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第五章 闇血呪
5-2f. 聖域の悪魔
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「――どうしました? 入りなさい」
ヴァン・ガーディナがノックしかけた時だった。ゼルシア皇妃の玲瓏とした声が響いた。
「よく、ゼルダを連れてきましたね」
皇子二人を迎えたゼルシア皇妃が、美しく微笑んだ。
美しく――
ゼルダはあまり、美しいと感じなかった。傾国の美女と称えられるゼルシア皇妃の微笑みより、兄皇子の微笑みの方が、遥かに美しく、誰よりも麗しいとゼルダは思う。
あのそれ間違ってるとか言わないで。
ゼルシア皇妃の微笑みは、やおら鬼形に変じ、もとより抜きん出た美貌の持ち主だけに、その形相は凄絶を極めた。
「ヴァン・ガーディナ――」
玲瓏とした皇妃の声に、底知れない怒りが満ちた。
「ゼルダの息の根を止めなさいと言ったはず、一度ならず二度までも、私に背いて、今度は何を企んでいるのです!!」
風が動いた。
父皇帝からの宣告を切り札に、兄皇子がここを切り抜けるつもりだったことを、ゼルダは知っていた。
けれど、ゼルダは目を疑った。
キン――
ゼルシア皇妃が問答無用、手にした優雅な扇の柄を抜き、仕込まれた刃物でヴァン・ガーディナに突きかかったのだ。
「兄上!!」
冷静に考えれば、女性に襲われて怪我をする兄皇子ではない。
けれど、とっさのことで、ゼルダは手加減も出来ず、皇妃から刃物を仕込んだ扇を取り上げていた。
「ゼルシア様、何をなさるのですか!!」
悪魔の笑みを浮かべた皇妃が、ゼルダが腰に差していた短剣を引き抜く。
ゼルダがその短剣をも奪い返すや、短剣を奪ったゼルダの腕を皇妃がつかみ、させまいとする、ゼルダの考えと真逆の方向に渾身の力を込めた。
「なっ――!?」
鮮血が短剣の刃を濡らし、ゼルダの手元まで滴った。
ゼルシア皇妃がその短剣で、彼女自身の身を、深く切り裂かせたのだ。
「ヴァン・ガーディナ! ゼルダを斬り殺しなさい!!」
背後から、兄皇子の腕がゼルダをとらえ、皇妃から引き剥がした。
その手が氷のように冷たくて、ゼルダはどきりとした。
「皇帝陛下が私の皇子の命を絶つものですか……! ゼルダはこの私に刃を向けたのです。ヴァン・ガーディナ、貴方は私を守ってくれただけ――」
皇妃が真紅の瞳の奥に、復讐の炎を揺らしてゼルダを見た。
「ヴァン・ガーディナ、ゼルダを愛しておいで?」
ひどく甘やかな声色で、妖艶に皇妃が尋ねた。
ゼルダを腕に捕らえたまま、ヴァン・ガーディナが首を傾げる。
「私がゼルダを? ――いいえ?」
睨みつけるゼルダの顎を、皇妃が血まみれの手で取った。
「ゼルダ、お兄様に愛されていると信じたのかしら? 貴方のために、大好きなお兄様が私と闘って下さると? ヴァン・ガーディナの手慰みに、抱かせたそうですね」
「――っ!」
さっと頬を染めたゼルダに、皇妃がささやきかけた。
「お兄様は、私に命を絶たれると承知で、この宮殿に貴方を連れたのです」
「嘘だ!」
冷たく威圧的な真紅の瞳で、ゼルシア皇妃がヴァン・ガーディナを睨み据える。あたかも、死の女神とも呼ばれる冬の女神のように。
