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番外編:遠く去る城
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自分のではないベッドで、幸せな目覚めを迎えた。
うなじには、ひりつく甘い痛み。
初めての行為で痛む体さえ、幸せに感じる。
同じベッドにあの人はいない。でも残り香は部屋の中に溢れている。
『ロアンはゆっくり寝ていてくれ』
『帰ってくるまで待っていてほしい』
『離れたくない』
『このままずっと一緒にいられたらいいのに』
『愛しい、俺の番』
甘い言葉と、都度落とされた甘い口づけ。
思い出しただけで、唇の触れたところが甘く疼いた。
出会ってから二ヶ月と少し。
毎日とは言えないし、すれ違いのような逢瀬だったが、それでも愛情は育まれた。
――運命の番。
あの人はそう言ってくれたし、自分でもそう感じた。
ぼんやりとベッドで一夜の余韻をやり過ごしていると、ノック音が聞こえた。
慌てて立ち上がり駆け寄ると、ノブに手が届く前に、扉が勢いよく開く。
「まだお休みだったんですか? いいご身分ですね」
入ってきた侍女らしき女性が冷たく睨みつけてくる。
「あ、す……すみません」
女性はコツコツと足音を立ててベッドに近寄ると、シーツを剥ぎ取っていく。
「あっ……!」
思わず声が出る。
あの人の匂いが持っていかれてしまうのが、嫌だった。
でも、それは言えない。
やめて、と言う前に、辛うじて口を閉じる。
「なんですか? あなたがだらしなく寝ていたおかげで、皆の仕事が滞っているんですよ?」
厳しい口調に、幸せだった気分が萎んでいく。
「調子に乗らないでくださいね。どうせヒートトラップで無理やり迫ったのでしょう?
あの方が王子と知って、さぞや愉快だったでしょうね」
――王子?
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
違う。知らなかった。どういうことだ?
王城の下層にある魔石室で出会い、会うのはいつも中庭だけ。
あの人がそこまで高い身分だなんて思いもしなかった。
いつも上等な服を着ているとは思ったけど、まさか王子だっただなんて。
身分を知って取り入ったわけじゃない。
そんな考えなんて少しもなかったのに、勢いに押されて反論も出来ない。
確かに突発的なヒートだった。
けれど、それも一晩で治まる軽いものだった。
それに、きちんと段階は踏んでいる。
少なくとも自分ではそう思っている。
薬は毎日飲んでいるし、王宮のアルファも専用の薬を服用していると言っていた。
だからこそ、お互いの匂いがわかったのは運命だからだと、二人で語り合った。
その上で、運命だから起きたヒートとして、一夜を過ごした。
うなじまで噛まれるとは思わなかったけど、それは僕も望んだことだ。
本当に立場や位で選んだわけじゃない。
唇を噛み締めて、下を向く。
こういう場合は、何も言ってはいけない。
これは、両親が亡くなり親類が邸に来てから学んだことだ。
言いたいだけ言ったら満足するんだ。
「そもそも身分違いなんですよ。烏滸がましい。
あなたのような平民、番になったとしても、王家に迎え入れられる訳がないんですよ!」
言いながら、カーテンと窓を大きく開け放っていく。
あの人の匂いがますます薄くなっていく。
「たった一夜、甘い言葉と情けを掛けられた位で、いい気になるんじゃありませんよ」
投げつけられた言葉と、消えていく匂いに、伏せた目から涙が溢れた。
立ち尽くしている間に、女性は言葉を投げつけながら部屋を整え、出ていった。
気づけば夜の気配も、あの人の匂いも消えていた。
帰るまで待っていてほしい、という言葉を守りたくてソファに座る。
ぼんやりと部屋を見渡す。
確かに身分違いだ。
それは言われなくてもわかっていた。
両親が生きていたら、自分も貴族の身分だったのに。
そう考えたが、子爵家ではどのみち釣り合わない。
子供の頃に住んでいた邸の、一番いい部屋よりも広い寝室。
家具も調度も、比べるまでもない。
しかも今は身分すらない。
最後の情けで親類に送り込まれて、王宮で魔石に魔力を注入する仕事に就けただけの、平民のオメガだ。
