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第60話 ー虚無の胎動ー
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奥の扉が軋む音を立てて閉じた瞬間、神殿全体が息を潜めたように静まり返った。だが、その静寂は安堵ではなく、肺を圧迫する重苦しさを伴っていた。空気は鉛のように重く、ひと呼吸するだけで胸の奥に黒い泥が流し込まれる感覚が走る。
レイジは剣を握り直し、背筋に冷たい汗を感じながら前を睨んだ。視界には何もいない。だが、確かにそこに存在がある。空間の奥から、見えない腕が伸び、首筋を撫でているような錯覚が途切れずに続いていた。
「……感じるか?」
レイジが低く問いかけると、セレーナは唇を噛みしめて小さく頷いた。
「ええ……理屈では説明できない……でも、触れられている。影ではなく、意思のある何かに」
声は震えていた。かつてどんな策略にも怯まなかった彼女が、今はただその存在に声を奪われかけている。
影の女王は、冷ややかな目をしていたはずの瞳を大きく見開いていた。彼女の身体を覆う漆黒の闇糸が、制御を失ったかのように細かく震えている。
「……この圧……私の闇でさえ、呑み込まれる。こんなことは……」
言葉を最後まで紡げなかった。喉の奥から勝手に震えが走り、彼女自身が自分の声を信じられなくなっていた。
神殿の壁に並ぶ像たちが、ゆっくりと口を開けた。石でできた唇が軋み、虚ろな穴の奥から生ぬるい吐息が漏れ出す。次第に、それは呻き声へと変わった。
《うあ……ぁあ……》
《たす……けて……》
《抱いて……抱いて……》
声は男女、老若、あらゆる音色が混じり合い、広間を覆い尽くした。
セレーナの足が止まり、肩が震えた。
「これ……まさか、ここで抱かれて消えた者たちの……」
言葉を最後まで続けられず、彼女は顔を両手で覆った。
レイジは奥歯を噛みしめた。これまで数々の強敵を前にしてきたが、戦う前から魂が削がれていく感覚は初めてだった。剣を構えても、その重さは三倍にも感じられる。まるで剣そのものが「諦めろ」と告げているかのようだった。
影の女王は一歩前に出ようとした。だが足首を何かに掴まれ、硬直した。視線を落とすと、石の床から伸びた腕が彼女の足を握っていた。石のように硬質なのに、脈打つように温かい。
「……っ!」
反射的に闇糸を放ったが、腕は千切れず、そのまま増えていく。足、腰、背に、幾本もの手が絡みつき、逃げ場を奪った。
レイジとセレーナも同時に声を上げた。
床の至るところから手が伸び、三人の体を撫で、締め、抱き寄せようとする。石のはずなのに柔らかく、冷たいのに熱い。矛盾する感触が、理性を麻痺させた。
《抱カレヨ……抱カレヨ……》
呻き声が囁きに変わり、三人の耳元で直接囁かれるように響いた。距離など関係なく、鼓膜ではなく脳髄に届く声。
セレーナは両耳を塞いだが、無駄だった。囁きは心臓を貫き、血流に乗って全身を痺れさせる。
「やめて……! 私の誓いは……」
叫ぼうとした声は喉の奥で掻き消え、代わりに「抱かれたい」という感情が勝手に芽生えそうになる。
レイジも同じだった。
「くそ……俺は……」
リリィナの幻影が再び目の前に立ち、抱きしめようと腕を伸ばす。その笑顔は懐かしく、温かく、そして恐ろしかった。
