二十二年前の君にも、愛していると伝えたい

朝顔

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前編

前編①

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 ピリつく痛みが全身を覆い、小刻みに震える指先からは、薄っすら煙が上がっている。
 鏡に映るのは、遠い昔に見た自分。
 もうとっくに忘れていた顔。
 ヨランはこれが現実なのかと確かめるために、自分の頬に触れる。
 張りがあって柔らかな感触を懐かしく感じた。
 いまだに体は痺れていて、頭から衝撃を受けた感覚が忘れられない。
 これが死だということを、嫌というくらい実感した。
 だが、死から蘇ったというのとはまた違う。
 死して戻った、というのが正しいだろう。
「戻った……戻ったんだ。二十二年前に……」
 ヨランは鏡の中の自分に向かって、確かめるように口を開いた。
 ひどく頼りない顔だ。
 空色の瞳は不安げに揺れている。
 薄紅色の髪は記憶にあるより長く、後ろで緩く結んでおり、波打つ後れ毛は頬にまで掛かっていた。
 昔から女のようだと言われることが多かったが、そこに幼さが加わり、何とも頼りない顔に見える。
 こんな顔だったのかと思いながら、鏡に触れゴクリと唾を飲み込む。
 空気とともに唾液が喉を通る感覚がして、やっと視界がハッキリと見えるようになった。
 胸に手を当てたヨランは、時を遡っても揺るぎない意志を感じ取った。
 
——大丈夫だ。全て覚えている。
 
 頭に衝撃を受けたので、どうにかなってしまったかと思ったが、正常に機能しているようだ。
 やるべき事をやる。
 そう何度も自分に言い聞かせるヨランの頭に声が響いた。
 愛しい人の声だ。
 ヨランは唇を噛んでから、呼びかけに応えるように、愛しい人の名を口にした。



「アーデルハイド、ヨラン・アーデルハイド!」
 名を呼ばれ、ヨランは足を止める。振り返り目を細めると、校舎の陰に親しい顔を見つけて笑顔になった。
「ジーナ」
 ジーナは長い黒髪を靡かせながら、ヨランの元へ走ってきた。ジーナは貴族学校初等部からの同級生で、ヨランが唯一心を許せる女性の友人だ。
「相変わらず、美しいわね。みんな貴方のことを見ているわよ」
「この時期、最上級生の制服が珍しいだけだろう。視線を集めているのは君だ。今期のクィーンに選ばれたのだから」
「やめて、クィーンの話をしたら、ハンカチを投げるわよ」
 ヨランを睨みつけながら、ジーナは隣に並んで一緒に歩き出す。男だが、細身で筋肉のつかないヨランと、体格がよく普段から鍛えているジーナでは、並ぶと明らかにジーナの方が逞しく見える。
 背もジーナの方が少し高いくらいだ。彼女は代々優秀な騎士の家系である、パラジット子爵家の令嬢だ。
 幼い頃から鍛錬を重ね、剣を持ったら並の男では到底敵わない。
 凛々しく美しい彼女は、男女ともに人気があり、どこを歩いても羨望の眼差しを受けていた。
 だが、本人は容姿より剣の腕を見てほしいタイプだ。この年のフェスティバルで、学内一美しい女性であるクィーンに選ばれたのを本気で恥だと思っている。
「それよりおめでとう。試験を突破して、第三騎士団への入団が決まったらしいな。パム教授への報告か?」
「ええ、ありがとう。そういうヨランは、裁判所の審問官に選ばれたじゃない。さすが学年一位ね」
「自分の実力ではないさ。思い切り叔父のコネを使ったよ」
「謙遜しないで。コネも実力のうちよ」
 鮮やかに笑ったジーナはいつもに増して美しい。エメラルド色の瞳は純粋で透き通って見える。
「私、結婚はしないつもりだし、騎士として上り詰めてみせるわ!」
 拳を掲げ、勇ましく宣言するジーナを見て、ヨランは目を細める。
「あれ、ヨラン。教授のクラスはこっちよ」
「ああ、もうなかなか来ることもないだろうから、校舎を見て回りたいんだ」
「そう……。じゃあまた、連絡するわ」
 笑顔で手を振り走っていくジーナの後ろ姿を見て、ヨランは複雑な思いに手で心臓を押さえる。
 五年後、順調に騎士として昇進をしていたジーナだったが、その道は突然断たれる。上官の騎士と不倫関係になり妊娠。二人とも騎士の位を剥奪される。怒ったパラジット子爵は、ジーナを男から引き離し、田舎に送ってしまう。
 ヨランは自分の仕事が多忙を極めていたため、ジーナにしばらく会えていなかった。彼女がそんな大変なことになっているのも気づかないまま、ジーナが首都を去ったことを知る。
 恥ずかしくて顔を合わせられない、妻と別れて君と結婚するつもりだという彼の言葉を信じてしまった私がバカだった、という手紙を受け取った。
 それ以来、何度手紙を送っても返事はなかった。
 唯一の友人との苦い別れ。
 それを思い出して目を閉じる。
 常日頃、男なんていらないと言っていたジーナは、本当は恐ろしいほどピュアで、安っぽい嘘に騙されてしまうのだ。
「……こっちも、何とかするつもりだが、また後だ」
 ヨランは制服のマントを翻して、ジーナとは別の道に向かって歩き出す。
 とにかく今は、本来の目的を果たさなければいけない。
そのために、ここへ来たのだから……。