女性にぶつけられた言葉が図星で、考えが良くない方向へと進んでしまう。
深く息を吐いて立ち上がると、窓辺に向かった。
開かれた窓からは、冬の気配を残した風が吹き込んでくる。
借り物の寝衣には少し寒いが、頭が冷えてちょうどいい。
青く澄んだ空を見上げると、中庭でのあの人を思い出す。
たった一夜の関係なんかじゃない。
確かに好き合ったんだ。
その場に座り込んで、流れてくる涙を袖で拭い続けた。
ひたすら泣いて、泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしい。
肩を叩かれて目を覚ました。
見上げると、知らない男性が厳しい顔で立っていた。
「まだいらしたのですか?」
腕を引っ張られて立ち上がると、押し付けるように服を渡された。
「早く着替えなさい。いつまでその格好で居座るつもりですか」
「でも……あの方がここで待っていてほしい、と」
小さな声で答えると、呆れたように息を吐かれた。
「真に受けたんですか? そんなわけがないでしょうに。
自分の身分を考えたら分かりそうなものを」
また身分だ。
あの人には釣り合わない。確かにそうだ。
気が進まないが、仕方ない。渡された服を、もそもそと着る。
男性に見られているのが嫌で、後ろを向いて着替えていると、舌打ちが聞こえた。
「薄汚いオメガ風情が」
小さな呟きが、風に乗って届く。
多分、あの人の付けた痕跡を見たのだろう。
身体中に散った赤い痕か、うなじの噛み跡か。
着替え終わって、脱いだ寝衣を抱えると、乱暴に取り上げられた。
「この部屋から何も持ち出させませんよ。このまま自分の居場所に戻りなさい」
背を押されて、廊下まで追い出される。
扉を閉める前に、男性が薬包を押し付けてきた。
「それは堕胎薬です。もし子を孕んだ兆候があれば、誰にも言わずにそれを飲みなさい。
誰にも望まれぬ子を産むべきではありません」
わかったら帰れと言い捨て、男性は強く扉を閉じた。
扉が閉まると同時に、あの人との縁も閉じた気がした。
ぼんやりと歩き、自室のある寮棟へ戻った。
ここはオメガ用の寮が集まる区画だ。
抑制剤のおかげで、オメガも職を得られるようになって久しい。
僕が住んでいるこの寮は、主に魔石室で働いている人達が暮らしている。
自分の部屋へ戻る廊下で、魔石室で一緒に働いている同僚と出会った。
今は誰にも会いたくなかったから、知らない顔で通り過ぎたかったが、そうもいかない。
「顔色わるいよ、大丈夫?」
同僚が、気遣うように声を掛けてくれた。
この同僚はあの人と、中庭で会えるきっかけをくれた人だ。
多分夜勤でもないのに帰らなかった理由も、なんとなくは察しているのだろう。
優しい言葉と、背を撫でる温かい手に、涙腺が緩んでしまった。
何も言えずに泣くだけの自分を、彼はそっと抱きしめてくれた。
同僚の胸に顔を押し付けたまま僕は涙を流した。
あの人に無理をされたと、そう思われたかもしれない。
けれど、それももうどうでもよかった。
「今は誰もいないから、静かにおやすみ。
仕事も辛かったら、明日は代わってあげるから」
言葉に甘えて部屋に戻り、ベッドの中で声を殺してひたすら泣いた。
次の日は、目が腫れて開かないほどだった。
同僚の言葉に甘えて仕事を代わってもらい、部屋の中で過ごした。
もうあの人には会えない。会ってはいけないんだと思った。
上役に話して、シフトを調整してもらうことにした。
あの人に知られないようにしたくて、質の悪いアルファに目を付けられたことにして、シフトを隠してもらえるようにも頼んだ。
あとは中庭を通らないようにした。
みんなが普通に使う道もやめて、通常より遠回りの道を探した。
アルファはこの寮棟に近寄れないから、休みの日や仕事以外の時間も、極力部屋にいることにした。
幸い食堂があるから、食べることには困らない。
そんな気を張るような生活の中で、体調に少しの異変が出てきた。
最初は夜あまり眠れないから、昼間が眠いんだと思った。
けど、支障が出そうなほどの眠気は、さすがにおかしい。
様子見をしているうちに、今度は吐き気が始まった。
睡眠不足のせいにして、胃にも不調が出たのだと言っていたが、これは間違いないだろう。
あの人の子がお腹にいる。
捨てられなかった薬包を入れた引き出しに、思わず目が行く。
