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ヒロポン

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第2話「夏の終わり」

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あれから2年後。俺は北千住駅近くの本屋で、某マンガ雑誌を立ち読みしていた。新人賞の結果を知るためだった。

結果は散々だった。「最終候補まで、あと一歩」にすら名前が載ってなかった。

「……はぁ」俺は小さくタメ息をつき、雑誌を本棚に戻した。肩を落とし、出口へ向かった。

……ふと、平積みにされた文庫本が目に入った。北村の小説だった。帯には「本屋大賞、第2位!」「10万部突破!」とあった。

仲の良さげな女子高生2人が、北村の小説を手に取り、レジへ向かっていった。

……どうやら、あいつはサクセスストーリーを歩んでるらしい。







そのとき俺は、東京都足立区千住にあるボロアパートで、独り暮らしをしていた。大学に行かずにアルバイトで漫画家を目指す、と父親に宣言したら勘当されたのだ。

俺は一瞬、動揺したが、父親の顔を永遠に見なくて済むならそれもアリだと思い、少ない荷物をまとめて実家から出たのだ。

そのあと俺は、北千住に住む先輩の家にやっかいになった。アルバイトで貯金したあと、月3万のアパート (奇跡的に見つけた) に移った。そして、今に至るという訳だった。







その日、俺はアルバイト先の印刷工場で遅い昼食をとっていた。納品が間に合わないので、2時までぶっ続けで仕事していたのだ。

休憩室には、俺以外には誰もいなかった。他の人たちはすでに昼飯を終えていたし、同じチームの正社員2人はラーメンを食べに行ったからだ。

「今日は疲れたな」俺は独り言を漏らした。紺の作業着を脱ぎ、黒Tシャツ1枚になった。コンビニの袋から弁当を取り出した。

その印刷工場での俺の仕事は、印刷オペレーターの助手だった。内容は至極シンプルで、印刷用紙をひたすら積むことだった。だいたい60×90cmの大きな用紙を250枚ずつ (あるいは500枚ずつ) 積み、1万枚や5千枚や2千枚でできた立方体を作る。要するに肉体労働だった。



少しして扉が開き、事務の女性が入ってきた。

俺はそちらを向いた。「あれ?これからご飯ですか」

「ちょっと手が離せなくてね」彼女は、黄色いハンカチに包まれた弁当をテーブルの上に置き、そのあとで俺の手前の席に座った。

彼女は大吉という苗字だ。茶髪を後ろで束ねていた。白いブラウスと黒いタイトスカートがよく似合っていた。俺より2つ年上だ。

「手作り弁当ですか。なんか家庭的ですね」

「私もコンビニ弁当でいいんだけどさ。家族の分も作らなきゃいけないし、自分のもついでにね」

「えっ、家族?」

「そ、弟とお父さんの」

「……ああ」一瞬、結婚してたのかと思った。



「明日、休みなんだよね、私」食事を終えたあと、大吉さんが言った。窓の外を眺めながら。

窓の向こうには民家が並んでいて、さらに向こうには高層ビルが並んでいた。それは陽炎で揺らめいていた。

「俺もあした休みですね」

「このあとの予定もないんだよね。お父さんは残業だし、弟は合宿だし」

「俺も暇ですね、このあと」

大吉さんが俺の目を見た。「どうする?」

「飲みいきましょうか」







夜9時頃、俺たちは駅前の居酒屋で、酒を飲みながらダラダラ話していた。もっぱら、大吉さんが愚痴を言い、俺がそれを聞いていた。

大吉さんはけっこう酒豪で、ジョッキビールを5本のんだあとで、赤ワインを飲んでいた。

いっぽう俺は、カシスオレンジの2杯目を飲みながら、パフェをつっついていた。

大吉さんのラフな格好を見るのは、その日が初めてだった。大吉さんは、束ねていた茶髪をほどいていて、ロングヘアだった。そして、白いワンピースに紺のデニムという服装だった。

「ねぇ、君はどうして生きてるの?」大吉さんが頬杖をつきながら尋ねた。

「酔ってますね」と俺は茶化した。「なんで、いきなりそんな質問するんですか?」

「別に。単純に気になるから」大吉さんは真面目な顔つきだった。「で、どうなの?」

……そうですね、と俺は考える。「……『漫画を描きたいから』ですかね。今のところは」

その質問で、不意に北村との会話を思い出した。2年前、鴨川の河川敷での会話だった。

『全部、無意味に思えたんだよ。自分も家族も学校も。世界とか未来とか。いわゆるニヒリズムだ』

あいつはまだ、「人生は無意味だ」と思ってるのだろうか?







