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第一章
思惑は曖昧に絡む
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神山麓の町に到着し、滞在用に用意された貴族の邸に荷物を運び入れた。明朝、神官がアナスタシアを迎えに来て、神殿参拝へ向かうことになる。
部屋で休んでいるアナスタシアの様子を見に行くと、待っていましたとばかりにステファンは部屋へ引き入れられた。
「どういうことよ! 聞いていないわ、あの方が来るなんて!」
「落ち着いてください。冷静に考えましょう」
「大公殿下の目的はなんですか? もしかして、アナスタシア様を監視するために……」
室内の警備担当として、アルフレッドを置いていたので、彼も話に入ってきた。
「そうだな。どう見ても歓迎されていないと分かって、直々に監視をしに来たのかもしれない。私が交渉してどうにか帰らせます」
神殿参拝の一行に合流したリュシアンは、そのまま滞在用の邸にまで入ってきて、今は二階を占領している。使わせてもらうぞと言われて、ステファンの立場では断ることができなかった。
「とにかく、予定通りに。明日アナスタシア様は神官と共に神殿へ。アルフレッドは、伝令として皇宮へ向かってもらう」
ステファンが流れを確認すると、アナスタシアとアルフレッドは覚悟したように頷いた。アルフレッドは伝令役だが、途中の隠れ家に身を潜め、アナスタシアと合流するのを待つことになっている。
ステファンは街に残り、色々と調整する必要があるのだが、リュシアンのせいで頭が痛いことになった。
ステファンが額に手を当てていると、アナスタシアが神妙な面持ちで近寄ってきた。
「ステファン、もう一度聞かせて。私達が逃げた後、貴方の身は大丈夫なのよね?」
「ええ、ご心配には及びません。皇宮へは戻らず、他国にいる親類の元へ身を寄せるつもりです。前々から申していた通り、ヘイズ家に窮屈な思いを感じており、機会があれば離れたいと思っておりました。財産は全て兄のものですし、それならいっそ、本当の両親がいる場所へ戻りたいとも考えております」
もちろん嘘だが、ステファンは用意していた笑顔を貼り付ける。大変なことをしようとしているのは、アナスタシアなのだ。心残りなどしている場合ではない。何も考えず、飛び立ってほしい。ステファンはそう思っていた。
「そう……それならよかった。皇宮での窮屈な暮らしも、ステファンが力になってくれたから乗り切れたのよ。感謝してもしきれないわ」
「それなら、幸せになると約束してください」
ステファンの言葉に、アナスタシアはポロリと涙をこぼした。横にいたアルフレッドがアナスタシアを支えて慰める。
「アルフレッド、頼んだぞ」
「……はい。もちろんです」
アルフレッドと目が合うと、その奥に懺悔の色が見えた。籠の鳥で世間知らずのアナスタシアと違い、アルフレッドは若いが、同じ騎士として状況を理解している。ステファンの嘘を見抜き、行く末を悟っているのだろう。決意を込めた視線を送ると、アルフレッドは小さく頷いた。
段取りを確認した後、二人を残し、ステファンは部屋を出た。
まずは、向こうの動向を探り、できるだけ早めに対処しておく必要がある。やってやるぞとステファンは鼻息を荒くし、二階へ向かうため階段を上った。
二階の廊下を歩き、リュシアンがいるはずの部屋の前に立つ。息を整えてからドアをノックすると、すぐに入ってくれと返事があった。
「失礼します」
室内を見渡したが人影がない。窓が開いており、柔らかな風が吹いてきて、ステファンの髪を揺らした。
「こっちだ」
「……皇女殿下護衛騎士のヘイズです。今後のことで話がありまして……」
衝立の奥から声がかかり、見える位置まで移動すると、飛び込んできた光景にステファンは息を呑む。
「突然同行を申し出て悪かったな」
「…………」
