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第59話 ー見えざる王の腕ー
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神殿の扉を越えた先は、まるで世界そのものが変質したかのようだった。空気は重く、湿った布に包まれるようにまとわりつく。レイジたちが吐いた息はすぐ霧と溶け合い、誰の呼吸かすら分からなくなる。広間の奥へ進むたびに、音が失われていった。自分の鼓動がやけに大きく、耳の奥で鳴り響いているのに、それ以外の音が存在しない。
壁に並ぶ像たちは、ひとつ残らず抱擁の姿を取っていた。男と女、女と女、男と男……どんな形であれ互いに絡み合い、その中心に冠を戴く影が刻まれている。遠目に見たときはただの彫刻にすぎなかったはずだが、近づけばその目は湿り気を帯びた光を放ち、瞳孔が動いたように錯覚させる。
「……視られている」
セレーナの声は震えていた。
「ただの像じゃない……彼らは、今も“抱かれている”のよ……」
レイジは剣を握りしめ、歯を食いしばった。心臓がひときわ強く打ち、全身に血が巡る。だが同時に、何かがその鼓動を掴み、強引に速めたり緩めたりしているような感覚があった。自分の心臓なのに、自分のものではない――そう思った瞬間、背筋を冷たい爪でなぞられたような戦慄が走った。
影の女王は無言のまま歩を進めていた。冷酷な眼差しを保とうとするその横顔も、わずかに蒼ざめている。彼女は壁に触れ、指先をそっと撫でた。次の瞬間、石の表面が柔らかく沈み込み、肉のような温もりが返ってきた。慌てて手を離すと、そこには再び冷たい石の感触しか残っていなかった。
「……神殿そのものが……生きている……」
女王の声は掠れていた。
三人の影は壁に吸い寄せられるように伸び、絡み合った像たちの足元に溶けていく。歩みを止めれば、その影に抱かれ、二度と戻れなくなるのではないかという錯覚が膨れ上がった。
「進むしか……ない……」
レイジが低く吐き出すように言った。声に力を込めようとしたが、喉が勝手に締め付けられ、掠れた音しか出なかった。
セレーナは眼鏡を抱き締め、涙を堪えるように目を閉じた。だが閉じた瞼の裏にも、無数の腕と瞳が現れた。どれもが「こちらへ」と手を伸ばし、抱きすくめようとする。逃れられない幻覚に、彼女は恐怖の声を押し殺した。
広間を抜けるごとに空気はさらに濃密になり、肺の奥に冷たい液体を流し込まれるような感覚に襲われる。息を吸うたびに胸の内側が重くなり、吐き出そうとしても空気は出ていかない。まるで神殿自体が彼らを「抱いて」呼吸を支配しているのだ。
壁に並ぶ像の数は増え、やがて通路全体が人の抱擁の群れに埋め尽くされていった。笑顔で抱き合う者もいれば、泣き叫びながらも逃れられぬ者もいる。そのどれもが石像のはずなのに、耳を澄ませば微かな呻き声やすすり泣きが混じっていた。
「やめろ……」
レイジは耳を塞ごうとしたが、声は頭の中に直接流れ込んでくる。
「助けて」「苦しい」「抱いて」……無数の声が折り重なり、誰の声かも判別できない。
影の女王が膝をつき、床に片手を突いた。普段なら決して弱さを見せぬ彼女の唇が、はっきりと震えている。
「……これが……“神をも抱いた王”の……領域……。まだ姿を見せてもいないのに……」
そのとき、神殿全体が低く脈打った。壁の彫刻たちが一斉に口を開き、吐息のような霧を噴き出す。その霧が三人の体を絡め取り、冷たい腕となって背中に回り込む。
レイジは思わず叫んだ。