「さあ、ヴァン・ガーディナ、嘘かどうか、ゼルダに教えて差し上げなさい。苦しめる必要はありません。ひと思いにゼルダの喉元を切り裂きなさい。私の悪夢も、あなたの悪夢も、これで終わり――」
ゼルダの手から、皇妃の血に濡れた短剣を、ヴァン・ガーディナが取った。
皇后宮に足を踏み入れた時から、ずっと、ゼルダを苦しめ続けていた皇妃の悪しき怨念を、遮幕が降りたように、冷たく清らかな感情が遮った。
冥影円環でとらえたそれは、同じ殺意だったのに、あまりに哀しく、優しい感情だった。
知らず、涙がゼルダの頬を伝った。
「ゼルダ、先に逝って待っていなさい。そう長くは、待たせないから」
いつもと変わらない、淡々として優しい声音で兄皇子がささやいた。触れた心だけが、悲しみに満ちて――
許せなくて、ゼルダはぎゅっとこぶしを握った。
こんな、哀しい心を隠して、兄皇子はいつも笑っていたのか。優しかったのか。
兄皇子が何をして、憎まれなければならないのだ。
誰よりも綺麗で優秀で、皇妃に忠実に従う人なのに、皇妃はこの上何を望んで、兄皇子に憎しみの感情をぶつけるのだ。
ずっと、ゼルシア皇妃が誰より憎んでいるのは自分だと、ゼルダは思ってきたのに。
今、何もかもが、そう考えるにはおかしかった。
ゼルシア皇妃はヴァン・ガーディナを守る者を片端から暗殺し、兄皇子がゼルダを愛していると承知で、その手でゼルダを殺せと命じる。
ゼルダが憎いから?
違う!
ゼルシア皇妃は、ゼルダが兄皇子を守るから、より憎いのだ。
皇妃はまるで、兄皇子が自ら命を絶つまで追い詰めたいかのようなのだ。
――何で!!
兄皇子がそれでも、皇妃をどれほども裏切らないことを思うと、兄皇子が時折、垣間見せた寂しさ、優しさ、何を思っても――
背中側から捕らえられているゼルダに、兄皇子の顔を見ることは出来なかったけれど。
ゼルダは血が滾るほど、皇妃が許せなかった。
ヴァン・ガーディナがノックしかけた時だった。ゼルシア皇妃の玲瓏とした声が響いた。
「よく、ゼルダを連れてきましたね」
皇子二人を迎えたゼルシア皇妃が、美しく微笑んだ。
美しく――
ゼルダはあまり、美しいと感じなかった。傾国の美女と称えられるゼルシア皇妃の微笑みより、兄皇子の微笑みの方が、遥かに美しく、誰よりも麗しいとゼルダは思う。
あのそれ間違ってるとか言わないで。
ゼルシア皇妃の微笑みは、やおら鬼形に変じ、もとより抜きん出た美貌の持ち主だけに、その形相は凄絶を極めた。
「ヴァン・ガーディナ――」
玲瓏とした皇妃の声に、底知れない怒りが満ちた。
「ゼルダの息の根を止めなさいと言ったはず、一度ならず二度までも、私に背いて、今度は何を企んでいるのです!!」
風が動いた。
父皇帝からの宣告を切り札に、兄皇子がここを切り抜けるつもりだったことを、ゼルダは知っていた。
けれど、ゼルダは目を疑った。
キン――
ゼルシア皇妃が問答無用、手にした優雅な扇の柄を抜き、仕込まれた刃物でヴァン・ガーディナに突きかかったのだ。
「兄上!!」
冷静に考えれば、女性に襲われて怪我をする兄皇子ではない。
けれど、とっさのことで、ゼルダは手加減も出来ず、皇妃から刃物を仕込んだ扇を取り上げていた。
「ゼルシア様、何をなさるのですか!!」
悪魔の笑みを浮かべた皇妃が、ゼルダが腰に差していた短剣を引き抜く。
ゼルダがその短剣をも奪い返すや、短剣を奪ったゼルダの腕を皇妃がつかみ、させまいとする、ゼルダの考えと真逆の方向に渾身の力を込めた。
「なっ――!?」