影の女王もまた、父の幻影に抱かれていた。背に回された腕が、あまりにも自然で、抗えない。冷酷を貫いたはずの彼女の瞳が揺らぎ、かつての少女の影が浮かんでいた。
神殿全体が低く唸り、広間を満たす影が濃くなった。
《……裸ノ誓約ノ者タチヨ……汝ラハ、我ガ腕ニ眠ル運命……》
その声が響いた瞬間、三人の膝は同時に床へ沈んだ。
神殿の空気は、次第に液体のような粘りを帯びていた。息を吸えば肺の奥にまとわりつき、吐こうとすれば喉が塞がれる。まるで大気そのものが見えない胎内であり、三人はその中に囚われている胎児に過ぎないのだと錯覚させられる。
レイジは床に膝をついたまま剣を握りしめた。腕を振り上げようとしても、空気の粘性が筋肉を絡め取り、動作を鈍らせる。胸の奥から脈動が響いた。それは自分の鼓動ではない。神殿全体が同じリズムで脈打ち、心臓を外から操っているのだ。
「……ぐっ……!」
呻いた瞬間、脈動が強まり、胸を突き破って外に飛び出しそうなほどに鼓動が荒れた。
セレーナも同様だった。掌に握りしめた符が熱を帯び、勝手に燃え始める。呪文を唱えようとしても言葉が逆流し、舌が凍り付いた。代わりに甘い声が頭の中に流れ込む。
「誓いなど捨ててしまえ……お前は疲れた……もう休め……」
その声は誰のものでもなく、彼女自身の声だった。まるで彼女の分身が背後から抱き締め、耳元で囁いているようだった。セレーナの瞳が大きく揺らぎ、符が指先から滑り落ちた。
影の女王は闇糸を伸ばしたが、糸の先端は霧の中で途切れ、代わりに無数の腕が伸びて絡みついてきた。一本千切っても二本、三本と増える。やがて糸の全てが絡め取られ、闇そのものが神殿の胎内に吸収されていった。
「……嘘だろう……私の影が……飲まれる……?」
冷酷なはずの彼女の声は震え、闇糸が失われていくたびにその瞳から冷静さが削ぎ落とされていった。
像たちの口から漏れる呻きは、やがて旋律を帯び始めた。規則性のないはずの声が重なり合い、妙に整った調和を生み出す。それは祈りのようでもあり、呪詛のようでもあり、しかし抗えないほど美しく耳に絡みついた。
《抱ケ……抱ケ……抱カレヨ……》
音色は甘美で、恐怖と悦楽を同時に注ぎ込む。三人の脳はそれを拒絶できず、骨の芯まで震わされた。
レイジは幻影のリリィナを再び見た。
「兄さん……私を抱いて……」
その姿は幼い頃のままの笑顔だった。理性では幻影だと分かっている。だが胸の奥の柔らかい部分を直接掴まれたように、心臓が反応してしまう。
「やめろ……やめろぉっ!」
声を張り上げても幻影は消えず、ただ温かい手が首を撫でていった。
セレーナはカリーネの幻影に抱きすくめられていた。
「もう泣かなくていい……誓いなんて重荷よ。ここで眠れば、全部私が受け止めてあげる」
セレーナの瞳から涙が溢れた。必死に抗おうとしたが、胸に抱いた眼鏡が冷たく光るたびに、余計に心が軋んだ。
影の女王の背後では、父の幻影が笑みを浮かべていた。
「戻ってこい……お前は私の娘だ。独りで生きる必要などない」
その言葉は彼女の幼心を容赦なく抉り、膝を震わせた。冷酷な仮面は剥がれ落ち、少女のような震えが浮かび上がる。
神殿の鼓動がさらに激しくなった。壁がうねり、床が波打つ。三人の体は地に吸い込まれるように沈み始める。石の手は増え続け、足、腰、肩、首へと這い登っていく。
「逃げられない……!」
セレーナが掠れた声で叫んだ。
