名もなき花は愛されて

朝顔

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番外編

【番外編】水

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 ピンと張りつめたような冷たい空気に、俺が吐いた白い息が煙のように広がった。
 その中を切り開くように駆け抜けていくと、見渡すかぎり緑の海のように広がった草原が見えてきて、思わず凄いという言葉がため息とともに口からこぼれた。

「シリル、飛ばしすぎだ」

 ずいぶんと先行していたのに、さすがのアイロスに簡単に追い付かれてしまって、俺はちょっと悔しくなった。

「もう来ちゃったんですか?先に待っていて驚かせようと思ったのに」

「あんまり無茶をしないでくれ。心臓がいくつあっても足りない」

 毎週末のレッスンでやっと馬に乗れるようになった俺は、早速アイロスと遠乗りに出掛けることになった。
 行き先は王都から少し離れた所にあるこのキロス草原で、初心者ならばまずこの辺りだとアイロスに決められた。
 どうせなら隣国に近い、ごつごつした岩が続く山岳地帯に行きたいと言ったが、だめだと一言で却下されてしまった。

 草原なんてと少しがっかりしていたが、澄んだ空気と美しい大草原は一瞬で俺の心を虜にした。
 アイロスが、用意してくれた牝馬のメリーの背中に乗って目を閉じると、さわさわという風が草を揺らす音と、虫や鳥の鳴き声に包まれた。
 こんな心が洗われるような体験ができるなんて、どうして早く始めなかったのか、今までの人生を悔やむ気持ちになった。

「少し休憩しよう」

 馬達を水場で休ませて、アイロスと地面に腰を下ろした。それほど長く乗っていたわけではないが、やはりお尻や太ももに疲労を感じていた。

 しばらく二人で並んで座って、ぼんやりと草原を眺めていた。言葉を発することもなく、ただ同じものを見つめているだけだったが心地よい気分だった。

 アイロスの横顔をちらりと覗き見た俺は、その美しさに見惚れて心臓の鼓動が早くなったのを感じた。
 アイロスと結婚して二ヶ月が過ぎ、日々愛されていることを感じていた。
 あまり表情が変わらなかったアイロスだったが、俺の読み取る力がついたところもあるが、何を考えているのかだんだん分かるようになってきた。

 だからこそ、少し心に引っかかることがあった。

 俺といる時はいつも表情が柔らかく感じるが、先日レナルドと庭を歩いているアイロスをふと見かけたことがあった。
 その時、ひどく冷たくて暗い表情をしていた。その顔が頭について離れないのだ。

 アイロスは過去を話したがらない。俺もしつこく聞くこともないが、背中の傷を見れば、想像を絶する苦しみと戦ってきたことは理解できる。
 もちろん、俺なんかよりレナルドとの付き合いの方が長いわけだから、彼には見せる顔というのもあるだろう。

 誰にでも知られたくないことはある。こんな風に一緒にいられることが俺にとって全てであるはずだ。だから、アイロスの過去も丸ごと愛したいと思うのは俺の独りよがりで、贅沢で図々しい考えなのだろう。

 傷をえぐるようなことはできないし、アイロスから何か話してもらえるのを待つしかない。
 いつも甘やかして愛してくれているが、もしかしたら俺は頼りないのかもしれない。最近はそんな気持ちがふつふつと湧いてきて、時折俺の胸をざわざわと荒らしていくのだ。

「シリル……?どうした?顔色が悪いな……」

「……え?そっ……そう?ちょっとお腹は痛いけど多分力を入れたから……」

「なっ……!体も少し熱いな……。気づかなくて悪かった。早く帰ろう」

「ええ!?もう?」

 俺のおでこに手を当てたアイロスは大変だ大変だと焦ったようにバタバタと帰り支度を始めた。
 もう少しゆっくりしたかったのに、心配性のアイロスのだめだめ攻撃にあって、結局そのまま帰ることになった。