鮮血が短剣の刃を濡らし、ゼルダの手元まで滴った。
ゼルシア皇妃がその短剣で、彼女自身の身を、深く切り裂かせたのだ。
「ヴァン・ガーディナ! ゼルダを斬り殺しなさい!!」
背後から、兄皇子の腕がゼルダをとらえ、皇妃から引き剥がした。
その手が氷のように冷たくて、ゼルダはどきりとした。
「皇帝陛下が私の皇子の命を絶つものですか……! ゼルダはこの私に刃を向けたのです。ヴァン・ガーディナ、貴方は私を守ってくれただけ――」
皇妃が真紅の瞳の奥に、復讐の炎を揺らしてゼルダを見た。
「ヴァン・ガーディナ、ゼルダを愛しておいで?」
ひどく甘やかな声色で、妖艶に皇妃が尋ねた。
ゼルダを腕に捕らえたまま、ヴァン・ガーディナが首を傾げる。
「私がゼルダを? ――いいえ?」
睨みつけるゼルダの顎を、皇妃が血まみれの手で取った。
「ゼルダ、お兄様に愛されていると信じたのかしら? 貴方のために、大好きなお兄様が私と闘って下さると? ヴァン・ガーディナの手慰みに、抱かせたそうですね」
「――っ!」
さっと頬を染めたゼルダに、皇妃がささやきかけた。
「お兄様は、私に命を絶たれると承知で、この宮殿に貴方を連れたのです」
「嘘だ!」
冷たく威圧的な真紅の瞳で、ゼルシア皇妃がヴァン・ガーディナを睨み据える。あたかも、死の女神とも呼ばれる冬の女神のように。
「さあ、ヴァン・ガーディナ、嘘かどうか、ゼルダに教えて差し上げなさい。苦しめる必要はありません。ひと思いにゼルダの喉元を切り裂きなさい。私の悪夢も、あなたの悪夢も、これで終わり――」
ゼルダの手から、皇妃の血に濡れた短剣を、ヴァン・ガーディナが取った。
皇后宮に足を踏み入れた時から、ずっと、ゼルダを苦しめ続けていた皇妃の悪しき怨念を、遮幕が降りたように、冷たく清らかな感情が遮った。
冥影円環でとらえたそれは、同じ殺意だったのに、あまりに哀しく、優しい感情だった。
知らず、涙がゼルダの頬を伝った。
「ゼルダ、先に逝って待っていなさい。そう長くは、待たせないから」
いつもと変わらない、淡々として優しい声音で兄皇子がささやいた。触れた心だけが、悲しみに満ちて――
許せなくて、ゼルダはぎゅっとこぶしを握った。
こんな、哀しい心を隠して、兄皇子はいつも笑っていたのか。優しかったのか。
兄皇子が何をして、憎まれなければならないのだ。
誰よりも綺麗で優秀で、皇妃に忠実に従う人なのに、皇妃はこの上何を望んで、兄皇子に憎しみの感情をぶつけるのだ。
ずっと、ゼルシア皇妃が誰より憎んでいるのは自分だと、ゼルダは思ってきたのに。
今、何もかもが、そう考えるにはおかしかった。
ゼルシア皇妃はヴァン・ガーディナを守る者を片端から暗殺し、兄皇子がゼルダを愛していると承知で、その手でゼルダを殺せと命じる。
ゼルダが憎いから?
違う!
ゼルシア皇妃は、ゼルダが兄皇子を守るから、より憎いのだ。
皇妃はまるで、兄皇子が自ら命を絶つまで追い詰めたいかのようなのだ。
――何で!!
兄皇子がそれでも、皇妃をどれほども裏切らないことを思うと、兄皇子が時折、垣間見せた寂しさ、優しさ、何を思っても――
背中側から捕らえられているゼルダに、兄皇子の顔を見ることは出来なかったけれど。
ゼルダは血が滾るほど、皇妃が許せなかった。
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