 
 ヨランの暮らすエトワール王国は、大きな領土を持ち、周囲を高い山脈に囲まれている。豊富な水と、肥沃な大地に恵まれて、周辺国と争いつつも着々と発展してきた国だ。
 世界の創造神、女神イルナによって大陸や、生き物は創られたとされており、多くの人々は女神を信仰している。
 ヨラン・アーデルハイドは、エトワール王国の貴族、アーデルハイド子爵家の長男であるが、幼い頃に両親が事故死してしまう。一族の決定により叔父が爵位を継ぎ、ヨランは叔父夫婦に育てられた。
 名目上長子であるが、アーデルハイド家は、叔父夫婦の息子カイルが継ぐことになっていた。
 家を出て職員寮に入ったのが二十歳の時。貴族学校を主席で卒業、同時に叔父が裁判官として働いている王国貴族裁判所で、審問官として働き始めた。
 補佐として仕事を覚え、人手不足もあり、早々に一人で仕事を任されることになる。彼と出会ったのは、そんなヨランが初めて担当する事件だった。


 エトワール王立学校、貴族学校とも呼ばれ、初等部は六歳から十三歳、高等部は十四から二十歳まで、貴族の子息、息女が机を並べ勉学に勤しんでいる。
 今のヨランはちょうど卒業を迎えた年だ。
 一週間前に卒業式を終え、最上級生のほとんどは、卒業旅行に出掛けており、未来への期待で胸を膨らませている頃。
 かつてのヨランは旅行気分にはなれずに、静かに家で過ごしていた。
 だが、二度目の今回は違う。
 目的を達成するため、会わなければいけない人物がいる。
 ヨランは学生で溢れている校舎の廊下を抜けて、中庭を目指した。かつて一度だけ、ここで彼らを見たことがあった。親しげに肩を寄せ合い語り合う二人の姿をぼんやりと見下ろし、すぐに興味をなくして通り過ぎた。どうでもいい記憶だったはずなのに、なぜかその時のことを覚えていた。
 ここならいるかもしれないと思い、中庭に入るとすぐに、目的の人物を見つけた。しかもベンチに一人で座って本を読んでいる。これ以上ないチャンスに緊張が高まる。
 やるしかない。
 ヨランは息を吸い込んでから、笑顔を作った。
「やぁ、少しいいかな?」
「え……え、え、ぼ……僕ですか!?」
 突然話しかけたので、相手は驚いていた。それもそうだろう。一度も話したことがなく、この時は名前すら知らなかったのだ。
 彼はよほど驚いたのか、本をポトリと手から落とし、口を大きく開けている。
 柔らかそうな金髪、くっきりとした大きな青い目に小さな鼻と口、まるで小動物のように可愛らしい人だなと思った。
「私はヨラン・アーデルハイド。君はサイラス、サイラス・エドマンだね」
「は……はい、そうです。え……僕をご存知なんですか!? アーデルハイド先輩が? 本当に?」
 信じられないという顔のサイラスを見て、ヨランは作り笑顔をもっと濃くする。何とか自然に、良い先輩として近づく必要があるのだ。
「薬学のパム教授の講義を取っているね。来季の進路選択に向けて、後輩の指導係にならないかと誘われていたんだ。それで、君の話になって……どうかな? 私の指導生にならないか?」
「う……嘘……え? た、確かに取っていますけど、えっ……? だって、僕、万年ビリなのに、首席のアーデルハイド先輩が僕の指導係ですか!?」
 貴族学校には、指導生制度というものがある。卒業が近くなったら生徒に、勉強を教えたり、進路の相談に乗ったりと、上級生が面倒を見るという制度だ。