リュシアンがステファンに背を向けて着替えていた。上半身は何も身に着けておらず、透き通った白い肌が目に飛び込んでくる。いつも結んでいるリュシアンの長い髪が腰の位置まで流れ、窓から入ってきた風にふわりと揺れる。日焼けを知らないような肌に、銀色の美しい髪はよく似合う。芸術作品のような美しさを目の前にし、ステファンはすっかり魅了されてしまう。
言葉が出ないステファンに気がついたリュシアンが、ゆっくりと振り返ってきた。
「聞いているのか? 食事や身の回りのことはこちらで用意する。特別な手配は必要ない」
「……は……はい! 失礼しました。お着替え中とは知らずに!」
リュシアンの言葉にハッと気がついたステファンは、慌てて目線を下に移動させ、軽く頭も下げた。頬が熱くなっているのを感じ、しっかりしろと自分に言い聞かせる。
「構わない。呼んだのはこちらだ。そうだ、ちょうどいい。今はギルを外へ行かせているんだ。着替えを手伝ってくれないか?」
「はい……分かりました」
リュシアンが近くの椅子に掛けてあったシャツを指さしたので、ステファンは静かにそれを手に取る。指で触れただけで分かる上質なものだ。サッと広げてリュシアンの背中に乗せると、彼は慣れた所作で袖に手を通す。近くで見ると、生まれながらに高貴な人だと改めて思う。
リュシアンの後ろ姿に変な色香を感じてしまったステファンは、頭の中でひたすら首を振り、別のことを考えようと努める。
「ステファン……ボタンを」
「はい」
大公家の主なら、自分でボタンを留めたことなどないだろう。当たり前のように声を掛けられたので、リュシアンの前に移動したステファンは平静を装ってボタンに手をかける。
「慣れているな」
「はい、義父の着替えをよく手伝っていましたから」
騎士たるもの、何事も冷静に、平常心で取り組まなければいけない。ステファンは黙々とシャツのボタンを留めていく。
「綺麗だ」
「ボタンの留め方ですか? 特に変わったことは……」
「それもそうだが、ステファンの目だ。近くで見ると、瞳が紫に見える」
「あ……それは、私は碧眼ですが色が薄いので、感情によって色が濃く見えることが……」
手先に集中していたので、顔を上げると思っていたよりも近くにリュシアンの顔があった。ステファンの心臓はドクンと大きく揺れ、目が離せなくなる。
「ん……? もっと濃く……美しい紫に変わったぞ。それはどんな感情なんだ?」
「そ……その……緊張を……」
リュシアンの手が顔に近づき、長い指が目元に触れた。ステファンの肩はビクッと揺れ、心臓の音が激しくなる。
「緊張か……そんなに緊張せずとも、もっと気を緩めてもいい」
「そう言われましても……あ、あ……あのっ!」
まるで神に魅入られるように、気持ちを委ねてしまいそうになった。途中で気がついたステファンは、最後のボタンを留めて、リュシアンから離れた。
「様子を……私は、大公様の様子を確認しにきただけですので、こっここれで!」
もうだめだ。頭の中は混乱で埋め尽くされ、逃げることでしか自分を守れない。リュシアンは魔性という言葉がよく似合う。危険な術にでもかかったように、目が離せなくなった。
はぁはぁと肩で息をしながら、失礼しますと言ってステファンは部屋を出ていく。目の端で、リュシアンが揶揄うように笑っている姿が目に入ったので、余計に顔が赤くなってしまった、
「おっと、ヘイズ卿。いらしていたのですね」
急いでドアを開けると、ちょうどお茶を持ってきたギルバートと出くわした。
「は、はい。不便がないか、様子を見に……。大公殿下はちょうど着替えていらっしゃったので、少しお手伝いをしてまいりました」
「主人の着替えを手伝われたのですか?」
「え、ええ。そうですけど」
軽く挨拶だけして戻ろうとしていたが、ギルバートが大きな体を縮めて、不思議そうな顔で首を傾げたので足が止まった。
「大公様は、他人に肌を見られたり、触れられるのをお嫌いで、着替えは絶対お一人でされるのです」
「……え?」
「そうですか……? いや……そうでしたか」