傷が癒え、痕だけが残ったうなじを触る。
本当に身籠ったのなら、この子を死なせたくない。
もう会えないかもしれない人との小さな絆だ。
知られないうちに、見つからないように逃げなければ。
今ならまだ、胃の不調か食あたりで誤魔化せるはず。
考え出したら、結論を出すまでは早かった。
持ち物は多くない。
給料は貯めていたから、逃げる金くらいはあるはずだ。
ベッドの下から小箱を出して開く。
両親の形見の宝飾品がいくつかと、これまで貯めてきたお金が入っている。
馬車を乗り継いで行けるところまで行くか、汽車を使うか。
金額を計算してみると、辺境までの片道切符と多少の生活費にはなりそうだった。
お腹の子のことを考えると、馬車の揺れより汽車のほうが幾分かマシだろう。
いざとなれば、両親の形見だって使える。
汽車代と何日か分の食費を財布に入れる。
残りは両親の形見と一緒に袋にしまう。
クローゼットから取り出した服と一緒にカバンに詰めて、荷物の準備を終えた。
あとはいつ決行するかだ。
夜勤明けか、休みの日の朝か。
王城に来てから四年。魔石係としてこの寮に入って二年。
世話になった場所を離れるのは悲しかった。
あの人と同じ空気を吸えなくなるのも辛かった。
でもお腹の命は捨てられない。
薬包の中身をトイレに流しながら、次の休みに出ていくと決めた。
これであの人と会えなくなっても、絆は残るのだから。
早朝、日の昇らないうちに部屋を出た。
同僚たちに迷惑をかける謝罪の手紙を置きたかったけど、見つかりたくないほうが勝ってしまった。
人の気配がないのを確認して、そっと寮を後にする。
あまり人の通らない道を選び、下働き用の通用口に向かう。
ここは入るのは厳しいが、出るのは案外楽だからだ。
顔見知りの門兵がいたら特に。
「こんな早くから街に行くのか?」
「はい。今日はどうしても市場に行きたくて」
「そうか、気をつけてな」
そんな会話で通してもらえた。
王城から駅までは少し距離があるが、歩けなくはない。
まだ暗い街を、人目を避けて歩く。
そろそろ春の暖かさが増してきて、寒さがないのだけが救いだ。
後ろ髪を引かれる思いで駅までの道を急ぐ。
途中、開いたばかりのパン屋の匂いで気分が悪くなる。
確定だろうと、苦い笑いが込み上げる。
なんとか駅にたどり着き、終点までの切符を買った。
定刻になり、指定された座席に座る。
警笛が鳴って、蒸気の吹く音が聞こえる。
ガタンと揺れた後、ゆっくりと窓の景色が動き始める。
駅を出て、窓の向こうに王城が見えてきた。
長く働いてきた場所。
運命の出会いをして結ばれた、愛しい番の住む場所。
「ヴィルヘルム様、お元気で」
もう涙も出なかった。
ただ、遠ざかる城の姿が見えなくなるまで、窓から目を離せなかった。
うなじには、ひりつく甘い痛み。
初めての行為で痛む体さえ、幸せに感じる。
同じベッドにあの人はいない。でも残り香は部屋の中に溢れている。
『ロアンはゆっくり寝ていてくれ』
『帰ってくるまで待っていてほしい』
『離れたくない』
『このままずっと一緒にいられたらいいのに』
『愛しい、俺の番』
甘い言葉と、都度落とされた甘い口づけ。
思い出しただけで、唇の触れたところが甘く疼いた。
出会ってから二ヶ月と少し。
毎日とは言えないし、すれ違いのような逢瀬だったが、それでも愛情は育まれた。
――運命の番。
あの人はそう言ってくれたし、自分でもそう感じた。
ぼんやりとベッドで一夜の余韻をやり過ごしていると、ノック音が聞こえた。
慌てて立ち上がり駆け寄ると、ノブに手が届く前に、扉が勢いよく開く。
「まだお休みだったんですか? いいご身分ですね」
入ってきた侍女らしき女性が冷たく睨みつけてくる。
「あ、す……すみません」
女性はコツコツと足音を立ててベッドに近寄ると、シーツを剥ぎ取っていく。
「あっ……!」
思わず声が出る。
あの人の匂いが持っていかれてしまうのが、嫌だった。
でも、それは言えない。
やめて、と言う前に、辛うじて口を閉じる。
「なんですか? あなたがだらしなく寝ていたおかげで、皆の仕事が滞っているんですよ?」
厳しい口調に、幸せだった気分が萎んでいく。
「調子に乗らないでくださいね。どうせヒートトラップで無理やり迫ったのでしょう?
