雪月花の物語 ~聖域の悪魔~

冴條玲

文字の大きさ
80 / 91
第五章 闇血呪

5-2f. 聖域の悪魔

しおりを挟む
「――どうしました? 入りなさい」

 ヴァン・ガーディナがノックしかけた時だった。ゼルシア皇妃の玲瓏とした声が響いた。

「よく、ゼルダを連れてきましたね」

 皇子二人を迎えたゼルシア皇妃が、美しく微笑んだ。
 美しく――
 ゼルダはあまり、美しいと感じなかった。傾国の美女と称えられるゼルシア皇妃の微笑みより、兄皇子の微笑みの方が、遥かに美しく、誰よりも麗しいとゼルダは思う。

 あのそれ間違ってるとか言わないで。

 ゼルシア皇妃の微笑みは、やおら鬼形に変じ、もとより抜きん出た美貌の持ち主だけに、その形相は凄絶を極めた。

「ヴァン・ガーディナ――」

 玲瓏とした皇妃の声に、底知れない怒りが満ちた。

「ゼルダの息の根を止めなさいと言ったはず、一度ならず二度までも、私に背いて、今度は何を企んでいるのです!!」

 風が動いた。
 父皇帝からの宣告を切り札に、兄皇子がここを切り抜けるつもりだったことを、ゼルダは知っていた。
 けれど、ゼルダは目を疑った。
 キン――
 ゼルシア皇妃が問答無用、手にした優雅な扇の柄を抜き、仕込まれた刃物でヴァン・ガーディナに突きかかったのだ。

「兄上!!」

 冷静に考えれば、女性に襲われて怪我をする兄皇子ではない。
 けれど、とっさのことで、ゼルダは手加減も出来ず、皇妃から刃物を仕込んだ扇を取り上げていた。

「ゼルシア様、何をなさるのですか!!」

 悪魔の笑みを浮かべた皇妃が、ゼルダが腰に差していた短剣を引き抜く。
 ゼルダがその短剣をも奪い返すや、短剣を奪ったゼルダの腕を皇妃がつかみ、させまいとする、ゼルダの考えと真逆の方向に渾身の力を込めた。

「なっ――!?」

 鮮血が短剣の刃を濡らし、ゼルダの手元まで滴った。
 ゼルシア皇妃がその短剣で、彼女自身の身を、深く切り裂かせたのだ。

「ヴァン・ガーディナ! ゼルダを斬り殺しなさい!!」

 背後から、兄皇子の腕がゼルダをとらえ、皇妃から引き剥がした。
 その手が氷のように冷たくて、ゼルダはどきりとした。

「皇帝陛下が私の皇子の命を絶つものですか……! ゼルダはこの私に刃を向けたのです。ヴァン・ガーディナ、貴方は私を守ってくれただけ――」

 皇妃が真紅の瞳の奥に、復讐の炎を揺らしてゼルダを見た。

「ヴァン・ガーディナ、ゼルダを愛しておいで?」

 ひどく甘やかな声色で、妖艶に皇妃が尋ねた。
 ゼルダを腕に捕らえたまま、ヴァン・ガーディナが首を傾げる。

「私がゼルダを? ――いいえ?」

 睨みつけるゼルダの顎を、皇妃が血まみれの手で取った。

「ゼルダ、お兄様に愛されていると信じたのかしら? 貴方のために、大好きなお兄様が私と闘って下さると? ヴァン・ガーディナの手慰みに、抱かせたそうですね」
「――っ!」

 さっと頬を染めたゼルダに、皇妃がささやきかけた。

「お兄様は、私に命を絶たれると承知で、この宮殿に貴方を連れたのです」
「嘘だ!」

 冷たく威圧的な真紅の瞳で、ゼルシア皇妃がヴァン・ガーディナを睨み据える。あたかも、死の女神とも呼ばれる冬の女神のように。

「さあ、ヴァン・ガーディナ、嘘かどうか、ゼルダに教えて差し上げなさい。苦しめる必要はありません。ひと思いにゼルダの喉元を切り裂きなさい。私の悪夢も、あなたの悪夢も、これで終わり――」

 ゼルダの手から、皇妃の血に濡れた短剣を、ヴァン・ガーディナが取った。
 皇后宮に足を踏み入れた時から、ずっと、ゼルダを苦しめ続けていた皇妃の悪しき怨念を、遮幕が降りたように、冷たく清らかな感情が遮った。
 冥影円環でとらえたそれは、同じ殺意だったのに、あまりに哀しく、優しい感情だった。
 知らず、涙がゼルダの頬を伝った。

「ゼルダ、先に逝って待っていなさい。そう長くは、待たせないから」

 いつもと変わらない、淡々として優しい声音で兄皇子がささやいた。触れた心だけが、悲しみに満ちて――
 許せなくて、ゼルダはぎゅっとこぶしを握った。
 こんな、哀しい心を隠して、兄皇子はいつも笑っていたのか。優しかったのか。
 兄皇子が何をして、憎まれなければならないのだ。
 誰よりも綺麗で優秀で、皇妃に忠実に従う人なのに、皇妃はこの上何を望んで、兄皇子に憎しみの感情をぶつけるのだ。
 ずっと、ゼルシア皇妃が誰より憎んでいるのは自分だと、ゼルダは思ってきたのに。
 今、何もかもが、そう考えるにはおかしかった。
 ゼルシア皇妃はヴァン・ガーディナを守る者を片端から暗殺し、兄皇子がゼルダを愛していると承知で、その手でゼルダを殺せと命じる。
 ゼルダが憎いから?
 違う!
 ゼルシア皇妃は、ゼルダが兄皇子を守るから、より憎いのだ。
 皇妃はまるで、兄皇子が自ら命を絶つまで追い詰めたいかのようなのだ。

 ――何で!!

 兄皇子がそれでも、皇妃をどれほども裏切らないことを思うと、兄皇子が時折、垣間見せた寂しさ、優しさ、何を思っても――
 背中側から捕らえられているゼルダに、兄皇子の顔を見ることは出来なかったけれど。
 ゼルダは血がたぎるほど、皇妃が許せなかった。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件

美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…? 最新章の第五章も夕方18時に更新予定です! ☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。 ※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます! ※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。 ※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!

脅迫して意中の相手と一夜を共にしたところ、逆にとっ捕まった挙げ句に逃げられなくなりました。

石河 翠
恋愛
失恋した女騎士のミリセントは、不眠症に陥っていた。 ある日彼女は、お気に入りの毛布によく似た大型犬を見かけ、偶然隠れ家的酒場を発見する。お目当てのわんこには出会えないものの、話の合う店長との時間は、彼女の心を少しずつ癒していく。 そんなある日、ミリセントは酒場からの帰り道、元カレから復縁を求められる。きっぱりと断るものの、引き下がらない元カレ。大好きな店長さんを巻き込むわけにはいかないと、ミリセントは覚悟を決める。実は店長さんにはとある秘密があって……。 真っ直ぐでちょっと思い込みの激しいヒロインと、わんこ系と見せかけて実は用意周到で腹黒なヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真のID:4274932)をお借りしております。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...