何やらウンウン頷いたギルバートは、にっこりと嬉しそうな顔で笑う。意味の分からないステファンは、もしかしたら揶揄われたのではないかと悟った。
リュシアンは気まぐれで遊び好きな人に見える。退屈しのぎに遊ばれたのだろうと思った。
忙しそうなギルバートに別れを告げ、一階まで下りてきた時、ステファンは大事なことに気がつく。
「しまった……。早く帰ってくれと言うのを忘れていた。あー、俺はいったい何をしに……」
階段の手すりに背中を預け、ステファンは頭を抱えた。リュシアンの前にいると、いつもの冷静な自分が完全に壊れてしまう。危険な男に魅入られてしまった自分を恥じて、ステファンはため息をついた。
翌朝、まだ日の出ないうちに、神官がアナスタシアを迎えにきた。アナスタシアを見送るため、全員外に並び、入山の儀式を見守る。
花嫁のような白いドレス、白いベールを頭からかけられたアナスタシアを見て、誰もが美しいと声を漏らした。
儀式のために巡回をしていたステファンは、アナスタシアの姿を遠くに見る。今後のことで頭がいっぱいだった。ふと視線を感じて目をやると、リュシアンがこちらを見ていることに気がつく。
何かあったのかと思い、ステファンはリュシアンの元へ足を向けた。
「何かありましたか?」
声をかけると、リュシアンは嬉しそうに口角を上げる。
「いや、何もない。ただステファンを見ていた」
「はい?」
「君の仕事ぶりはいつ見てもいい。それに、今日は一段と悩ましげな横顔が気になってな」
「それは……責任者ですし、色々と対処することが……」
この男には何もかも見透かされているようで恐ろしい。何とか誤魔化そうとすると、リュシアンはもっと興味深げにじっと見つめてくる。
「あの、私の顔に何か? 今は婚約者である皇女殿下の出発儀式の最中ですよ」
「それはもちろん承知している。皇女は思っていたより元気そうだ」
「ではなぜ、私の方ばかりご覧になるのです? 何かするとでもお思いですか?」
「何かするつもりなのか?」
「……」
自分で話の主導権を握ったつもりが、またリュシアンに奪われてしまう。こんなところで襤褸を出すわけにいかず、ステファンは冷静になれと息を吸い込んだ。
婚約者ではなく自分の方ばかり見てくるリュシアンの態度はおかしい。確実に何か勘付いて、警戒していると考えて間違いなさそうだ。
落ち着けと頭の中で繰り返す。どうにか警戒を解き、邪魔をされないようにさえすればいい話だ。
「私はこの巡礼が無事に終わること。それだけを願っております」
「それは同意見だ。私も全て上手くいくよう、神殿に在らせられる神へ、ここから祈りを捧げている」
北部には強い創生神信仰が根付いており、民は熱い信仰心を持っていると聞く。
ステファンはそこまで強い信心を持っていない。だが今は、アナスタシアのために祈っている。
アナスタシアが無事に逃げ延びて、幸せになりますようにと。
「君と私は同じ気持ちのようだな」
「……? ええ、もちろんそうです」
参拝のことにしては何か意味ありげな台詞だと思ったが、ここは素直に頷いておく。これ以上、余計な詮索をされたくない。
「それは嬉しい」
なぜか頬を染めたリュシアンが、花が咲くような笑顔を見せてきた。とんでもない破壊力に、ステファンは思わず一歩後ろに退がる。答えを間違えたような気がしてならない。
「これより、アナスタシア皇女殿下が神殿へ参ります」
神官の声が響き、準備が整ったことが知らされる。
大事な時にリュシアンと話し込んでしまった。ステファンは慌ててアナスタシアの方に向かい、近くで頭を下げる。
アナスタシアは神官と共に、神殿へ向かう山門をくぐった。間も無くして濃い霧が立ち込め、アナスタシアの姿は一瞬にして消えてしまった。
神山は許された者以外が入ると、たちまち迷って帰れなくなると言われている。追いかけることはできず、ステファンはアナスタシアの無事を祈った。
ここからは慎重に進めなくてはいけない。ステファンはアルフレッドに向け手を上げる。神妙な顔で頷いたアルフレッドは、拳で左胸を叩いた後、馬に飛び乗って走り出した。