夜10時頃、俺たちは居酒屋を出た。外は相変わらず蒸し暑かった。夏の虫の音が聞こえていた。

俺のアパートまでの道のりを、俺と大吉さんは並んで歩いていた。俺が好きな映画の話をしたら、彼女がそれを観たいと言ったので、そのDVDを貸すことになったのだ。

「あれが俺んちです」と俺は指差した。200mほど先に、木造建てアパートがあった。パッと見、傾いてるように見えた。というか実際、傾いていた。床にビー玉を置いたら、ものすごい勢いで転がっていったほどだ。

「ずいぶんボロいね」と大吉さんが笑った。

「まあ否めないっすね」ここを紹介した不動産業者が、築45年と言っていた。

そのことを俺が話したら、大吉さんはさらに笑った。「ほぼ半世紀じゃん!」

あわよくば、お茶でも出して部屋でもう少し話そう、と俺は考えていた。大吉さんの足取りはしっかりしていたし (あれだけ飲んだのに) 、彼女の家もここから近かったからだ。翌日は休みだったし。

……が、その目論見はあっさり崩れた。なぜか、北村が俺の部屋の前に立っていたからだ。

「あっ!やっと帰ってきたか」と北村が言った。黒いポロシャツに、青いジーンズ、茶色のショルダーバッグという姿だった。

「……」とうぜん俺は驚いた。……ていうか、なんでこのタイミングなんだよ。







「……アポぐらい入れろよなぁ」北村を部屋に入れたあとで、俺は文句を言った。

「いや、びっくりさせようと思ってね」北村がクッションに座った。

けっきょく大吉さんは、例のDVDだけを受け取ると、すぐに帰ってしまった。

「彼女と一緒だったとは思わなかった。邪魔しちゃったな」北村が申し訳なさそうに言った。

「いや、彼女じゃねーよ。職場の先輩だ」俺はエアコンを入れたあと、冷蔵庫から冷えた三ツ矢サイダーを2本出し、一方を北村に渡した。そのあとで、ベッドに腰かけた。「それで、どうしたんだよ?」