あの方が王子と知って、さぞや愉快だったでしょうね」
――王子?
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
違う。知らなかった。どういうことだ?
王城の下層にある魔石室で出会い、会うのはいつも中庭だけ。
あの人がそこまで高い身分だなんて思いもしなかった。
いつも上等な服を着ているとは思ったけど、まさか王子だっただなんて。
身分を知って取り入ったわけじゃない。
そんな考えなんて少しもなかったのに、勢いに押されて反論も出来ない。
確かに突発的なヒートだった。
けれど、それも一晩で治まる軽いものだった。
それに、きちんと段階は踏んでいる。
少なくとも自分ではそう思っている。
薬は毎日飲んでいるし、王宮のアルファも専用の薬を服用していると言っていた。
だからこそ、お互いの匂いがわかったのは運命だからだと、二人で語り合った。
その上で、運命だから起きたヒートとして、一夜を過ごした。
うなじまで噛まれるとは思わなかったけど、それは僕も望んだことだ。
本当に立場や位で選んだわけじゃない。
唇を噛み締めて、下を向く。
こういう場合は、何も言ってはいけない。
これは、両親が亡くなり親類が邸に来てから学んだことだ。
言いたいだけ言ったら満足するんだ。
「そもそも身分違いなんですよ。烏滸がましい。
あなたのような平民、番になったとしても、王家に迎え入れられる訳がないんですよ!」
言いながら、カーテンと窓を大きく開け放っていく。
あの人の匂いがますます薄くなっていく。
「たった一夜、甘い言葉と情けを掛けられた位で、いい気になるんじゃありませんよ」
投げつけられた言葉と、消えていく匂いに、伏せた目から涙が溢れた。
立ち尽くしている間に、女性は言葉を投げつけながら部屋を整え、出ていった。
気づけば夜の気配も、あの人の匂いも消えていた。
帰るまで待っていてほしい、という言葉を守りたくてソファに座る。
ぼんやりと部屋を見渡す。
確かに身分違いだ。
それは言われなくてもわかっていた。
両親が生きていたら、自分も貴族の身分だったのに。
そう考えたが、子爵家ではどのみち釣り合わない。
子供の頃に住んでいた邸の、一番いい部屋よりも広い寝室。
家具も調度も、比べるまでもない。
しかも今は身分すらない。
最後の情けで親類に送り込まれて、王宮で魔石に魔力を注入する仕事に就けただけの、平民のオメガだ。
女性にぶつけられた言葉が図星で、考えが良くない方向へと進んでしまう。
深く息を吐いて立ち上がると、窓辺に向かった。
開かれた窓からは、冬の気配を残した風が吹き込んでくる。
借り物の寝衣には少し寒いが、頭が冷えてちょうどいい。
青く澄んだ空を見上げると、中庭でのあの人を思い出す。
たった一夜の関係なんかじゃない。
確かに好き合ったんだ。
その場に座り込んで、流れてくる涙を袖で拭い続けた。
ひたすら泣いて、泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしい。
肩を叩かれて目を覚ました。
見上げると、知らない男性が厳しい顔で立っていた。
「まだいらしたのですか?」
腕を引っ張られて立ち上がると、押し付けるように服を渡された。
「早く着替えなさい。いつまでその格好で居座るつもりですか」
「でも……あの方がここで待っていてほしい、と」
小さな声で答えると、呆れたように息を吐かれた。
「真に受けたんですか? そんなわけがないでしょうに。
自分の身分を考えたら分かりそうなものを」
また身分だ。
あの人には釣り合わない。確かにそうだ。
気が進まないが、仕方ない。渡された服を、もそもそと着る。