「彼は? 先日、庭園の警備をしていた者だな。どこへ向かったんだ?」
いつの間にか隣にリュシアンが立っており、耳元に話しかけてきた。ビクッと肩を揺らしたステファンは、ゴホンと咳払いをする。
「伝令です。無事入山したことを宮殿へ伝えるために行かせました」
「なるほど、そこまでしなくてはいけないのか」
「……ええ、指示がありましたので」
これは嘘だ。国内の小移動だからと、アナスタシアにボロ馬車を用意するような連中が、細かい進行を気になどしていない。面倒な儀式など、さっさと終わらせたいと思っているはずだ。
だから参拝の責任者であるステファンに、指示などほとんどなかった。通例通り終わらせてこいとしか言われていない。
アルフレッドには、森の中にある木こり小屋に移動してもらい、そこで待機してもらう。小屋の場所は事前に調べており、逃亡に必要なものを運び入れている。
「……なるほど、そういうことか」
「え?」
「大丈夫、上手くいくさ」
まるで頭の中を読まれたようなことを言われ、ステファン驚いて顔を上げる。リュシアンと目が合うと、ニコッと笑みを投げられた。目の奥に少しも感情が見えない。とにかくこの人を早く帰さなければいけないと息を吸い込んだ。
「あの、それではそろそろお見送りいたします」
「ん? 今見送ったではないか」
「大公殿下のことです。参拝からの戻りには時間がかかります。退屈ですし、お忙しいでしょうから。帝都でお待ちいただいた方がよろしいかと」
「いや、ここで待つ」
「え?」
「忙しくはないし、ステファンがいれば、退屈はしない。いいだろう?」
この男は何を言い出すのか。
社交的な笑顔を顔に貼り付けているが、ステファンの口元はヒクヒクと揺れた。早く帰ってくれと、喉から声が溢れ出しそうになる。
「い……いいかと言われたら、同意しかねるところなのですが……私にも色々と……」
「待機中は全員自由時間と聞いた。ここは小さい町だが、楽しめそうだ。ステファン、案内してくれ」
遠回しに断ろうとするステファンの意見など、素知らぬ顔で風に流し、リュシアンは歩き出す。どうやってこの男をここから遠ざければいいのか。
目眩を感じたステファンは、静かに頭を抱えた。
部屋で休んでいるアナスタシアの様子を見に行くと、待っていましたとばかりにステファンは部屋へ引き入れられた。
「どういうことよ! 聞いていないわ、あの方が来るなんて!」
「落ち着いてください。冷静に考えましょう」
「大公殿下の目的はなんですか? もしかして、アナスタシア様を監視するために……」
室内の警備担当として、アルフレッドを置いていたので、彼も話に入ってきた。
「そうだな。どう見ても歓迎されていないと分かって、直々に監視をしに来たのかもしれない。私が交渉してどうにか帰らせます」
神殿参拝の一行に合流したリュシアンは、そのまま滞在用の邸にまで入ってきて、今は二階を占領している。使わせてもらうぞと言われて、ステファンの立場では断ることができなかった。
「とにかく、予定通りに。明日アナスタシア様は神官と共に神殿へ。アルフレッドは、伝令として皇宮へ向かってもらう」
ステファンが流れを確認すると、アナスタシアとアルフレッドは覚悟したように頷いた。アルフレッドは伝令役だが、途中の隠れ家に身を潜め、アナスタシアと合流するのを待つことになっている。
ステファンは街に残り、色々と調整する必要があるのだが、リュシアンのせいで頭が痛いことになった。
ステファンが額に手を当てていると、アナスタシアが神妙な面持ちで近寄ってきた。
「ステファン、もう一度聞かせて。私達が逃げた後、貴方の身は大丈夫なのよね?」
「ええ、ご心配には及びません。皇宮へは戻らず、他国にいる親類の元へ身を寄せるつもりです。前々から申していた通り、ヘイズ家に窮屈な思いを感じており、機会があれば離れたいと思っておりました。財産は全て兄のものですし、それならいっそ、本当の両親がいる場所へ戻りたいとも考えております」