「……来るなッ!」
剣を振るうが、斬ったはずの霧は形を失わず、なお彼を抱こうと迫ってくる。
セレーナは符を構えたが、光は生まれない。指先が凍りつき、符がただの紙切れに変わったようだった。
「魔力が……奪われてる……? 違う……“抱かれて”いる……」
神殿は確かに生きていた。
そしてその抱擁は、逃れることのできない支配として三人を絡め取りつつあった。
霧が濃くなり、三人の視界はほとんど奪われていた。背後に仲間の気配を感じているはずなのに、振り返っても人影は見えない。代わりに、幾千もの腕と瞳が霧の奥で蠢いているのが見えた。
「……セレーナ? 影の女王……?」
レイジが呼びかけた声は霧に呑まれ、誰にも届かなかった。次の瞬間、彼の目の前に現れたのは、死んだはずの少女――リリィナだった。
「お兄ちゃん……どうして助けてくれなかったの?」
声は確かにリリィナのものだった。赤い瞳に涙を浮かべ、笑顔を作ろうとしながらも唇は震えている。
レイジは一歩後ずさった。「……違う……お前は……」
だがその手は温かく、腕が伸びて抱き締めようとする。胸が締めつけられ、理性が削られていく。心臓の鼓動が勝手に早まり、剣を握る手の力が抜け落ちそうになった。
一方、セレーナの前に現れたのはカリーネだった。
彼女は眼鏡をかけたまま穏やかな笑みを浮かべ、両手を広げていた。
「セレーナ……こっちへいらっしゃい。あなたはもう戦わなくていい。私と一緒に安らぎに来なさい」
「ちがう……そんなはずない……!」
セレーナは涙を浮かべて首を振った。カリーネの姿はあまりにも鮮明で、遺した眼鏡の冷たい感触と重なり、心を引き裂いた。
影の女王は霧の奥で足を止めた。彼女の前に現れたのは、誰よりも憎んでいたはずの存在――己の父だった。王位を奪い、彼女を影に追いやった男。その男が、今は優しい笑みを浮かべ、腕を広げている。
「戻ってこい……お前の居場所はここにある」
影の女王は目を見開いた。憎悪と恐怖が入り混じり、足が動かない。彼女の胸に重く沈んでいた孤独が、甘美な声に溶かされていく。
三人は同時に気づいた。この幻覚は単なる映像ではなく、魂の奥底にある「抱かれたい願望」を抉り出しているのだと。愛でも安らぎでも、憎悪すらも、抱擁の形に変えて絡め取る。それが「神をも抱いた王」の本質。
レイジは必死に頭を振った。リリィナの幻影が抱きしめようと近づき、その腕が首に回る。温かいはずの抱擁が、次の瞬間には冷たい蛇のように絡みつき、息を奪っていった。
「……く、そっ……離れろ……!」
だが幻影は笑顔を浮かべたまま、耳元で囁いた。
「大丈夫。もう戦わなくていいの。抱かれて眠って……」
セレーナは符を掲げようとしたが、腕が震えて上がらない。目の前のカリーネはあまりにも懐かしく、温かく、真実味に満ちていた。
「セレーナ……誓いなんてやめなさい。痛みも恐怖も、全部私が抱いてあげる」
涙が零れ落ち、符が床に滑り落ちた。
影の女王もまた、自らを追放した父の幻影に絡め取られていた。憎悪のはずが、幼い頃に欲してやまなかった父の温もりが蘇る。
「戻ってこい……お前は孤独ではない」
「……違う……私は……!」
声は震え、冷酷さは失われていた。
神殿全体が低く唸り、無数の囁きが重なって広間を満たした。
《抱カレヨ……裸ノ誓約ノ者タチ……神ヲ抱イタ王ノ腕ノ中デ……永遠ニ眠レ……》
三人の体は同時に沈み込み、幻影の腕に縛られていった。剣も符も闇糸も、力を失っていく。抗う意思すら、甘美な囁きの中で削られていった。
幻影の腕は甘美で、同時に冷たい。