 俺のことは顔が赤くなっただけで熱だなんだと大騒ぎするのに、自分は全然休みを取らないし、やっと取れた休みはこうして俺のために使ってくれる。
 嬉しいと思うと同時に申し訳なくなり、こっちこそアイロスの体が心配になるのだ。

 アイロスの力になりたい。俺はずっとそう思っていた。





「行ってらっしゃい」

「ああ、行ってくる。大人しく待っていてね」

 そう言って柔らかく微笑んだアイロスは馬車の中に入って、いつも通り出掛けていった。
 小さくなっていく馬車を見つめながら、俺から思わずこぼれたため息をレナルドは聞き逃さなかった。

「シリル様、いかがされましたか?朝からため息など……」

「……え!?いっ……いやぁ……別に……」

 相変わらず厚い前髪でレナルドの視線がどこにあるのか分からないが、優秀な執事は感情の変化も見逃さないようだ。

「………その、なんとなく……アイロスが冷たいような気がして………」

 少し迷ったが、人に聞いてみる手もあったかと、レナルドに軽く印象を聞いてみたが首をかしげられてしまった。

「はて、どの部分でしょうか?先ほども恒例の濃厚な朝の挨拶を私共の前で披露されていきましたが………」

「そっ…!そこは……いいんだけど……。その……よっ……夜が………」

「夜が?なんですか?」

 そこまで話してから、俺は何を人に聞こうとしているのかと正気に戻った。
 少なくともレナルドはまずいと、やっぱりなんでもないと言って笑ってごまかすことにした。

「………アイロス様はシリル様を大切にされてますよ。それは目に入れても痛くないほどに」

「………そうだよね。ありがとう、レナルド」

 馬車はすでに行ってしまった。でも俺はしばらくその場を動けずに、すっかり冷えてしまった手をぎゅっと握っていたのだった。




「夜に誘われなくなった?へぇーあーそう」

 俺が必死に口にした言葉を姉は何でもない事のように言って、これ美味しいわねとお菓子を食べ続けた。

「あーそうって……。すごく悩んでいるのに………」

 最近やたらとうちに入り浸っている姉は、毎日のように顔を出しては、ベラベラと好き勝手喋って満足したら帰っていく。
 今日は朝からもやもやしていたので、どうしたのと聞かれたので、心に引っ掛かっていることを口にしたのだ。

 こんなに大切にされて贅沢な悩みだと思うのだが、先週末、二人で遠乗りに出掛けてからアイロスはあまり俺に触れてこなくなった。毎日のように抱かれていたのに、夜も誘われることがなく、軽いキスをしてお休みと言って寝てしまう。
 朝だけはなぜか濃厚なキスをして出掛けていくが、帰ってきてたらあっさりと背を向けて寝てしまう。あんなにベタベタとしていたのに、仕事が忙しくて疲れているのかもしれないが、急に触れ合う機会が減ったのは寂しかった。

「マンネリじゃない?」

「まっ……!!」

 優雅にお茶を飲みながら姉はバッサリ切り捨ててきた。衝撃を受けた俺は手を震わせながら椅子から崩れ落ちそうになった。

「だって毎日同じ男を抱いていたら飽きるわよ。いくら美味い肉も毎日食べたら胃がもたれるってね。もともと女性もいけて、同じ女は抱かない人だったわけよ。お腹いっぱいって感じなんじゃない?」

「にっ……肉……飽きる……、お腹いっぱい……、そっ……そんな……」

「ふん!モテる男と結婚したんだから、それくらい我慢しなさいよ!」

「うっっ……」

 確かにアイロスはモテる、ひとたびパーティーに出れば既婚者だというのに、あっという間に女性に囲まれる。
 俺が一人でぼけっと立っていたら、近寄ってきた令嬢に、アイロス様はもともと女性がお好きだから、いつまでもつかしらなんて嫌みを言われたこともある。
 アイロスの愛を信じないわけではないが、小さな不安がベッドでアイロスの背中を見る度に増してきたのだ。