もちろん嘘だが、ステファンは用意していた笑顔を貼り付ける。大変なことをしようとしているのは、アナスタシアなのだ。心残りなどしている場合ではない。何も考えず、飛び立ってほしい。ステファンはそう思っていた。
「そう……それならよかった。皇宮での窮屈な暮らしも、ステファンが力になってくれたから乗り切れたのよ。感謝してもしきれないわ」
「それなら、幸せになると約束してください」
ステファンの言葉に、アナスタシアはポロリと涙をこぼした。横にいたアルフレッドがアナスタシアを支えて慰める。
「アルフレッド、頼んだぞ」
「……はい。もちろんです」
アルフレッドと目が合うと、その奥に懺悔の色が見えた。籠の鳥で世間知らずのアナスタシアと違い、アルフレッドは若いが、同じ騎士として状況を理解している。ステファンの嘘を見抜き、行く末を悟っているのだろう。決意を込めた視線を送ると、アルフレッドは小さく頷いた。
段取りを確認した後、二人を残し、ステファンは部屋を出た。
まずは、向こうの動向を探り、できるだけ早めに対処しておく必要がある。やってやるぞとステファンは鼻息を荒くし、二階へ向かうため階段を上った。
二階の廊下を歩き、リュシアンがいるはずの部屋の前に立つ。息を整えてからドアをノックすると、すぐに入ってくれと返事があった。
「失礼します」
室内を見渡したが人影がない。窓が開いており、柔らかな風が吹いてきて、ステファンの髪を揺らした。
「こっちだ」
「……皇女殿下護衛騎士のヘイズです。今後のことで話がありまして……」
衝立の奥から声がかかり、見える位置まで移動すると、飛び込んできた光景にステファンは息を呑む。
「突然同行を申し出て悪かったな」
「…………」
リュシアンがステファンに背を向けて着替えていた。上半身は何も身に着けておらず、透き通った白い肌が目に飛び込んでくる。いつも結んでいるリュシアンの長い髪が腰の位置まで流れ、窓から入ってきた風にふわりと揺れる。日焼けを知らないような肌に、銀色の美しい髪はよく似合う。芸術作品のような美しさを目の前にし、ステファンはすっかり魅了されてしまう。
言葉が出ないステファンに気がついたリュシアンが、ゆっくりと振り返ってきた。
「聞いているのか? 食事や身の回りのことはこちらで用意する。特別な手配は必要ない」
「……は……はい! 失礼しました。お着替え中とは知らずに!」
リュシアンの言葉にハッと気がついたステファンは、慌てて目線を下に移動させ、軽く頭も下げた。頬が熱くなっているのを感じ、しっかりしろと自分に言い聞かせる。
「構わない。呼んだのはこちらだ。そうだ、ちょうどいい。今はギルを外へ行かせているんだ。着替えを手伝ってくれないか?」
「はい……分かりました」
リュシアンが近くの椅子に掛けてあったシャツを指さしたので、ステファンは静かにそれを手に取る。指で触れただけで分かる上質なものだ。サッと広げてリュシアンの背中に乗せると、彼は慣れた所作で袖に手を通す。近くで見ると、生まれながらに高貴な人だと改めて思う。
リュシアンの後ろ姿に変な色香を感じてしまったステファンは、頭の中でひたすら首を振り、別のことを考えようと努める。
「ステファン……ボタンを」
「はい」
大公家の主なら、自分でボタンを留めたことなどないだろう。当たり前のように声を掛けられたので、リュシアンの前に移動したステファンは平静を装ってボタンに手をかける。
「慣れているな」
「はい、義父の着替えをよく手伝っていましたから」
騎士たるもの、何事も冷静に、平常心で取り組まなければいけない。ステファンは黙々とシャツのボタンを留めていく。
「綺麗だ」
「ボタンの留め方ですか? 特に変わったことは……」
「それもそうだが、ステファンの目だ。近くで見ると、瞳が紫に見える」
「あ……それは、私は碧眼ですが色が薄いので、感情によって色が濃く見えることが……」
手先に集中していたので、顔を上げると思っていたよりも近くにリュシアンの顔があった。ステファンの心臓はドクンと大きく揺れ、目が離せなくなる。