レイジを抱き締めるリリィナの影は、笑顔のまま首を絞めるように腕を強く絡めてきた。かつて愛した妹の姿をした幻は、耳元で囁き続ける。
「もう戦わなくていい。あなたの痛みは全部、私が受け止める。だから眠って……」
温かくも苦しい抱擁に、理性と心臓が引き裂かれる。レイジは喉を鳴らし、叫びたくても声にならなかった。
セレーナもまた、目の前のカリーネの幻影に引きずられていた。
「もう泣かなくていいの。誓いなんて捨てなさい。あなたは疲れたでしょう?」
カリーネの影は優しく微笑み、涙を拭う仕草をした。眼鏡の奥の瞳は、あの日と変わらぬ誠実さを宿していた。セレーナは頭では幻覚だと分かっていた。だが心が震え、膝が崩れ落ちる。胸に抱き締めていた眼鏡が冷たく、かえって現実を曖昧にした。
影の女王は、父の幻影に見下ろされていた。
「お前は独りではない。戻ってこい。お前の力は、王家に必要だ」
幼い頃に渇望してやまなかった言葉。憎悪のはずの存在が、今は唯一の救いとして手を差し伸べている。影の女王は冷酷さを保とうとしたが、目頭が熱くなり、心の奥に眠っていた幼子の自分が泣き叫んだ。
「……違う……私は……そんなものに……」
声は震え、言葉は途切れ、幻影の腕に縛られる。
神殿全体が共鳴するように脈動した。
壁の彫像たちが一斉に口を開け、無数の囁きが重なって広間を満たした。
《抱カレヨ……抱カレヨ……裸ノ誓約ノ者タチ……》
低く甘い声、高く誘う声、幼い声、母の声、恋人の声――あらゆる声が三人の耳を塞ぎ、頭の中に押し寄せた。
レイジは共鳴剣を振ろうとしたが、腕は動かない。剣の重さが十倍にも百倍にも増したように感じる。
「……ちくしょう……!」
喉から漏れたのは、力なき呻きだけだった。
セレーナの手から符が滑り落ちた。拾おうとするが、指先が動かない。代わりに幻影のカリーネが彼女の手を取り、胸に押し当てる。
「もう戦わないで……ここで抱かれて眠れば、痛みも悲しみも消えるわ」
セレーナの瞳に涙が溢れ、心が崩れ落ちていく。
影の女王は必死に抗おうとした。
「私は……お前に戻るつもりなど……ない……!」
だが父の幻影は微笑み、彼女の肩を抱く。温もりが背に広がり、幼い頃に一度も得られなかった安らぎがそこにあった。彼女の視界が滲み、足元が揺らぐ。
神殿の脈動はさらに強まり、床が鼓動するかのように波打った。影が三人の足首に絡み、腰へ、胸へと這い上がってくる。抵抗しようとすればするほど絡みは強まり、まるで「逃れられぬ抱擁」の証明のようだった。
《神ヲ抱イタ王ノ腕ノ中デ……永遠ニ眠レ……》
その言葉が広間全体に響いた瞬間、三人の意識は深い闇に沈み込みかけた。
広間を満たす囁きは、やがて声の奔流となった。低く甘やかな声、高く誘う声、母のような声、恋人のような声――あらゆる声が折り重なり、三人の心を圧し潰していく。
レイジの膝が折れ、床に崩れ落ちた。共鳴剣は指の隙間から滑り落ち、乾いた音を立てて転がる。拾い上げたいのに、指は震えて動かなかった。心臓の鼓動はもはや自分のものではなく、神殿と同じリズムで脈打っている。
「……俺の……心臓が……奪われて……」
呻きは霧に呑まれ、返事を返すのは幻影のリリィナだけだった。彼女は微笑み、兄を抱き締める。温かいのに、冷たい。愛おしいのに、息を奪う。矛盾の抱擁が、理性を溶かしていく。
セレーナもまた、カリーネの幻影に抱き込まれていた。
「もう戦わなくていい……ここで眠りなさい。私がずっと抱いてあげる」
「やめて……あなたは……!」