「あっ……レナルド!きょ……今日はいたのね。ひ…久しぶりね」

「……クロエ様、またいらっしゃっていたんですか?」

 ノックの音がして、ビクリと体が揺れた姉は、部屋にレナルドが入ってきたら慌てて立ち上がった。

「そっ……そういえば、フェリス劇団の公演チケットがあるんだけど……、よかったら……私と……」

 真っ赤な顔になって目線を泳がせて、髪をいじる挙動不審な姉を見て、俺はぽかんとしてしまった。

「申し訳ございません。何度もお断りして申し訳ないのですが、仕事が忙しいもので……」

 百戦錬磨のパーティークイーンだったはずの姉が、何を間違えてうちの執事をデートに誘って断られているのか疑問過ぎて言葉が出てこなかった。
 レナルドに断られて姉は分かりやすくしぼんでしまった。そうなのねと言いながら、机に突っ伏した。
 そんな姉の姿を見てレナルドはクスリと笑った。

「こんど凱旋公演があるルイス劇団の公演初日、王族スペースの席でしたら……休みをとってでも見てみたいですね…。まぁ、手に入ったらの話ですけど……」

「えっ………!」

 目を輝かせて顔を上げた姉の方をレナルドはもう見ていなかった。
 レナルドはシリル様これをと言って、俺の前にいつも通り紙の束を置いてきた。

「ああ、手紙か。ありがとう、今日もこんなにあるんだね」

「先週届いた分を配達の者が忘れていたようで、それも少し入っております。返事を出される際は私に申し付けてください」

「んっ……分かった。ありがとう」

「………なによその手紙の束。シリル、誰かと文通でもしているの?」

 俺とレナルドのやり取りをぼけっと見ていた姉が、不思議に思ったのか話に入ってきた。

「兄さんだよ。一度手紙を出したらどんどん来るようになってしまって困っているんだよ。こんなに筆まめな人だったなんて……」

「ああ……、マキシム兄さん、最近どうも部屋から出てこないと思ったら……。会いに行ってあげれば?ついでに剣の練習にでも参加してきたら?」

「いやぁ……まぁ……そうなんだけど。ちょっとね……」

「あんまり放っておくと暴走するわよ。頭の中、筋肉のバカだから」

 姉と兄はどうも気が合わないらしく、昔から仲があまり良くない。姉は兄のことを暑苦しくて面倒だとバカにするし、兄は姉を理解できないと言って、いつも喧嘩の仲裁に入るのは俺の役目だった。
 俺は歳が離れた兄とは喧嘩をすることはなかった。俺が幼い頃から兄は後継ぎとして忙しくしていたし、一緒にいられるときはよく甘えていた。強くて男らしい兄は俺の自慢だったのだ。

 そして姉の予言は当たることになる。
 週の半ば、午後になって執務室で書類の整理をしていた俺は玄関がやけに騒がしいことに気がついた。
 今日アイロスはレナルドと領地に行っていて帰りは早いと聞いていたが、やけに早すぎると思ったのだ。

「誰かお客様?」

 俺がぴょこんと玄関に顔を出したら、使用人達がシリル様、お客様がと慌てて走ってきた。
 馬から飛び降りてきた人物を見て、俺はあっと声を出して驚いた。まさか、ここまで来てしまうとは思っていなかったのだ。

「シリル!元気そうだな。心配したぞ!」

「にっ…兄さん!なっ……なんで急に……」

 騎士団の鉄が入った大きな靴をガチャガチャと鳴らしながら、走ってきた兄は俺をひょいと持ち上げて抱きしめてきた。

「先週送った手紙の返事がなかったから、心配していたんだ。聞けばクロエは毎日のように入り浸っていると言うじゃないか!それなら、俺が会いに来ても問題ないだろう?」

「あ……いや。まぁ……う……うん」

「ああ……シリル。男の元に嫁いだだけでも腹立たしいのに、こんなに可愛くなって……」

 一緒に暮らしていたときのように、頬擦りして可愛がってくる兄に恥ずかしくなったが、懐かしさを感じて俺の胸は温かくなった。

「せっかく来たんだから、お茶でもいただこう」

 お客様なのに、自らそう言って兄は俺を抱えたまま屋敷の中にずんずんと入っていってしまった。
 カラッとした明るい性格の兄は皆から好かれている。兄の強引さがまた懐かしくなって、微笑みながら屋敷の中を案内したのだった。