「ん……? もっと濃く……美しい紫に変わったぞ。それはどんな感情なんだ?」
「そ……その……緊張を……」
リュシアンの手が顔に近づき、長い指が目元に触れた。ステファンの肩はビクッと揺れ、心臓の音が激しくなる。
「緊張か……そんなに緊張せずとも、もっと気を緩めてもいい」
「そう言われましても……あ、あ……あのっ!」
まるで神に魅入られるように、気持ちを委ねてしまいそうになった。途中で気がついたステファンは、最後のボタンを留めて、リュシアンから離れた。
「様子を……私は、大公様の様子を確認しにきただけですので、こっここれで!」
もうだめだ。頭の中は混乱で埋め尽くされ、逃げることでしか自分を守れない。リュシアンは魔性という言葉がよく似合う。危険な術にでもかかったように、目が離せなくなった。
はぁはぁと肩で息をしながら、失礼しますと言ってステファンは部屋を出ていく。目の端で、リュシアンが揶揄うように笑っている姿が目に入ったので、余計に顔が赤くなってしまった、
「おっと、ヘイズ卿。いらしていたのですね」
急いでドアを開けると、ちょうどお茶を持ってきたギルバートと出くわした。
「は、はい。不便がないか、様子を見に……。大公殿下はちょうど着替えていらっしゃったので、少しお手伝いをしてまいりました」
「主人の着替えを手伝われたのですか?」
「え、ええ。そうですけど」
軽く挨拶だけして戻ろうとしていたが、ギルバートが大きな体を縮めて、不思議そうな顔で首を傾げたので足が止まった。
「大公様は、他人に肌を見られたり、触れられるのをお嫌いで、着替えは絶対お一人でされるのです」
「……え?」
「そうですか……? いや……そうでしたか」
何やらウンウン頷いたギルバートは、にっこりと嬉しそうな顔で笑う。意味の分からないステファンは、もしかしたら揶揄われたのではないかと悟った。
リュシアンは気まぐれで遊び好きな人に見える。退屈しのぎに遊ばれたのだろうと思った。
忙しそうなギルバートに別れを告げ、一階まで下りてきた時、ステファンは大事なことに気がつく。
「しまった……。早く帰ってくれと言うのを忘れていた。あー、俺はいったい何をしに……」
階段の手すりに背中を預け、ステファンは頭を抱えた。リュシアンの前にいると、いつもの冷静な自分が完全に壊れてしまう。危険な男に魅入られてしまった自分を恥じて、ステファンはため息をついた。
翌朝、まだ日の出ないうちに、神官がアナスタシアを迎えにきた。アナスタシアを見送るため、全員外に並び、入山の儀式を見守る。
花嫁のような白いドレス、白いベールを頭からかけられたアナスタシアを見て、誰もが美しいと声を漏らした。
儀式のために巡回をしていたステファンは、アナスタシアの姿を遠くに見る。今後のことで頭がいっぱいだった。ふと視線を感じて目をやると、リュシアンがこちらを見ていることに気がつく。
何かあったのかと思い、ステファンはリュシアンの元へ足を向けた。
「何かありましたか?」
声をかけると、リュシアンは嬉しそうに口角を上げる。
「いや、何もない。ただステファンを見ていた」
「はい?」
「君の仕事ぶりはいつ見てもいい。それに、今日は一段と悩ましげな横顔が気になってな」
「それは……責任者ですし、色々と対処することが……」
この男には何もかも見透かされているようで恐ろしい。何とか誤魔化そうとすると、リュシアンはもっと興味深げにじっと見つめてくる。
「あの、私の顔に何か? 今は婚約者である皇女殿下の出発儀式の最中ですよ」
「それはもちろん承知している。皇女は思っていたより元気そうだ」
「ではなぜ、私の方ばかりご覧になるのです? 何かするとでもお思いですか?」
「何かするつもりなのか?」
「……」
自分で話の主導権を握ったつもりが、またリュシアンに奪われてしまう。こんなところで襤褸を出すわけにいかず、ステファンは冷静になれと息を吸い込んだ。