レイジは剣を握り直したが、刃は光を失い、まるで金属ではなく鉛の塊になったように重い。持ち上げるたびに腕が引き裂かれそうな痛みが走る。
「……くそっ……まだだ……!」
必死に振り下ろした刃は、目の前の幻影を裂いた――だが、代わりに自分の胸から鮮血が噴き出した。
「な……」
幻影は笑みを浮かべたまま消えず、逆に彼の傷口に触れて甘く囁いた。
「あなたを傷つけるのは、あなた自身よ……」
影の女王の闇糸も完全に消え、セレーナの符は燃え尽き、レイジの剣は自らを傷つける。三人の全ての力が、神殿に裏返され、無効化されていた。
《裸ノ誓約ノ者タチヨ……汝ラハ我ガ胎内デ眠リ……永遠ノ抱擁ニ溶ケヨ……》
その声に応じるように、神殿の奥から低い唸りが響いた。
扉の隙間から漏れる黒い霧が広間に広がり、ただ立っているだけで骨が砕けるほどの重圧が三人を押し潰した。
「……っ……がはっ!」
レイジは血を吐き、セレーナは膝を折り、影の女王は床に手をついた。
その瞬間、三人は悟った。
――これはまだ「姿を現す前」でしかない。
奥の扉がわずかに開き、そこから吹き出した黒い霧が神殿全体を飲み込んでいった。霧は単なる煙ではなく、触れれば皮膚を舐められるような感触を伴い、耳元で甘い囁きを繰り返す。三人の体はそのたびに震え、膝を地に沈めていった。
「……これ以上……耐えられない……」
セレーナの声は掠れ、呼吸は荒く、頬は涙で濡れていた。霧の中に浮かぶカリーネの幻影が何度も彼女を抱き締め、心を砕こうと迫っていたのだ。
影の女王は両腕を広げて闇糸を必死に再生させたが、伸びた端から霧に溶けて消えた。
「……私の力が……この程度で……!」
自分を鼓舞するように叫んだが、声の震えは隠せない。背後に立つ父の幻影が「戻れ」と囁き続け、その腕が背に絡みつくたびに心が軋んだ。
レイジは剣を地に突き立て、体を支えながら奥を睨んだ。そこに、何かが「在る」。まだ全容は見えない。だが扉の隙間から覗く影は、人の形をしているようで、神の像のようでもあった。
やがて、霧の中に輪郭が浮かんだ。
それは無数の腕を持つ巨躯だった。腕は一本一本が異なる者のもの――老人の手、少女の手、戦士の手、母の手――その全てが同時に伸び、抱擁の形を作っていた。
「……な、んだ……あれは……」
レイジの声が震えた。
その巨躯の胸には、巨大な空洞が開いていた。そこには黄金の心臓のようなものが脈動している。鼓動は神殿全体と同期し、三人の心臓さえも無理やり同じリズムを刻まされた。
そして、顔。
いや、それを顔と呼ぶべきかどうかすら分からない。
一瞬は女の微笑みに見え、次には老人の嘆き、また次には神々しい仮面へと変わる。視線を合わせた瞬間、魂そのものを抱き締められる錯覚が走った。
《……我ハ原初ノ娼王……神ヲモ抱キ、神ヲモ蕩カセシ者……》
声が広間を震わせた。耳ではなく、骨の髄に響く。セレーナは悲鳴を上げ、頭を抱えて床に倒れ込んだ。影の女王は口を開いたが声が出ず、ただ唇が震え続けた。
レイジもまた、剣を支えにしなければ立っていられなかった。
「……こ、これが……天凶の頂……」
口にした瞬間、胸の奥に針が突き刺さった。娼王の視線が彼に注がれたのだ。目を合わせたわけではない。ただ「在る」だけで、心臓が握り潰されるような痛みが走った。
無数の腕が広間へと伸び始めた。石の像から生えたものではなく、娼王自身のものだ。腕は壁を越え、床を這い、天井から垂れ下がり、三人を同時に包み込もうと迫ってくる。