涙が頬を伝い、胸に抱いた眼鏡が冷たく光る。その感触だけが、現実とのかろうじた繋がりだった。だが幻影は微笑み、彼女の耳に甘く囁き続ける。セレーナは符を拾おうと手を伸ばしたが、指先は幻影の腕に捕らえられ、震えたまま動かなくなった。
影の女王は父の幻影に背を抱かれ、冷酷さを保とうとしても声が震えた。
「戻ってこい……お前の居場所はここにある」
その言葉は、幼い頃に一度でも欲しかったもの。心の奥底に眠っていた孤独が揺さぶられ、視界が涙で滲む。彼女は必死に抗った。
「私は……もう……」
しかし抱擁は強まり、影すら霧に吸い込まれていった。
その瞬間、神殿全体が脈動し、無数の腕が壁から突き出した。石でできているはずの手が肉のように柔らかく、冷たい。三人の体に絡みつき、首に、胸に、足に回り込んでくる。抵抗すればするほど深く沈み、抱き込まれていく。
《……裸ノ誓約ノ者タチヨ……神ヲ抱イタ王ノ腕ノ中デ……永遠ニ眠レ……》
声は低くも高くもなく、ただ全てを覆う響きだった。耳ではなく、心臓そのものに直接届く声。三人の意識は闇へと引きずり込まれ、抵抗する力を奪われていく。
レイジの瞳がかすみ、セレーナの手から眼鏡が滑り落ち、影の女王の闇糸は霧に溶けた。力は失われ、誓約は霞み、ただ「抱かれる」ことだけが現実として残された。
そのとき――。
広間の奥で、巨大な扉が軋む音を立てた。
ぎぃ……ぎぃ……と、古びた鉄が擦れるような不快な音。霧を揺らし、腕を振るわせ、三人の心臓をさらに締め上げる。
扉はわずかに開き、その隙間から吐息のような気配が漏れ出した。冷たく、重く、甘い匂いを孕んだ気配。それだけで、三人は胸を押さえて呻き声を上げた。
《……我ハ原初ノ娼王……神ヲモ抱イタ王……》
その名乗りだけで広間全体が震え、壁の像たちが一斉に笑った。石の歯が鳴り、無数の腕が動き、霧の中に異様な熱が生まれる。
まだ姿は見えない。
だが確かに、そこにいる。
三人は抱擁に縛られたまま、奥の扉を凝視するしかなかった。
恐怖は極まっていた。
――そして、決して見てはならぬものが、その扉の奥で待っているのだと、誰もが理解していた。
壁に並ぶ像たちは、ひとつ残らず抱擁の姿を取っていた。男と女、女と女、男と男……どんな形であれ互いに絡み合い、その中心に冠を戴く影が刻まれている。遠目に見たときはただの彫刻にすぎなかったはずだが、近づけばその目は湿り気を帯びた光を放ち、瞳孔が動いたように錯覚させる。
「……視られている」
セレーナの声は震えていた。
「ただの像じゃない……彼らは、今も“抱かれている”のよ……」
レイジは剣を握りしめ、歯を食いしばった。心臓がひときわ強く打ち、全身に血が巡る。だが同時に、何かがその鼓動を掴み、強引に速めたり緩めたりしているような感覚があった。自分の心臓なのに、自分のものではない――そう思った瞬間、背筋を冷たい爪でなぞられたような戦慄が走った。
影の女王は無言のまま歩を進めていた。冷酷な眼差しを保とうとするその横顔も、わずかに蒼ざめている。彼女は壁に触れ、指先をそっと撫でた。次の瞬間、石の表面が柔らかく沈み込み、肉のような温もりが返ってきた。慌てて手を離すと、そこには再び冷たい石の感触しか残っていなかった。
「……神殿そのものが……生きている……」
女王の声は掠れていた。
三人の影は壁に吸い寄せられるように伸び、絡み合った像たちの足元に溶けていく。歩みを止めれば、その影に抱かれ、二度と戻れなくなるのではないかという錯覚が膨れ上がった。
「進むしか……ない……」
レイジが低く吐き出すように言った。声に力を込めようとしたが、喉が勝手に締め付けられ、掠れた音しか出なかった。