婚約者ではなく自分の方ばかり見てくるリュシアンの態度はおかしい。確実に何か勘付いて、警戒していると考えて間違いなさそうだ。
落ち着けと頭の中で繰り返す。どうにか警戒を解き、邪魔をされないようにさえすればいい話だ。
「私はこの巡礼が無事に終わること。それだけを願っております」
「それは同意見だ。私も全て上手くいくよう、神殿に在らせられる神へ、ここから祈りを捧げている」
北部には強い創生神信仰が根付いており、民は熱い信仰心を持っていると聞く。
ステファンはそこまで強い信心を持っていない。だが今は、アナスタシアのために祈っている。
アナスタシアが無事に逃げ延びて、幸せになりますようにと。
「君と私は同じ気持ちのようだな」
「……? ええ、もちろんそうです」
参拝のことにしては何か意味ありげな台詞だと思ったが、ここは素直に頷いておく。これ以上、余計な詮索をされたくない。
「それは嬉しい」
なぜか頬を染めたリュシアンが、花が咲くような笑顔を見せてきた。とんでもない破壊力に、ステファンは思わず一歩後ろに退がる。答えを間違えたような気がしてならない。
「これより、アナスタシア皇女殿下が神殿へ参ります」
神官の声が響き、準備が整ったことが知らされる。
大事な時にリュシアンと話し込んでしまった。ステファンは慌ててアナスタシアの方に向かい、近くで頭を下げる。
アナスタシアは神官と共に、神殿へ向かう山門をくぐった。間も無くして濃い霧が立ち込め、アナスタシアの姿は一瞬にして消えてしまった。
神山は許された者以外が入ると、たちまち迷って帰れなくなると言われている。追いかけることはできず、ステファンはアナスタシアの無事を祈った。
ここからは慎重に進めなくてはいけない。ステファンはアルフレッドに向け手を上げる。神妙な顔で頷いたアルフレッドは、拳で左胸を叩いた後、馬に飛び乗って走り出した。
「彼は? 先日、庭園の警備をしていた者だな。どこへ向かったんだ?」
いつの間にか隣にリュシアンが立っており、耳元に話しかけてきた。ビクッと肩を揺らしたステファンは、ゴホンと咳払いをする。
「伝令です。無事入山したことを宮殿へ伝えるために行かせました」
「なるほど、そこまでしなくてはいけないのか」
「……ええ、指示がありましたので」
これは嘘だ。国内の小移動だからと、アナスタシアにボロ馬車を用意するような連中が、細かい進行を気になどしていない。面倒な儀式など、さっさと終わらせたいと思っているはずだ。
だから参拝の責任者であるステファンに、指示などほとんどなかった。通例通り終わらせてこいとしか言われていない。
アルフレッドには、森の中にある木こり小屋に移動してもらい、そこで待機してもらう。小屋の場所は事前に調べており、逃亡に必要なものを運び入れている。
「……なるほど、そういうことか」
「え?」
「大丈夫、上手くいくさ」
まるで頭の中を読まれたようなことを言われ、ステファン驚いて顔を上げる。リュシアンと目が合うと、ニコッと笑みを投げられた。目の奥に少しも感情が見えない。とにかくこの人を早く帰さなければいけないと息を吸い込んだ。
「あの、それではそろそろお見送りいたします」
「ん? 今見送ったではないか」
「大公殿下のことです。参拝からの戻りには時間がかかります。退屈ですし、お忙しいでしょうから。帝都でお待ちいただいた方がよろしいかと」
「いや、ここで待つ」
「え?」
「忙しくはないし、ステファンがいれば、退屈はしない。いいだろう?」
この男は何を言い出すのか。
社交的な笑顔を顔に貼り付けているが、ステファンの口元はヒクヒクと揺れた。早く帰ってくれと、喉から声が溢れ出しそうになる。
「い……いいかと言われたら、同意しかねるところなのですが……私にも色々と……」
「待機中は全員自由時間と聞いた。ここは小さい町だが、楽しめそうだ。ステファン、案内してくれ」
遠回しに断ろうとするステファンの意見など、素知らぬ顔で風に流し、リュシアンは歩き出す。どうやってこの男をここから遠ざければいいのか。