 □


「それで、公爵に教えてもらって、乗馬は上達したのか?」

「うん。もう遠乗りにも行けるようになったし……。お願いしたのに突然断ってごめんね」

 屋敷のティールームに通されて、兄は庭を見ながら、さすが公爵家は立派だなとため息混じりに呟いた。

「いや、クリムゾン公爵の気持ちも分かる。公爵とは歳も同じだからな」

 俺が謝ると兄は歯を見せながら明るい笑顔を返してくれた。

「……分かるって。兄さんが、アイロスの気持ちを?」

「そうだ、騎士団の馬術場は埃っぽいし、汚れているからな、お綺麗な公爵様は好かなかったんだろう」

「え……?そ…そう……かな」

「仕事上、王族や高位の貴族との付き合いは多いから、彼らの考えはよく分かるんだ」

「すっ……すごい、さすが……兄さん!」

 今日も鍛えぬかれた逞しい体は、筋肉が盛り上がっていてカッコよかった。俺は小さい頃から兄のようになりたくて、いつも憧れていたのだ。兄ならこの胸のモヤモヤを一蹴してくれそうな気がして、俺は口を開いた。

「兄さん……、相談があるんだけど……」

「なんだ?」

「俺って……頼りないかな……。アイロスのこと、力になって、もっと支えたいと思っているんだけど……、一人で空回りしている気がして……」

 なるほど、と言って兄は眉間にシワを寄せた。兄と比べたら、痩せっぽっちで頼りないのなんて一目瞭然だ。兄にもそう言われるかと思って俺は下を向いた。

「笑っていろ」

「へ?」

「好きな相手が笑ってくれていたら、それだけで十分だ。どんなものより力になる。お前だってそうだろう」

「兄さん……」

 兄のシンプルすぎる言葉に驚いたが、それはモヤモヤとしていた俺の胸を一言で晴れにしてくれた。やはり兄はすごい人なのだと、感動で少し涙が出そうなくらいだった。

「ありがとう……兄さん、後さ……、兄さんは毎日お肉を食べたら……飽きたりする?」

「肉?」

 これは聞くつもりがなかったが、アドバイスに感動した俺は、つい口からこぼれるように出してしまった。

「いや、飽きない。むしろ、肉がないと食事を食べた気にならないからな。毎食でもいいくらいだ」

「毎食………。そっ……そうか。ありがとう」

 アレを食事に例えて聞くのはちょっと無理があったようだった。これに関しては、自分で解決しなければいけないのだろう。

「申し訳ないですが、今日の夕食は魚料理なので、ご期待には添えませんね。そろそろお帰りいただいて、ご自宅でお食べいただくのがよろしいかと」

 気がつくと、部屋の入口にアイロスが立っていた。いつからか話を聞いていたのか、心臓がドクドクと騒ぎだした。

「これは、アイロス様!ご無沙汰しております。今日はシリルの顔を見に来たのです。元気そうで安心しました」

「そうですか。ずいぶんと熱心にお手紙を頂戴しているので、その辺りは分かっておられるかと……」

「いやいや、なかなか、手紙では分からないもので、これからも、たまにお邪魔しますので!よろしくお願いします」

「…………そうですね。年に一度くらいでしたら……」

「はっはっはっ!またご冗談を、噂と違い面白い方だな!シリル、それでは俺は失礼するよ。また仕事の休みには顔を出すから」

 白い歯を輝かせながら、別れの挨拶を言って俺の頭を撫でた後、兄は颯爽と帰っていってしまった。
 兄が出ていった後、俺に近寄ってきたアイロスは、兄のように頭をグリグリと撫でてきた。