セレーナは眼鏡を抱き締め、涙を堪えるように目を閉じた。だが閉じた瞼の裏にも、無数の腕と瞳が現れた。どれもが「こちらへ」と手を伸ばし、抱きすくめようとする。逃れられない幻覚に、彼女は恐怖の声を押し殺した。
広間を抜けるごとに空気はさらに濃密になり、肺の奥に冷たい液体を流し込まれるような感覚に襲われる。息を吸うたびに胸の内側が重くなり、吐き出そうとしても空気は出ていかない。まるで神殿自体が彼らを「抱いて」呼吸を支配しているのだ。
壁に並ぶ像の数は増え、やがて通路全体が人の抱擁の群れに埋め尽くされていった。笑顔で抱き合う者もいれば、泣き叫びながらも逃れられぬ者もいる。そのどれもが石像のはずなのに、耳を澄ませば微かな呻き声やすすり泣きが混じっていた。
「やめろ……」
レイジは耳を塞ごうとしたが、声は頭の中に直接流れ込んでくる。
「助けて」「苦しい」「抱いて」……無数の声が折り重なり、誰の声かも判別できない。
影の女王が膝をつき、床に片手を突いた。普段なら決して弱さを見せぬ彼女の唇が、はっきりと震えている。
「……これが……“神をも抱いた王”の……領域……。まだ姿を見せてもいないのに……」
そのとき、神殿全体が低く脈打った。壁の彫刻たちが一斉に口を開き、吐息のような霧を噴き出す。その霧が三人の体を絡め取り、冷たい腕となって背中に回り込む。
レイジは思わず叫んだ。
「……来るなッ!」
剣を振るうが、斬ったはずの霧は形を失わず、なお彼を抱こうと迫ってくる。
セレーナは符を構えたが、光は生まれない。指先が凍りつき、符がただの紙切れに変わったようだった。
「魔力が……奪われてる……? 違う……“抱かれて”いる……」
神殿は確かに生きていた。
そしてその抱擁は、逃れることのできない支配として三人を絡め取りつつあった。
霧が濃くなり、三人の視界はほとんど奪われていた。背後に仲間の気配を感じているはずなのに、振り返っても人影は見えない。代わりに、幾千もの腕と瞳が霧の奥で蠢いているのが見えた。
「……セレーナ? 影の女王……?」
レイジが呼びかけた声は霧に呑まれ、誰にも届かなかった。次の瞬間、彼の目の前に現れたのは、死んだはずの少女――リリィナだった。
「お兄ちゃん……どうして助けてくれなかったの?」
声は確かにリリィナのものだった。赤い瞳に涙を浮かべ、笑顔を作ろうとしながらも唇は震えている。
レイジは一歩後ずさった。「……違う……お前は……」
だがその手は温かく、腕が伸びて抱き締めようとする。胸が締めつけられ、理性が削られていく。心臓の鼓動が勝手に早まり、剣を握る手の力が抜け落ちそうになった。
一方、セレーナの前に現れたのはカリーネだった。
彼女は眼鏡をかけたまま穏やかな笑みを浮かべ、両手を広げていた。
「セレーナ……こっちへいらっしゃい。あなたはもう戦わなくていい。私と一緒に安らぎに来なさい」
「ちがう……そんなはずない……!」
セレーナは涙を浮かべて首を振った。カリーネの姿はあまりにも鮮明で、遺した眼鏡の冷たい感触と重なり、心を引き裂いた。
影の女王は霧の奥で足を止めた。彼女の前に現れたのは、誰よりも憎んでいたはずの存在――己の父だった。王位を奪い、彼女を影に追いやった男。その男が、今は優しい笑みを浮かべ、腕を広げている。
「戻ってこい……お前の居場所はここにある」
影の女王は目を見開いた。憎悪と恐怖が入り混じり、足が動かない。彼女の胸に重く沈んでいた孤独が、甘美な声に溶かされていく。