 これは在校生に限らない。卒業生でも、後輩を指導することは可能で、かつてのヨランはたくさんの後輩から指導希望の手紙をもらった。
 しかし、この頃のヨランは人と接するのが苦手で、基本的にジーナ以外の人間とは関わらなかった。そのため、教授からぜひやらないかと誘われたが断ったのだ。
 サイラスと全く接点がなかったので、今回この制度を利用することにしたのだ。
「教授から、君は才能があるのに活かしきれていないと聞いたんだ。私も色々悩んだ時期があるから、ぜひ君の指導係となって、卒業を見届けたい」
「そんな……そこまで言われたら……断れないです。僕でいいのか分からないですけど……それじゃ……よろしくお願いします」
 丁寧に頭を下げられて、ヨランは安堵の息を吐く。まずは第一歩、近づくことに成功した。
「よろしく」
 握手をすると、サイラスは恥ずかしそうに頬を染めていた。誰が見ても、胸が苦しくなりそうなほど可愛らしい。守ってあげたくなるとはこの事かもしれないと思った。
 儚げといえばそう見えなくもない。
 恥ずかしそうに頬を染めた笑顔の裏に、絶望的な苦しみがあるのか、ヨランには分からない。
 とにかく彼の苦しみは受け継がれることになる。二度と繰り返さないために元を断つのだ。
 サイラス・エドマンはヨランより一歳下の十九だ。そして彼の時間は十九で止まることになる。
 今から三ヶ月後、サイラスは自ら命を断つ。
 ヨランは彼に近づき、それを止めるためにここまで来たのだ。
「おい! 何してんだ!」
 サイラスと握手をしていたら、突然人影が飛び込んで来て、二人の間に入った。サイラスを後ろに隠すようにして、ヨランを睨みつける男。
 覚悟はしていたが、心臓が止まりそうになる。息を吸い込んだヨランは目の前の男を真っ直ぐに見つめた。
「上級生? なんで卒業したヤツがこんなところに……? サイラスに何をしたんだ!?」
 浅黒い肌に銀色の髪。
 燃えたぎる炎のような赤い瞳。
 懐かしい。
 初めて会った時、この目で見られた時のことが忘れられない。
 再び同じ目で見られることになるとは思わなかった。
 手負いの獣のような目が、やがて穏やかなものになり、情熱的な色に染まるところまで、全部、全部知っている。
「……俺はジェレミー・アイザック。サイラスと同クラスで幼馴染だ」
 誰より……。
 君のことは誰よりも知っている……。
 そう思っていた。
「上級生のヤツらは、だいたい上下関係を持ち出し近づいてくる。俺はもう何度もサイラスを救い出し……だっっ!!」
 ジェレミーを目の前にしたヨランは、何も言えなくなり、ただ彼の唇が勢いよく動くのを眺めてしまう。そんな時、ジェレミーの後ろで庇われているはずのサイラスが、彼の背中を叩いた。
「ちょっと、ジェレミー! 失礼なことを言わないで! この方はアーデルハイド先輩だよ。学年首席で卒業の真面目で優秀な方。あんなチャラチャラした先輩達と一緒にしたらダメだ」
 庇ったつもりが怒られている状況に、ジェレミーは面食らっている。頭をポリポリとかきながら、視線をヨランの方に向けた。
ヨランは口の端を上げ、にっこりと微笑む。
「よろしく、幼馴染のジェレミーくん」
 ジェレミーは目を瞬かせた後、軽く頭を下げてきた。
「失礼しました。ジェレミーは悪いヤツじゃないんですけど、心配症なんです。僕、トラブルに巻き込まれることが多くて……」
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