「あ……アイロス、お帰りなさい」

「……ただいま。まったくシリルの兄は全然話が通じない。俺の苦手なタイプだ」

「ちょっと強引ですけど、明るくて良い人ですよ」

 俺以外の人間なんてどうでもいいとサラリと言ってしまうアイロスにも苦手と思わせるとは、やはり兄はさすがだと、俺はこっそり思ってしまった。

「それより、シリル。のんきに旅行に行っていたうちの侍医をやっと見つけて連れてきた!早く診てもらおう」

「は?え?どういう……?」

 いきなり医者を呼ばれて、訳もわからず部屋から連れ出された。
 手を引かれて寝室に連れていかれると、白髭の年老いた医師がにこにこした顔で待っていた。

「マーズ先生、妻の様子がおかしいんだ。急にお腹を痛がったり、熱っぽくて体温も高くて……これはもう……あれだとしか……」

「ええ!?なっ…なに?あれって?え?」

 どこも、悪くないのに、診察させようとするアイロスに混乱しながら、椅子に座らされたところで、マーズ医師はうんうんと言って頷いた。

「はいはい、公爵。まず落ち着いてくださいね。これからいくつか質問させてもらうけどいいかな?シリルくん?」

「は……はい」

「今はお腹は痛い?食欲は変わりない?吐き気はある?」

「お腹は痛くないですし、食欲もいつも通りです。吐き気もない……ですけど」

「まぁ、質問するまでもなく、分かるんだけど、シリルくんはただの風邪だね。腹痛と熱は今はもう大丈夫そうだし、そこは問題ないね」

 まさか、心配性のアイロスが軽い風邪で医者を連れてきてしまったのかと思ったが、先生の言葉を聞いたアイロスは力が抜けたようになって座り込んでしまった。

「ふたりとも、教会に置いてあった同性婚についての冊子は読んだ?正直いうと、情報が広がってないから、あれくらいしかお知らせするものがなくてね」

「……冊子?ですか?急いでいたから何も……」

「そうか、じゃあ、説明すると、シリルくんが妊娠するためには、女神の季節の満月に性交を行う必要がある。祝福を受けて女性の力も得たが、普段は男性の方が強い。満月に体の中の女性の力が高まるので、その時期にだけ、妊娠の可能性があるのだよ。一般的でないから勘違いされることが多いんだ。二人は新婚だし、女神の季節はまだ先だろう。だから、シリルくんは妊娠はしていない」

「そうですか…………。って!!俺、もしかして、そう思われていたの!?」

「………あれだけ毎晩していて、お腹が痛いといわれたら……、そう思うだろう。そうか、先に調べておくべきだった」

 どうやら、早とちりだったらしく、アイロスはボソボソと気まずそうに小さい声で答えた。

「マーズ先生、もし兆候があったら気を付けることはないですか?」

「実は男性の妊娠自体は女性より楽なんだよ。高い確率で妊娠して、お腹もさほど大きくならずに出産も軽い痛みだと言われている。妊娠期間中も夫婦生活は制限することもないし、気をつけるとしたら食べ過ぎくらいだね」

「へぇ……」

 自分の身に起こることながら、実感が湧かなくてそうなんですかとしか言えなかった。
 アイロスの方は覚悟していたのか、ずいぶんと気が抜けたような、ぼけっとした顔になっていた。