三人は同時に気づいた。この幻覚は単なる映像ではなく、魂の奥底にある「抱かれたい願望」を抉り出しているのだと。愛でも安らぎでも、憎悪すらも、抱擁の形に変えて絡め取る。それが「神をも抱いた王」の本質。
レイジは必死に頭を振った。リリィナの幻影が抱きしめようと近づき、その腕が首に回る。温かいはずの抱擁が、次の瞬間には冷たい蛇のように絡みつき、息を奪っていった。
「……く、そっ……離れろ……!」
だが幻影は笑顔を浮かべたまま、耳元で囁いた。
「大丈夫。もう戦わなくていいの。抱かれて眠って……」
セレーナは符を掲げようとしたが、腕が震えて上がらない。目の前のカリーネはあまりにも懐かしく、温かく、真実味に満ちていた。
「セレーナ……誓いなんてやめなさい。痛みも恐怖も、全部私が抱いてあげる」
涙が零れ落ち、符が床に滑り落ちた。
影の女王もまた、自らを追放した父の幻影に絡め取られていた。憎悪のはずが、幼い頃に欲してやまなかった父の温もりが蘇る。
「戻ってこい……お前は孤独ではない」
「……違う……私は……!」
声は震え、冷酷さは失われていた。
神殿全体が低く唸り、無数の囁きが重なって広間を満たした。
《抱カレヨ……裸ノ誓約ノ者タチ……神ヲ抱イタ王ノ腕ノ中デ……永遠ニ眠レ……》
三人の体は同時に沈み込み、幻影の腕に縛られていった。剣も符も闇糸も、力を失っていく。抗う意思すら、甘美な囁きの中で削られていった。
幻影の腕は甘美で、同時に冷たい。
レイジを抱き締めるリリィナの影は、笑顔のまま首を絞めるように腕を強く絡めてきた。かつて愛した妹の姿をした幻は、耳元で囁き続ける。
「もう戦わなくていい。あなたの痛みは全部、私が受け止める。だから眠って……」
温かくも苦しい抱擁に、理性と心臓が引き裂かれる。レイジは喉を鳴らし、叫びたくても声にならなかった。
セレーナもまた、目の前のカリーネの幻影に引きずられていた。
「もう泣かなくていいの。誓いなんて捨てなさい。あなたは疲れたでしょう?」
カリーネの影は優しく微笑み、涙を拭う仕草をした。眼鏡の奥の瞳は、あの日と変わらぬ誠実さを宿していた。セレーナは頭では幻覚だと分かっていた。だが心が震え、膝が崩れ落ちる。胸に抱き締めていた眼鏡が冷たく、かえって現実を曖昧にした。
影の女王は、父の幻影に見下ろされていた。
「お前は独りではない。戻ってこい。お前の力は、王家に必要だ」
幼い頃に渇望してやまなかった言葉。憎悪のはずの存在が、今は唯一の救いとして手を差し伸べている。影の女王は冷酷さを保とうとしたが、目頭が熱くなり、心の奥に眠っていた幼子の自分が泣き叫んだ。
「……違う……私は……そんなものに……」
声は震え、言葉は途切れ、幻影の腕に縛られる。
神殿全体が共鳴するように脈動した。
壁の彫像たちが一斉に口を開け、無数の囁きが重なって広間を満たした。
《抱カレヨ……抱カレヨ……裸ノ誓約ノ者タチ……》
低く甘い声、高く誘う声、幼い声、母の声、恋人の声――あらゆる声が三人の耳を塞ぎ、頭の中に押し寄せた。
レイジは共鳴剣を振ろうとしたが、腕は動かない。剣の重さが十倍にも百倍にも増したように感じる。
「……ちくしょう……!」
喉から漏れたのは、力なき呻きだけだった。
セレーナの手から符が滑り落ちた。拾おうとするが、指先が動かない。代わりに幻影のカリーネが彼女の手を取り、胸に押し当てる。
「もう戦わないで……ここで抱かれて眠れば、痛みも悲しみも消えるわ」
セレーナの瞳に涙が溢れ、心が崩れ落ちていく。
影の女王は必死に抗おうとした。
「私は……お前に戻るつもりなど……ない……!」