セレーナが符を振るった。だが符は光る前に霧に溶けた。
影の女王が闇糸を飛ばした。だが糸は腕に絡め取られ、逆に体を縛った。
レイジが剣を振るった。だが刃は空を裂くだけで、次の瞬間には自分の肩に傷が走った。
「攻撃が……全部……」
セレーナの瞳が絶望に染まった。
《……汝ラハ裸ノ誓約……抱カレル定メノ者……》
娼王の声が広間に満ちた瞬間、三人の体は同時に地に叩きつけられた。重圧は山そのものの重みであり、骨が軋み、血が口から滲む。
レイジは朦朧とした意識の中で、仲間の苦悶の声を聞いた。
(……駄目だ……このままじゃ、全員……)
霧がさらに濃くなり、巨躯の影が広間を覆った。姿はまだ完全ではない。それでも、すでに勝敗は決したかのような圧力が三人を押し潰していた。
絶望は完成していた。
巨躯の影が広間を覆った瞬間、三人の体を容赦ない圧迫が襲った。重圧は皮膚を突き破り、内臓を直接握り潰すかのようだった。
レイジは咄嗟に剣を突き立て体を支えたが、喉の奥から熱が逆流し、口いっぱいに鉄の味が広がった。
「……がはっ!」
赤黒い血が吐き出され、床石に散った。その瞬間、血の染みに無数の腕が芽吹き、彼の吐血を舐め取るように動いた。
セレーナは額を押さえ、苦鳴を上げた。
「……視界が……裂ける……!」
次の瞬間、彼女の瞳から赤い涙が零れ落ちた。血が頬を伝い、顎を濡らす。必死に符を掲げようとするが、腕が痙攣し、吐き気が喉をせり上げる。堪え切れず嘔吐した。吐瀉物すらも床に吸い込まれ、石が蠢いて彼女を縛ろうと伸びてきた。
影の女王もまた膝をつき、爪を床に立てて耐えようとした。だが鼻腔から鮮血が滴り落ち、喉の奥が焼け付くように熱を帯びた。咳き込みながら吐き出したのは、鮮血の塊だった。血の赤が闇糸に染み、糸は逆に自分を絡め取る鎖へと変じた。
「……馬鹿な……私が……ここまで……」
冷酷だったはずの声が震え、血に濡れた唇が震え続けた。
神殿の鼓動はさらに速まり、壁の像が一斉に開眼した。石の瞳から黒い涙が流れ落ち、その涙が床に落ちるたびに三人の体が跳ねるように痙攣する。
《抱ケ……抱ケ……抱カレヨ……》
声は歌のように美しく、しかし骨を粉砕するほどに重かった。
レイジは必死に意識を繋ぎ止めようとしたが、視界は霞み、吐血で呼吸すらままならない。
「……まだ……倒れるわけには……」
その意志は強かった。だが膝は震え、腕は鉛のように重く、剣の柄を握る手は汗と血で滑っていた。
セレーナの声が掠れた。
「……誓いが……崩れる……心が……ほどけて……」
言葉の途中で再び吐瀉物を吐き、床に倒れ込んだ。眼から血が流れ続け、赤い涙の川が頬を濡らしていた。
影の女王は必死に立ち上がろうとしたが、足元から伸びた腕に絡め取られ、胸を締め付けられた。圧迫に耐え切れず、喉から大量の血を吐き出す。
「……っ、く……!」
その姿は女王ではなく、ただの一人の女が血に沈んでいるだけだった。
神殿全体が笑った。
《汝ラハ既ニ限界……汝ラノ誓イモ力モ、我ガ胎内ニ呑マレタ……》
その声に呼応するように、広間の床が大きく波打った。三人の体は跳ね上げられ、地に叩きつけられる。その衝撃で肺が潰れ、さらに鮮血を吐いた。
レイジは朦朧とする意識の中で仲間を見た。セレーナは嘔吐と血で顔を濡らし、影の女王は血に沈んでいた。誰も立ち上がれない。
「……終わり……なのか……」
胸の奥で小さな声が零れた。