 マーズ医師をお見送りして、屋敷の中はやっと静かになった。寝室に戻ると、なんとも言えない顔でベッドに座っているアイロスの姿が見えて、俺はその横に座った。

「子供ができたと思ってたんですね。だから、俺にあまり触らないようにしていたの?」

 俺は呆けたように遠くを見つめているアイロスの顔を覗き込んで、最近の冷たい反応ついて聞いてみることにした。

「……そうだ。シリルの体が心配で……、シリルに触れたら……我慢できないから」

「赤ちゃんがいなかったのは残念ですけど、俺もちゃんと調べていなくてごめんなさい」

「いや、それは俺がちゃんと調べておくべきだった」

 やっと俺の方を向いてくれたアイロスの手に、俺は自分の手をゆっくりと重ねた。

「アイロスが触れてくれなくて……、もしかして嫌われたのかと思って……、俺不安だったんです」

「シリル、そんなこと……!そんなことあるわけがない!……すまない。言葉足らずだった。不安にさせてしまうなんて」

 俺の手をぐっと引いてアイロスは、がばっと抱きしめてきた。その力強さと温もりは求めていたもので、俺も背中に手を回して応えた。

「アイロス……、俺の中にきて……。ずっと寂しかった。もう、我慢できない」

「シリル……俺もだ……シリル!」

 すぐに噛みつくようなキスが始まって、ベッドに押し倒された。服を脱ぐのももどかしいと、引き裂くようにシャツを破かれて、アイロスは俺の乳首にも噛みつくように吸い付いてきた。そのまま、俺の胸に赤い痕を残していくのだろう。すっかり消えてしまったので、早くアイロスの色に染めてほしくて、俺は喘ぎながらアイロスの頭に手を這わせたのだった。



 □



「っ……あぁ……」

 もう何度目か分からない。
 シリルの中に熱を注ぎ込むと、わずかに掠れた声が聞こえた。
 とっくに意識をなくしているが、俺が中で果てると切ない声を漏らすので、それを聞いただけでまた熱くなってくるのを感じた。
 久々の情交に我を忘れた俺は、無我夢中でシリルを抱いた。
 何度も体位を変えて、煽るだけ煽り、細い体にこれでもかと熱をぶつけた。
 イキすぎて出るものがなくなったシリルは、空っぽのまま達して気を失ってしまった。

 同性婚は今は多くなりつつあるが、まだまだ男女のカップルの方が一般的で、妊娠についてもあまり積極的に語られるものではなかった。すっかり普通の男女と同じものだと思っていたので、シリルが遠乗りで、お腹が痛いと言い出した時は心臓が止まりそうになった。

 早く子供が欲しいと思っていた。それはシリルの心を自分に繋ぎ止めるための欲だと思っていたが、実際にその兆候を見たら、喜びに溢れている自分に驚いた。
 同時に、自分のような人間が父親になるということが、少しだけ怖くなった。俺は父のようになるつもりはないし、絶対ないと思っている。しかし、もし手が出てしまったら、そこまで考えて何度も否定してというのを繰り返していた。
 シリルに触れて、押し倒したくてたまらなかったが、もしひどくしてシリルと子供を傷つけてしまったらと、必死に我慢してきたのだ。
 こんな時に限って、侍医のマーズ先生は旅行中で不在で、すぐに確かめることもできない。いい加減なことを言ってシリルを不安にさせたくなかった。仕事に行く前だけは、しばらく離れて冷静になれるので無我夢中に唇を求めた。

 なんとかマーズ先生を掴まえて診察してもらえば、なんとも知識不足の勘違いで、一気に体の力が抜けてしまった。
 ひどい空回りをしていた俺を、シリルは優しく笑って包んでくれた。

 シリルの中からズルリと自身を引き抜くと、自分が放ったものがボタボタと落ちてきた。どれだけヤッたのかと、底無しの自分に驚きながら、用意していたものでシリルの体を清めた。
 シリルの寝顔を見ながら、指で可愛い鼻や唇をいじっていたら、どうやらそのまま寝てしまったらしい、気がつくとすっかり夜も深くなっていた。
 横に寝ていたはずの温かさがなくなっていて、俺はシーツの中を探すように手を動かしたが、なにも掴めなかった。