男性に見られているのが嫌で、後ろを向いて着替えていると、舌打ちが聞こえた。
「薄汚いオメガ風情が」
小さな呟きが、風に乗って届く。
多分、あの人の付けた痕跡を見たのだろう。
身体中に散った赤い痕か、うなじの噛み跡か。
着替え終わって、脱いだ寝衣を抱えると、乱暴に取り上げられた。
「この部屋から何も持ち出させませんよ。このまま自分の居場所に戻りなさい」
背を押されて、廊下まで追い出される。
扉を閉める前に、男性が薬包を押し付けてきた。
「それは堕胎薬です。もし子を孕んだ兆候があれば、誰にも言わずにそれを飲みなさい。
誰にも望まれぬ子を産むべきではありません」
わかったら帰れと言い捨て、男性は強く扉を閉じた。
扉が閉まると同時に、あの人との縁も閉じた気がした。
ぼんやりと歩き、自室のある寮棟へ戻った。
ここはオメガ用の寮が集まる区画だ。
抑制剤のおかげで、オメガも職を得られるようになって久しい。
僕が住んでいるこの寮は、主に魔石室で働いている人達が暮らしている。
自分の部屋へ戻る廊下で、魔石室で一緒に働いている同僚と出会った。
今は誰にも会いたくなかったから、知らない顔で通り過ぎたかったが、そうもいかない。
「顔色わるいよ、大丈夫?」
同僚が、気遣うように声を掛けてくれた。
この同僚はあの人と、中庭で会えるきっかけをくれた人だ。
多分夜勤でもないのに帰らなかった理由も、なんとなくは察しているのだろう。
優しい言葉と、背を撫でる温かい手に、涙腺が緩んでしまった。
何も言えずに泣くだけの自分を、彼はそっと抱きしめてくれた。
同僚の胸に顔を押し付けたまま僕は涙を流した。
あの人に無理をされたと、そう思われたかもしれない。
けれど、それももうどうでもよかった。
「今は誰もいないから、静かにおやすみ。
仕事も辛かったら、明日は代わってあげるから」
言葉に甘えて部屋に戻り、ベッドの中で声を殺してひたすら泣いた。
次の日は、目が腫れて開かないほどだった。
同僚の言葉に甘えて仕事を代わってもらい、部屋の中で過ごした。
もうあの人には会えない。会ってはいけないんだと思った。
上役に話して、シフトを調整してもらうことにした。
あの人に知られないようにしたくて、質の悪いアルファに目を付けられたことにして、シフトを隠してもらえるようにも頼んだ。
あとは中庭を通らないようにした。
みんなが普通に使う道もやめて、通常より遠回りの道を探した。
アルファはこの寮棟に近寄れないから、休みの日や仕事以外の時間も、極力部屋にいることにした。
幸い食堂があるから、食べることには困らない。
そんな気を張るような生活の中で、体調に少しの異変が出てきた。
最初は夜あまり眠れないから、昼間が眠いんだと思った。
けど、支障が出そうなほどの眠気は、さすがにおかしい。
様子見をしているうちに、今度は吐き気が始まった。
睡眠不足のせいにして、胃にも不調が出たのだと言っていたが、これは間違いないだろう。
あの人の子がお腹にいる。
捨てられなかった薬包を入れた引き出しに、思わず目が行く。
傷が癒え、痕だけが残ったうなじを触る。
本当に身籠ったのなら、この子を死なせたくない。
もう会えないかもしれない人との小さな絆だ。
知られないうちに、見つからないように逃げなければ。
今ならまだ、胃の不調か食あたりで誤魔化せるはず。
考え出したら、結論を出すまでは早かった。
持ち物は多くない。
給料は貯めていたから、逃げる金くらいはあるはずだ。
ベッドの下から小箱を出して開く。
両親の形見の宝飾品がいくつかと、これまで貯めてきたお金が入っている。
馬車を乗り継いで行けるところまで行くか、汽車を使うか。
金額を計算してみると、辺境までの片道切符と多少の生活費にはなりそうだった。