「出版社に顔を出しに来たんだ」北村はプルタブを開けた。「編集者が変わったから、その挨拶だ」

「……ふぅん」俺もプルタブを開けた。

「で、ものは相談なんだが」と北村が言った。「しばらく泊めてくれないかな?」

「構わないけど、何でだ?」

「せっかくだから、東京観光をしたいんだ。脱稿したばかりだから、しばらく暇だしね」

……俺はさっきから少し違和感を感じていたのだが、その理由が分かった。北村は以前に会った時より、痩せていたのだ。







北村はまだ晩飯を取っておらず、俺も少し食い足りなかったので、俺たちは近所のファミレスに行った。

北村はカルボナーラを、俺はマヨネーズとコーンのピザを食べた。北村は3分の1ほど残し、俺は全て平らげた。

「キャンパスライフはどうよ?」と俺は尋ねた。

「やめたよ、大学は」北村がさらりと答えた。「教授と反りが合わなくてね」

「相変わらずだな」と俺は笑った。

「ああ、相変わらずだ」と北村も笑った。「そっちはどう?漫画は」

「全然。新人賞にかすりもしない」俺は鞄から漫画原稿のコピーを取り出し、北村に渡した。北村と会うときは、漫画を見てもらうことが、習慣になっていた。

「前より絵がうまくなってるね。素人目でも、よく分かるよ」北村は読み終えたあとで言った。「でも、シナリオのほうは相変わらずだね」

「……やっぱダメっすか」

「ダメダメだ、はっきり言って」北村は腕を組んだ。「これはシナリオというより、むしろ日記だね」

「……日記っすか」

「どうだろう?」北村が身を乗り出すように言った。「良ければ、僕が力になるよ。これでも一応プロだしね」

俺は、少し考えてから頷いた。「……そうだな、頼むわ」



店を出る前、北村が錠剤を飲んだ。

「なんだよ、それ?」と俺が尋ねると、「頭痛薬だ」と北村が答えた。

「風邪か?」

「いや、慢性的なものだ。去年ごろからなんだけど」

「仕事のしすぎなんじゃないか?」

「だから当分、羽を伸ばすんだよ」







俺たちは、土日を使って東京観光をした。浅草・上野・秋葉原・神田を回った。浅草寺に行き、上野公園に行き、アニメショップを巡り、書店を巡った。

そしてその翌日から、北村主催の勉強会が始まった。テーマは「シナリオの書き方」だった。

俺はバイトを終えたあと、北村と図書館に行き、シナリオの勉強をした。北村から話を聞き、本を読み、ノートにメモをとった。

北村も手持ちぶさたのあいだは、本を読んでいた。北村のほうは、娯楽の読書のようだったが。

「なに読んでんだ?」俺は北村に話しかけた。


「脳科学者が、自身の臨死体験について語る本だ」北村が言い、表紙を俺に向けた。『プルーフ・オブ・ヘブン』というタイトルだった。

「小説の資料か?」

「いや、単純に興味があるんだ、死後の世界にね」

……ふぅん、と俺は言った。「俺はよく分からないな。死んだあとのことより、今どう生きるかじゃないか?」 

北村が微笑んだ。「まぁ、人それぞれだよ」







俺たちは1ヶ月ほど、そのような生活を送った。そして俺は、試しにネームを書いてみた。たった1ヶ月の勉強期間だったが、変化してるのが自分でも分かった。

そのネームを読んだあと、北村が満足げに言った。「良くなったよ。まだ、ところどころ荒いけどね」







その夜、北村がトイレで嘔吐した。9時ごろで、俺は机に向かって漫画を描いていた。

北村はふらついた足取りでトイレから出た。台所で水を飲み、ソファに座った。

「おい、大丈夫かよ?」と俺は言った。

「あまり大丈夫じゃないな」と北村が言った。顔色が良くなかった。「夏バテかもな。最近、やたら暑かったから」

「病院、行ったほうがいいかもな」

「確かに」

北村は1か月前に再会した時よりも、痩せていた。







4日後、俺は画材道具を買いに神保町と御茶ノ水に行った。

朝、目覚めたとき、北村の姿はなかった。合鍵を渡していたので、特に問題はなかったが。

俺は画材を買ったあと、御茶ノ水をぶらついた。信号待ちをしてた時、向かい側の大学病院から、見覚えのある男が出てくるところが見えた。……北村だった。

北村は俺に気づくと、バツの悪そうな顔をした。信号が青になると、俺は通りを渡って北村のところまで行った。

「こんなところで何してるんだ?」と俺は尋ねた。「具合が悪いなら、近所の町医者でもいいだろ?」

少しの間のあと、北村が口を開いた。「……まぁ、いずれ言わなきゃいけないし、正直に言おう」

どうやら僕は死ぬ、と北村が言った。「余命半年だ」

一瞬、周囲が静かになった。「嘘だろ?」

「そんな嘘、言わないよ」と北村が笑った。「悪性の脳腫瘍だ。地元の病院で発覚した。それで、東京の大きな病院を紹介してもらったんだ。……だけど、結果はダメだった」

「……」俺は何を言えばいいのか分からなかった。ただ、何かが(絶望に似た何かが)ゆっくりと下りてくることだけは分かった。







「起きてるか?」と俺は尋ねた。

「ああ」と北村は答えた。

その日の夜は、異様に静かだった。エアコンの唸り以外、物音がほとんど聞こえなかった。

「『編集者が変わったから上京』ってのは嘘だったんだな」

「ああ」と北村は答えた。「悪かったね。なんだか言い出せなかったんだ。いずれバレることだと分かってたのにね」

「……平気そうに見えるぞ」

「ん?」

「余命半年なんだろ?普通、もっと焦ったり喚いたりしないか?」

「確かに不思議と落ち着いてるな。なんでかな?……多分、実感が湧かないのかもな」

「……」

「あるいは死んでも、僕の全てが消えるわけじゃないからかな」

「どういうことだよ?」

「僕の本は、当分この世に残る。それに君だって、僕のことを当分おぼえてくれてるだろう?」

「一生、忘れねえよ」と俺は言った。「忘れるはずないだろ、お前みたいな濃い奴は」

北村が笑った。「それを聞いて安心した」







北村が入院する前日、俺たちは荒川の河川敷にいた。ベンチに座って、対岸の高速道路をぼんやり眺めていた。

どこまでも青空が広がっていた。近くのグラウンドでは、小学生たちが草野球をしていた。

「今夜、メシ食いに行こうぜ」と俺は言った。「うまいドイツ料理屋を見つけたんだ」

いいね、と北村は言った。「これからはもう病院食だからね」

少しして北村が言った。「前に僕が言ったよね。『人生は無意味だ』って」

「ああ」

「だけど価値はあったよ。書きたいことも書けた。それに君にだって会えた」

「……」


赤とんぼが数匹、飛んでいた。それは、じきにやってくる秋を象徴していた。
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