視界の端で、巨躯の影がゆっくりと身を乗り出した。無数の腕が広間を埋め尽くし、逃げ場を奪う。
絶望は完成した。三人の体からは血と涙と嘔吐が流れ続け、命の輝きすらも吸い込まれようとしていた。
レイジは剣を握り直し、背筋に冷たい汗を感じながら前を睨んだ。視界には何もいない。だが、確かにそこに存在がある。空間の奥から、見えない腕が伸び、首筋を撫でているような錯覚が途切れずに続いていた。
「……感じるか?」
レイジが低く問いかけると、セレーナは唇を噛みしめて小さく頷いた。
「ええ……理屈では説明できない……でも、触れられている。影ではなく、意思のある何かに」
声は震えていた。かつてどんな策略にも怯まなかった彼女が、今はただその存在に声を奪われかけている。
影の女王は、冷ややかな目をしていたはずの瞳を大きく見開いていた。彼女の身体を覆う漆黒の闇糸が、制御を失ったかのように細かく震えている。
「……この圧……私の闇でさえ、呑み込まれる。こんなことは……」
言葉を最後まで紡げなかった。喉の奥から勝手に震えが走り、彼女自身が自分の声を信じられなくなっていた。
神殿の壁に並ぶ像たちが、ゆっくりと口を開けた。石でできた唇が軋み、虚ろな穴の奥から生ぬるい吐息が漏れ出す。次第に、それは呻き声へと変わった。
《うあ……ぁあ……》
《たす……けて……》
《抱いて……抱いて……》
声は男女、老若、あらゆる音色が混じり合い、広間を覆い尽くした。
セレーナの足が止まり、肩が震えた。
「これ……まさか、ここで抱かれて消えた者たちの……」
言葉を最後まで続けられず、彼女は顔を両手で覆った。
レイジは奥歯を噛みしめた。これまで数々の強敵を前にしてきたが、戦う前から魂が削がれていく感覚は初めてだった。剣を構えても、その重さは三倍にも感じられる。まるで剣そのものが「諦めろ」と告げているかのようだった。
影の女王は一歩前に出ようとした。だが足首を何かに掴まれ、硬直した。視線を落とすと、石の床から伸びた腕が彼女の足を握っていた。石のように硬質なのに、脈打つように温かい。
「……っ!」
反射的に闇糸を放ったが、腕は千切れず、そのまま増えていく。足、腰、背に、幾本もの手が絡みつき、逃げ場を奪った。
レイジとセレーナも同時に声を上げた。
床の至るところから手が伸び、三人の体を撫で、締め、抱き寄せようとする。石のはずなのに柔らかく、冷たいのに熱い。矛盾する感触が、理性を麻痺させた。
《抱カレヨ……抱カレヨ……》
呻き声が囁きに変わり、三人の耳元で直接囁かれるように響いた。距離など関係なく、鼓膜ではなく脳髄に届く声。
セレーナは両耳を塞いだが、無駄だった。囁きは心臓を貫き、血流に乗って全身を痺れさせる。
「やめて……! 私の誓いは……」
叫ぼうとした声は喉の奥で掻き消え、代わりに「抱かれたい」という感情が勝手に芽生えそうになる。
レイジも同じだった。
「くそ……俺は……」
リリィナの幻影が再び目の前に立ち、抱きしめようと腕を伸ばす。その笑顔は懐かしく、温かく、そして恐ろしかった。
影の女王もまた、父の幻影に抱かれていた。背に回された腕が、あまりにも自然で、抗えない。冷酷を貫いたはずの彼女の瞳が揺らぎ、かつての少女の影が浮かんでいた。
神殿全体が低く唸り、広間を満たす影が濃くなった。
《……裸ノ誓約ノ者タチヨ……汝ラハ、我ガ腕ニ眠ル運命……》
その声が響いた瞬間、三人の膝は同時に床へ沈んだ。