お腹の子のことを考えると、馬車の揺れより汽車のほうが幾分かマシだろう。
いざとなれば、両親の形見だって使える。
汽車代と何日か分の食費を財布に入れる。
残りは両親の形見と一緒に袋にしまう。
クローゼットから取り出した服と一緒にカバンに詰めて、荷物の準備を終えた。
あとはいつ決行するかだ。
夜勤明けか、休みの日の朝か。
王城に来てから四年。魔石係としてこの寮に入って二年。
世話になった場所を離れるのは悲しかった。
あの人と同じ空気を吸えなくなるのも辛かった。
でもお腹の命は捨てられない。
薬包の中身をトイレに流しながら、次の休みに出ていくと決めた。
これであの人と会えなくなっても、絆は残るのだから。
早朝、日の昇らないうちに部屋を出た。
同僚たちに迷惑をかける謝罪の手紙を置きたかったけど、見つかりたくないほうが勝ってしまった。
人の気配がないのを確認して、そっと寮を後にする。
あまり人の通らない道を選び、下働き用の通用口に向かう。
ここは入るのは厳しいが、出るのは案外楽だからだ。
顔見知りの門兵がいたら特に。
「こんな早くから街に行くのか?」
「はい。今日はどうしても市場に行きたくて」
「そうか、気をつけてな」
そんな会話で通してもらえた。
王城から駅までは少し距離があるが、歩けなくはない。
まだ暗い街を、人目を避けて歩く。
そろそろ春の暖かさが増してきて、寒さがないのだけが救いだ。
後ろ髪を引かれる思いで駅までの道を急ぐ。
途中、開いたばかりのパン屋の匂いで気分が悪くなる。
確定だろうと、苦い笑いが込み上げる。
なんとか駅にたどり着き、終点までの切符を買った。
定刻になり、指定された座席に座る。
警笛が鳴って、蒸気の吹く音が聞こえる。
ガタンと揺れた後、ゆっくりと窓の景色が動き始める。
駅を出て、窓の向こうに王城が見えてきた。
長く働いてきた場所。
運命の出会いをして結ばれた、愛しい番の住む場所。
「ヴィルヘルム様、お元気で」
もう涙も出なかった。
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※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
元の不憫なロアンは結局どうなってしまったのでしょうか?
短い話なのでしかたないかもしれないですが、記憶が甦って幸せになったのはいいんだけど、急にオメガマのマになったはずなのに、馴染んでしまうかな?大学生だった青年の葛藤をもっと読みたかったな、折角の異世界転移話なんだし。
ご期待に添えない部分があったようで申し訳ありません。
本作では離別と再会に重きを置いてしまい、ご指摘の点については十分に描けていない部分もあったかと思います。
いただいたご意見は今後の参考にさせていただきます。
ご感想ありがとございます。
番外編ありがとうございますm(_ _)m
是非ともこの続きを拝読したいです。
どうか心身がお許しになれば書いていただきたいです。
よろしくお願いいたしますm(_ _)m
番外編も読んでくださりありがとうございます。
続きを読みたいと言っていただけて、とても嬉しいです。
機会があればまたこの二人のお話を書けたらと思っています。
温かいお言葉、本当にありがとうございました。
どうなることかと思いましたが、頑張って生きてきた二人。本当によかった…3人で幸せになってください。周りもいい人に恵まれて。
素敵なお話をありがとうございますm(_ _)m
ご感想ありがとうございます!
三人の幸せを願っていただけて、とても嬉しいです。
色々ありましたが、これからは穏やかに過ごしてくれたらいいなと思っています。
温かいお言葉を、本当にありがとうございました。