「……アイロス?起きたの?」

「シリル……、まだ夜だろう。一人で抜け出すなんて……」

「ごめん、喉が渇いていて……」

 シリルを求めて寝ながら手を伸ばすと、カップを置いたシリルはするりと俺の胸の中に帰ってきた。

「ねぇ、見て。今日は満月なんだよ。女神の季節じゃないけど、なんだか不思議だね」

「……シリル、話しておきたいことがある」

 俺の真剣な空気を察知したのか、シリルが緊張したように俺を見上げてきた。
 その緑の瞳に自分が映っているのを確認して、俺は静かに口を開いた。

「俺の背中の傷、もう分かっているだろうけど、つけたのは俺の父だ。折檻に鞭を使う男で。俺にとってはこの家に巣食う怪物だった。シリルと出会ったことで、俺は父に負けないように強く心を持つことができるようになった」

「え……?って……あのルーシーに?」

「ああ、力をもらったんだ」

 過去の記憶が曖昧なシリルは不思議そうな顔をしていた。

「だけど、子供ができたかもしれないと思ってから、不安になったんだ。自分がちゃんとした父親になれるのか……。父と同じようなことを……」

「しないよ」

 俺を見るシリルの目は力強かった。揺るぎない意思を感じて引き込まれるようにその目を見つめてしまった。

「アイロスは子供の頃の俺に、自分も痛みを知っているから傷つけないって言ってくれたでしょう。アイロスのお父様はひどい人だったけど、アイロスとお父様は同じ人じゃない。アイロスはアイロスだ」

「……シリル」

「ちゃんとした父親になれるかなんて、誰もが思うことですよ。みんな最初から立派な父親じゃない。……俺だってそう思うし。俺も父親になるんだから!」

「………ん?」

「だってそうでしょう。俺は男なんだから、母親ってわけじゃないし、同じ父親ですよ。だから、二人で立派じゃなくても良い父親になれればいいとなって……、あれ?なんか俺……おかしい?」

 さっきまでキリッとしていた目が、今度は自信を無くしたように揺れだした。そのあまりに可愛らしい姿に俺は噴き出して笑ってしまった。

「そうか……そうだな。俺はまた、君に救われた」

 頭にしがみついて、おでこにキスの雨を降らせると、シリルはくすぐったいと言って笑った。

「笑っていても怒っていてもいい。シリルが側にいてくれるだけでいいんだ。それが力になるから……」

「うん。分かった……」

 俺の背中に回された手に力がこもったような気がした。
 シリルと出会えて良かった。心からそう思ったのだった。




 □□



 玄関で恒例の朝の挨拶をした後、寝癖でふわりと立ち上がっているシリルの髪を撫でた。
 いつも離れるこの瞬間、何とも言えない寂しい気持ちになって名残惜しくなってしまうのはやめられない。

「シリルの兄だが、マキシムもそろそろ結婚してもよさそうな歳だがどうなんだ?」

「いや、それが無理なんですよ。兄は剣の道を極めるまでは結婚はしないと決めていて……。父の説得にも応じないですからね。騎士団も忙しいですから、大丈夫ですよ。頻繁には来ないと思います」

「そうか、じゃ行ってきます」

 爽やかに微笑んで、シリルの目の上にキスを落として手を振って別れた。



 今日は仕事に付いてくるレナルドと一緒に馬車に乗り込んだ。

「マキシムだが、面倒だから、断れないような縁談相手を探しておいてくれ。美醜は問わない」

「かしこまりました」

「再来週から国外の仕事だからな。留守中はよろしく頼むぞ」

「はい」

「いつもすまないな、レナルド」

 自然と口から出た言葉を気にしていなかったのだが、レナルドは口を開けたまま固まっていた。執事としてありえない腑抜けた顔に、なんだと聞こうとしたら、レナルドは申し訳ありませんと慌てて姿勢を正した。

「変わられましたね。アイロス様」

「………誰かのせいだ」

 長い付き合いになるレナルドは、俺の変化に驚いたらしく、執事の仮面を脱いで一瞬だけ嬉しそうに口許を綻ばせた。

「いいお父さんになりそうですね。あっ、これは失礼しました」

「お前に言われてもな」

 俺は照れるのを隠すように窓の方を向いて、カタカタと揺れる馬車の音を聞きながら目を閉じたのだった。




 □番外編■完□
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