だが父の幻影は微笑み、彼女の肩を抱く。温もりが背に広がり、幼い頃に一度も得られなかった安らぎがそこにあった。彼女の視界が滲み、足元が揺らぐ。
神殿の脈動はさらに強まり、床が鼓動するかのように波打った。影が三人の足首に絡み、腰へ、胸へと這い上がってくる。抵抗しようとすればするほど絡みは強まり、まるで「逃れられぬ抱擁」の証明のようだった。
《神ヲ抱イタ王ノ腕ノ中デ……永遠ニ眠レ……》
その言葉が広間全体に響いた瞬間、三人の意識は深い闇に沈み込みかけた。
広間を満たす囁きは、やがて声の奔流となった。低く甘やかな声、高く誘う声、母のような声、恋人のような声――あらゆる声が折り重なり、三人の心を圧し潰していく。
レイジの膝が折れ、床に崩れ落ちた。共鳴剣は指の隙間から滑り落ち、乾いた音を立てて転がる。拾い上げたいのに、指は震えて動かなかった。心臓の鼓動はもはや自分のものではなく、神殿と同じリズムで脈打っている。
「……俺の……心臓が……奪われて……」
呻きは霧に呑まれ、返事を返すのは幻影のリリィナだけだった。彼女は微笑み、兄を抱き締める。温かいのに、冷たい。愛おしいのに、息を奪う。矛盾の抱擁が、理性を溶かしていく。
セレーナもまた、カリーネの幻影に抱き込まれていた。
「もう戦わなくていい……ここで眠りなさい。私がずっと抱いてあげる」
「やめて……あなたは……!」
涙が頬を伝い、胸に抱いた眼鏡が冷たく光る。その感触だけが、現実とのかろうじた繋がりだった。だが幻影は微笑み、彼女の耳に甘く囁き続ける。セレーナは符を拾おうと手を伸ばしたが、指先は幻影の腕に捕らえられ、震えたまま動かなくなった。
影の女王は父の幻影に背を抱かれ、冷酷さを保とうとしても声が震えた。
「戻ってこい……お前の居場所はここにある」
その言葉は、幼い頃に一度でも欲しかったもの。心の奥底に眠っていた孤独が揺さぶられ、視界が涙で滲む。彼女は必死に抗った。
「私は……もう……」
しかし抱擁は強まり、影すら霧に吸い込まれていった。
その瞬間、神殿全体が脈動し、無数の腕が壁から突き出した。石でできているはずの手が肉のように柔らかく、冷たい。三人の体に絡みつき、首に、胸に、足に回り込んでくる。抵抗すればするほど深く沈み、抱き込まれていく。
《……裸ノ誓約ノ者タチヨ……神ヲ抱イタ王ノ腕ノ中デ……永遠ニ眠レ……》
声は低くも高くもなく、ただ全てを覆う響きだった。耳ではなく、心臓そのものに直接届く声。三人の意識は闇へと引きずり込まれ、抵抗する力を奪われていく。
レイジの瞳がかすみ、セレーナの手から眼鏡が滑り落ち、影の女王の闇糸は霧に溶けた。力は失われ、誓約は霞み、ただ「抱かれる」ことだけが現実として残された。
そのとき――。
広間の奥で、巨大な扉が軋む音を立てた。
ぎぃ……ぎぃ……と、古びた鉄が擦れるような不快な音。霧を揺らし、腕を振るわせ、三人の心臓をさらに締め上げる。
扉はわずかに開き、その隙間から吐息のような気配が漏れ出した。冷たく、重く、甘い匂いを孕んだ気配。それだけで、三人は胸を押さえて呻き声を上げた。
《……我ハ原初ノ娼王……神ヲモ抱イタ王……》
その名乗りだけで広間全体が震え、壁の像たちが一斉に笑った。石の歯が鳴り、無数の腕が動き、霧の中に異様な熱が生まれる。
まだ姿は見えない。
だが確かに、そこにいる。
三人は抱擁に縛られたまま、奥の扉を凝視するしかなかった。
恐怖は極まっていた。
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