神殿の空気は、次第に液体のような粘りを帯びていた。息を吸えば肺の奥にまとわりつき、吐こうとすれば喉が塞がれる。まるで大気そのものが見えない胎内であり、三人はその中に囚われている胎児に過ぎないのだと錯覚させられる。
レイジは床に膝をついたまま剣を握りしめた。腕を振り上げようとしても、空気の粘性が筋肉を絡め取り、動作を鈍らせる。胸の奥から脈動が響いた。それは自分の鼓動ではない。神殿全体が同じリズムで脈打ち、心臓を外から操っているのだ。
「……ぐっ……!」
呻いた瞬間、脈動が強まり、胸を突き破って外に飛び出しそうなほどに鼓動が荒れた。
セレーナも同様だった。掌に握りしめた符が熱を帯び、勝手に燃え始める。呪文を唱えようとしても言葉が逆流し、舌が凍り付いた。代わりに甘い声が頭の中に流れ込む。
「誓いなど捨ててしまえ……お前は疲れた……もう休め……」
その声は誰のものでもなく、彼女自身の声だった。まるで彼女の分身が背後から抱き締め、耳元で囁いているようだった。セレーナの瞳が大きく揺らぎ、符が指先から滑り落ちた。
影の女王は闇糸を伸ばしたが、糸の先端は霧の中で途切れ、代わりに無数の腕が伸びて絡みついてきた。一本千切っても二本、三本と増える。やがて糸の全てが絡め取られ、闇そのものが神殿の胎内に吸収されていった。
「……嘘だろう……私の影が……飲まれる……?」
冷酷なはずの彼女の声は震え、闇糸が失われていくたびにその瞳から冷静さが削ぎ落とされていった。
像たちの口から漏れる呻きは、やがて旋律を帯び始めた。規則性のないはずの声が重なり合い、妙に整った調和を生み出す。それは祈りのようでもあり、呪詛のようでもあり、しかし抗えないほど美しく耳に絡みついた。
《抱ケ……抱ケ……抱カレヨ……》
音色は甘美で、恐怖と悦楽を同時に注ぎ込む。三人の脳はそれを拒絶できず、骨の芯まで震わされた。
レイジは幻影のリリィナを再び見た。
「兄さん……私を抱いて……」
その姿は幼い頃のままの笑顔だった。理性では幻影だと分かっている。だが胸の奥の柔らかい部分を直接掴まれたように、心臓が反応してしまう。
「やめろ……やめろぉっ!」
声を張り上げても幻影は消えず、ただ温かい手が首を撫でていった。
セレーナはカリーネの幻影に抱きすくめられていた。
「もう泣かなくていい……誓いなんて重荷よ。ここで眠れば、全部私が受け止めてあげる」
セレーナの瞳から涙が溢れた。必死に抗おうとしたが、胸に抱いた眼鏡が冷たく光るたびに、余計に心が軋んだ。
影の女王の背後では、父の幻影が笑みを浮かべていた。
「戻ってこい……お前は私の娘だ。独りで生きる必要などない」
その言葉は彼女の幼心を容赦なく抉り、膝を震わせた。冷酷な仮面は剥がれ落ち、少女のような震えが浮かび上がる。
神殿の鼓動がさらに激しくなった。壁がうねり、床が波打つ。三人の体は地に吸い込まれるように沈み始める。石の手は増え続け、足、腰、肩、首へと這い登っていく。
「逃げられない……!」
セレーナが掠れた声で叫んだ。
レイジは剣を握り直したが、刃は光を失い、まるで金属ではなく鉛の塊になったように重い。持ち上げるたびに腕が引き裂かれそうな痛みが走る。
「……くそっ……まだだ……!」
必死に振り下ろした刃は、目の前の幻影を裂いた――だが、代わりに自分の胸から鮮血が噴き出した。
「な……」
幻影は笑みを浮かべたまま消えず、逆に彼の傷口に触れて甘く囁いた。