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「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。
キノア9g
BL
※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。
気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。
木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。
色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。
ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。
捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。
彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。
少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──?
騎士×妖精
「これからも応援してます」と言おう思ったら誘拐された
あまさき
BL
国民的アイドル×リアコファン社会人
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学生時代からずっと大好きな国民的アイドルのシャロンくん。デビューから一度たりともファンと直接交流してこなかった彼が、初めて握手会を開くことになったらしい。一名様限定の激レアチケットを手に入れてしまった僕は、感動の対面に胸を躍らせていると…
「あぁ、ずっと会いたかった俺の天使」
気付けば、僕の世界は180°変わってしまっていた。
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初めましてです。お手柔らかにお願いします。
ガラスの靴を作ったのは俺ですが、執着されるなんて聞いてません!
或波夏
BL
「探せ!この靴を作った者を!」
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日々、大量注文に追われるガラス職人、リヨ。
疲労の末倒れた彼が目を開くと、そこには見知らぬ世界が広がっていた。
彼が転移した世界は《ガラス》がキーアイテムになる『シンデレラ』の世界!
リヨは魔女から童話通りの結末に導くため、ガラスの靴を作ってくれと依頼される。
しかし、王子様はなぜかシンデレラではなく、リヨの作ったガラスの靴に夢中になってしまった?!
さらにシンデレラも魔女も何やらリヨに特別な感情を抱いていているようで……?
執着系王子様+訳ありシンデレラ+謎だらけの魔女?×夢に真っ直ぐな職人
ガラス職人リヨによって、童話の歯車が狂い出すーー
※素人調べ、知識のためガラス細工描写は現実とは異なる場合があります。あたたかく見守って頂けると嬉しいです🙇♀️
※受けと女性キャラのカップリングはありません。シンデレラも魔女もワケありです
※執着王子様攻めがメインですが、総受け、愛され要素多分に含みます
朝or夜(時間未定)1話更新予定です。
1話が長くなってしまった場合、分割して2話更新する場合もあります。
♡、お気に入り、しおり、エールありがとうございます!とても励みになっております!
感想も頂けると泣いて喜びます!
第13回BL大賞にエントリーさせていただいています!もし良ければ投票していただけると大変嬉しいです!
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
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