雪月花の物語 ~聖域の悪魔~

冴條玲

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第五章 闇血呪

5-2d. 聖域の悪魔

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「ゼルダ、冥影円環は張っただろうな」
「はい、ガーディナ兄様」

 ゼルダが初めて足を踏み入れた、ゼルシア皇妃の宮は、冷たく静かな白亜の宮殿だった。まるで、御伽噺おとぎばなしに出て来る氷の城のようだ。

「私は母上からは、おまえを守れない。おまえの身はおまえが守りなさい」
「わかりました。――でも、兄上はどうして、ゼルシア様を恐れるのですか? ゼルシア様は貴方を殺せないのだし、魔術の心得も、武術の心得もない方でしょう? 私の身にだって、今日、この宮殿で危険があるとは――」

 ゼルダはふと、感知した禍々しい怨念に不快を催して口許を覆った。

「どうした?」

 ヴァン・ガーディナは聞きながら、どうしたのか本当はわかっているようで、冷たく微笑んでいた。

「……っ……」

 苦しい。あまりの禍々しさに吐き気がする。
 ライゼールの夜会で暴漢に襲撃された時でさえ、これほどの怨念を放つ者はなかった。
 彼らの悪意は、純粋に攻撃的なもので、怨念と呼べるような代物には程遠かったのだ。
 けれど、ゼルシア皇妃のそれは、まるで硫酸のようだ。これ程におぞましい感情を、一人の人間が抱えるものなのか。
 げほ、ごほ、と重い咳をして、たまらず、胸を押さえて膝を突いたゼルダの肩に、兄皇子が落ち着かせるように手を添えてくれた。

「ゼルダ、私がどうして冥影円環をあまり張らないか、わかったか」

 冥影円環をゼルダに仕込んだ兄皇子その人が、滅多にその術を使わないため、ゼルダがどうしてかと尋ねても、兄皇子は面倒だからと答えるだけだった。
 それは、ゼルシア皇妃の凄まじい怨念にさらされ続けてきたからなのか。
 ゼルシア皇妃がゼルダに向ける感情と、ヴァン・ガーディナに向ける感情は、まさか、同じものではないはずだ。けれど、実の息子であっても、事と次第によっては――
 むしろ、実の息子だからこそ、ヴァン・ガーディナは誰よりも近い距離で、この常軌を逸した憎悪の感情を被り続けてきたのか。
 ゼルダは、考えただけでも背筋が寒くなった。アーシャ皇妃の生前、ゼルダはいつも、母妃アーシャの優しく心地好い愛情に包まれていた。
 そういうものだと思っていたのに、兄皇子はいつも、母妃ゼルシアの冷たく恐ろしい怨念に、さらされ続けてきたのか。
 それは、唯一無二の母妃を亡くすことより、恐ろしい地獄ではないのか――

「立てるか?」
「はい、兄上。ご無礼をお許し下さい」

 兄皇子の優麗な笑顔の仮面。ゼルダの魔力さえ、遥かに凌駕する闇の魔力。
 それを得るに至る地獄を考えると、ゼルダは兄皇子のことがつらくなって、頭を振った。感傷的になっている場合じゃない。
 それでも優しい兄皇子を、この命に代えても守りたい。
 ゼルシア皇妃の怨念は、ゼルダが宮殿の奥に踏み込むほど、胸がただれるほどに濃くなっていった。
 宮殿は美しく、まるで聖域のようなのに、悪魔が棲んでいる――
 二階の北向きの部屋の前で、ヴァン・ガーディナが足を止めたので、ゼルダは少し驚いた。
 太陽の光が入りにくい北向きの部屋は、あまり、主人の部屋とはされない。
 使用人達の控えの間や、物置きとされるのが普通だ。

「ここが?」

 ゼルダが何を疑問に思ったのか、察したようにヴァン・ガーディナがうなずいた。

「母上はフルーレイアだ。私もだけれど、おまえが明るく感じる程度の陽の光でも、眩しすぎるんだよ」

 フルーレイアって、何だろう。

「ゼルダ、闘えそうか」
「ええ」
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