「あなたを傷つけるのは、あなた自身よ……」
影の女王の闇糸も完全に消え、セレーナの符は燃え尽き、レイジの剣は自らを傷つける。三人の全ての力が、神殿に裏返され、無効化されていた。
《裸ノ誓約ノ者タチヨ……汝ラハ我ガ胎内デ眠リ……永遠ノ抱擁ニ溶ケヨ……》
その声に応じるように、神殿の奥から低い唸りが響いた。
扉の隙間から漏れる黒い霧が広間に広がり、ただ立っているだけで骨が砕けるほどの重圧が三人を押し潰した。
「……っ……がはっ!」
レイジは血を吐き、セレーナは膝を折り、影の女王は床に手をついた。
その瞬間、三人は悟った。
――これはまだ「姿を現す前」でしかない。
奥の扉がわずかに開き、そこから吹き出した黒い霧が神殿全体を飲み込んでいった。霧は単なる煙ではなく、触れれば皮膚を舐められるような感触を伴い、耳元で甘い囁きを繰り返す。三人の体はそのたびに震え、膝を地に沈めていった。
「……これ以上……耐えられない……」
セレーナの声は掠れ、呼吸は荒く、頬は涙で濡れていた。霧の中に浮かぶカリーネの幻影が何度も彼女を抱き締め、心を砕こうと迫っていたのだ。
影の女王は両腕を広げて闇糸を必死に再生させたが、伸びた端から霧に溶けて消えた。
「……私の力が……この程度で……!」
自分を鼓舞するように叫んだが、声の震えは隠せない。背後に立つ父の幻影が「戻れ」と囁き続け、その腕が背に絡みつくたびに心が軋んだ。
レイジは剣を地に突き立て、体を支えながら奥を睨んだ。そこに、何かが「在る」。まだ全容は見えない。だが扉の隙間から覗く影は、人の形をしているようで、神の像のようでもあった。
やがて、霧の中に輪郭が浮かんだ。
それは無数の腕を持つ巨躯だった。腕は一本一本が異なる者のもの――老人の手、少女の手、戦士の手、母の手――その全てが同時に伸び、抱擁の形を作っていた。
「……な、んだ……あれは……」
レイジの声が震えた。
その巨躯の胸には、巨大な空洞が開いていた。そこには黄金の心臓のようなものが脈動している。鼓動は神殿全体と同期し、三人の心臓さえも無理やり同じリズムを刻まされた。
そして、顔。
いや、それを顔と呼ぶべきかどうかすら分からない。
一瞬は女の微笑みに見え、次には老人の嘆き、また次には神々しい仮面へと変わる。視線を合わせた瞬間、魂そのものを抱き締められる錯覚が走った。
《……我ハ原初ノ娼王……神ヲモ抱キ、神ヲモ蕩カセシ者……》
声が広間を震わせた。耳ではなく、骨の髄に響く。セレーナは悲鳴を上げ、頭を抱えて床に倒れ込んだ。影の女王は口を開いたが声が出ず、ただ唇が震え続けた。
レイジもまた、剣を支えにしなければ立っていられなかった。
「……こ、これが……天凶の頂……」
口にした瞬間、胸の奥に針が突き刺さった。娼王の視線が彼に注がれたのだ。目を合わせたわけではない。ただ「在る」だけで、心臓が握り潰されるような痛みが走った。
無数の腕が広間へと伸び始めた。石の像から生えたものではなく、娼王自身のものだ。腕は壁を越え、床を這い、天井から垂れ下がり、三人を同時に包み込もうと迫ってくる。
セレーナが符を振るった。だが符は光る前に霧に溶けた。
影の女王が闇糸を飛ばした。だが糸は腕に絡め取られ、逆に体を縛った。
レイジが剣を振るった。だが刃は空を裂くだけで、次の瞬間には自分の肩に傷が走った。
「攻撃が……全部……」
セレーナの瞳が絶望に染まった。
