、落ちない」
セレーナの瞳が硬く結ばれ、抱擁の腕が静かにほどける。
カリーネは香袋を絞り、辛香の粉を強引に吸い込んだ。喉が焼け、涙が滲む。祝宴の音ががらがらと崩れ、賛歌の合唱が薄紙のように破れる。
「私は……望む。けれど、代償を知らない平和に、印は押さない」
羽根ペンの先が紙を裂き、紙の繊維から黒い蝶の粉が溢れた。彼女は短剣で卓を叩き割り、幻の板が波紋を立てて退く。
影の王女は自分に縫い付けた錨糸を使い、視線を現実へ引き戻した。彼女の靴裏が確かな岩肌を踏み、裾の端が風に揺れる。回廊は消え、夜空の蝶が戻ってくる。
「戻ったわ。――二人とも、目を開けて」
声が綿を裂き、セレーナとカリーネの焦点が同じ場所に合う。揺らぐ世界の端で、レイジは剣先で“音のない空間”を切り裂いた。薄い膜が破れ、冷たい夜気が一気に流れ込む。
蝶姫は唇に指を触れ、目を細めた。
「気づきが早いのね。じゃあ、もう少し深いところへ行きましょう」
翅がひと打ちされ、鱗粉の密度が増す。甘さが濃く、重く、舌の根にからみつく。遠近感が崩れ、岩棚が波のようにうねり、四人の足元に“やわらかい落差”が生まれる。心地よく落ちたいという欲求が、気持ちの底から泡立つ。
レイジは歯を食いしばり、叫んだ。
「影を目印にしろ! 音を数えろ! 匂いを混ぜろ! ――ここは、進めば沈む床だ!」
それぞれが持つ“現実の糸”を手繰る。影、拍動、辛香、鉄の味。四人の視界に、わずかだが“まともな輪郭”が戻り始めた。
そして――レイジの視界の隅で、確かな違和に気づく。蝶姫が掲げた指先に、月光が当たっているのに、爪先の影だけが逆方向へ流れていた。
「これは…」
小さく呟いた声に、蝶姫の微笑がほんの少しだけ深くなる。甘い罠の底で、かすかな“ほどき目”がきらりと光った。
岩棚に渦巻く甘美な空気のなか、四人は互いの“現実の糸”を必死に手繰っていた。辛香で鼻を灼き、舌で鉄の味を確かめ、脈を数え、影を結びつける。その行為のひとつひとつが、蝶姫の紡いだ夢を少しずつ裂き、世界の輪郭を取り戻していく。
「……見つけた」
レイジが低く呟き、剣先をかすかに震わせた。蝶姫の指先、月光が照らしているのに爪先の影が逆へ流れていた。歪んだ影は幻の証――そこに刃を突き立てれば、仮初めの世界は崩れる。
影の王女はレイジの視線を追い、瞬時に理解した。裾から黒い糸を伸ばし、逆流する影へと縫い付ける。黒と紫が弾け合い、空気が火花を散らすように軋んだ。
「幻と現実の境目を、縫い止めたわ。――今!」
セレーナが杖を振り抜き、炎と氷を同時に放った。幻に包まれていた翅の一部が焼け、凍り付き、鱗粉が雪崩のように剥がれ落ちる。煌めく欠片の中で、蝶姫の実体が露わになる。
「そこか……!」
レイジは全身の力を込めて剣を振り下ろした。
刃は確かな感触を捉えた。蝶姫の肩口が裂け、紫の液が夜気に飛び散る。確かな手応えに、仲間の胸が一瞬だけ熱く震えた。カリーネは短剣を閃かせ、剥き出しになった鱗粉の膜を裂いて追撃する。
蝶姫の唇が微かに開き、甘い吐息が漏れた。苦悶ではない。むしろ悦楽に濡れた吐息。
「……ああ……そう、それよ。その痛み、その怒り。もっと、もっとちょうだい」
四人は息を呑む。確かに一撃を与えたはずなのに、蝶姫は恍惚として身を震わせていた。痛みさえも彼女にとっては“甘露”。斬れば斬るほど悦ぶなら、戦いは泥沼になる。
「……こいつ、戦いを愉しんでいる……!」
セレーナの呟きに、レイジは剣を構え直した。
蝶姫の瞳が深く染まり、空に広がる紋章が再び脈打つ。紫黒の翅が大きく羽ばたき、次なる嵐を呼ぶ準備を始めていた。
裂かれた肩から紫の液を滴らせながら、蝶姫は快楽に濡れた吐息を漏らした。その艶やかな表情は苦痛とは無縁で、むしろ愛を受けた花のように綻んでいた。四人の胸に寒気が走る。――斬撃すら、この女にとっては甘露でしかない。
「もっと……深くまで、堕ちてきて」
彼女の囁きと同時に、夜空の紋章が轟音を立てて羽ばたいた。岩棚を吹き飛ばすほどの風が渦を巻き、鱗粉は吹雪のように散る。だがそれは雪ではない。肌に触れるたび熱が走り、耳の奥で囁きが芽吹く。愛を語る声、慰める声、責める声――四人それぞれの“弱点”を正確に突いてくる声だった。
セレーナの耳元では、リリィナが微笑んでいた。
「姉様、もう戦わないで。わたしが望むのは、あなたの安らぎだけ」
胸の奥がえぐられる。涙がにじみ、杖を握る指が震える。
カリーネの視界には、敵国の重鎮たちが膝をつき、平和を讃える幻が広がる。外交官としての夢が目の前に形を成し、理性を鈍らせた。
影の王女には、長い孤独の回廊が再び現れる。けれど今度は、その先に人影があった。自分と同じ影を纏ったもう一人の女。抱擁を求めるように手を差し伸べてくる――それは存在しないはずの「同族の温もり」。
レイジには、血を流すことも戦うこともない朝の光景が再び訪れた。セレーナもリリィナも笑い、カリーネが微笑み、影の王女すら椅子に腰掛けて談笑している。穏やかな朝。痛みのない世界。
――だが。
レイジは歯を食いしばり、剣を岩に突き立てた。甲高い金属音が幻を切り裂く。幻の朝食の皿はその音を響かせず、ただ揺れて消えた。
「現実を喰う夢なんて……俺たちは望んでいない!」
剣を振り抜いた瞬間、翅の嵐が反発し、岩棚全体が軋んだ。黒と紫の光が稲妻のように走り、四人の体を切り裂くかのように撫でた。甘美と痛苦がない交ぜになった波が襲いかかり、立っているだけで膝が笑う。
「快楽も絶望も、同じ場所にあるのよ。あなたたちを、もっと深くまで導いてあげる」
蝶姫の瞳が妖しく光り、夜空の紋章がさらに広がる。世界が彼女を中心に作り替えられていく。
四人は互いの腰綱を握り直した。視界は歪み、足場は揺れ、心は甘さに沈みかける。それでも――。
「ここで、倒れるわけにはいかない!」
レイジの叫びが夜を震わせ、仲間の心を現実に引き戻した。
だが蝶姫は恍惚と笑い、さらに翅を羽ばたかせた。
幻淫の嵐は、これからが本番だった。
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