《……汝ラハ裸ノ誓約……抱カレル定メノ者……》
娼王の声が広間に満ちた瞬間、三人の体は同時に地に叩きつけられた。重圧は山そのものの重みであり、骨が軋み、血が口から滲む。
レイジは朦朧とした意識の中で、仲間の苦悶の声を聞いた。
(……駄目だ……このままじゃ、全員……)
霧がさらに濃くなり、巨躯の影が広間を覆った。姿はまだ完全ではない。それでも、すでに勝敗は決したかのような圧力が三人を押し潰していた。
絶望は完成していた。
巨躯の影が広間を覆った瞬間、三人の体を容赦ない圧迫が襲った。重圧は皮膚を突き破り、内臓を直接握り潰すかのようだった。
レイジは咄嗟に剣を突き立て体を支えたが、喉の奥から熱が逆流し、口いっぱいに鉄の味が広がった。
「……がはっ!」
赤黒い血が吐き出され、床石に散った。その瞬間、血の染みに無数の腕が芽吹き、彼の吐血を舐め取るように動いた。
セレーナは額を押さえ、苦鳴を上げた。
「……視界が……裂ける……!」
次の瞬間、彼女の瞳から赤い涙が零れ落ちた。血が頬を伝い、顎を濡らす。必死に符を掲げようとするが、腕が痙攣し、吐き気が喉をせり上げる。堪え切れず嘔吐した。吐瀉物すらも床に吸い込まれ、石が蠢いて彼女を縛ろうと伸びてきた。
影の女王もまた膝をつき、爪を床に立てて耐えようとした。だが鼻腔から鮮血が滴り落ち、喉の奥が焼け付くように熱を帯びた。咳き込みながら吐き出したのは、鮮血の塊だった。血の赤が闇糸に染み、糸は逆に自分を絡め取る鎖へと変じた。
「……馬鹿な……私が……ここまで……」
冷酷だったはずの声が震え、血に濡れた唇が震え続けた。
神殿の鼓動はさらに速まり、壁の像が一斉に開眼した。石の瞳から黒い涙が流れ落ち、その涙が床に落ちるたびに三人の体が跳ねるように痙攣する。
《抱ケ……抱ケ……抱カレヨ……》
声は歌のように美しく、しかし骨を粉砕するほどに重かった。
レイジは必死に意識を繋ぎ止めようとしたが、視界は霞み、吐血で呼吸すらままならない。
「……まだ……倒れるわけには……」
その意志は強かった。だが膝は震え、腕は鉛のように重く、剣の柄を握る手は汗と血で滑っていた。
セレーナの声が掠れた。
「……誓いが……崩れる……心が……ほどけて……」
言葉の途中で再び吐瀉物を吐き、床に倒れ込んだ。眼から血が流れ続け、赤い涙の川が頬を濡らしていた。
影の女王は必死に立ち上がろうとしたが、足元から伸びた腕に絡め取られ、胸を締め付けられた。圧迫に耐え切れず、喉から大量の血を吐き出す。
「……っ、く……!」
その姿は女王ではなく、ただの一人の女が血に沈んでいるだけだった。
神殿全体が笑った。
《汝ラハ既ニ限界……汝ラノ誓イモ力モ、我ガ胎内ニ呑マレタ……》
その声に呼応するように、広間の床が大きく波打った。三人の体は跳ね上げられ、地に叩きつけられる。その衝撃で肺が潰れ、さらに鮮血を吐いた。
レイジは朦朧とする意識の中で仲間を見た。セレーナは嘔吐と血で顔を濡らし、影の女王は血に沈んでいた。誰も立ち上がれない。
「……終わり……なのか……」
胸の奥で小さな声が零れた。
視界の端で、巨躯の影がゆっくりと身を乗り出した。無数の腕が広間を埋め尽くし、逃げ場を奪う。
絶望は完成した。三人の体からは血と涙と嘔吐が流れ続け、命の輝きすらも吸い込まれようとしていた。
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