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【第一部:背徳の蜜月】
第一章:突然の雨
しおりを挟むその日は、朝から空が濁った真珠のような色をしていた。
五月。本来なら爽やかな風が吹き抜けるはずの季節だというのに、湿り気を帯びた空気は肌にまとわりつき、志帆の心をじわじわと蝕んでいた。
午前七時。新宿のマンションのダイニングルームに、カチ、カチと、無機質な時計の音だけが響いている。
向かい合わせに座る夫、健太は、一度も志帆と目を合わせることなく、スマートフォンの画面を親指で弾き続けていた。
彼が口に運んでいるのは、志帆が丁寧に淹れたコーヒーと、少し焼きすぎたトースト。
けれど、彼がその味を感知しているようには見えなかった。
「ねえ、健太」
志帆が絞り出すように声をかけると、健太は眉間にかすかな皺を寄せ、画面から視線を外さずに「ん?」と短く鼻を鳴らした。
「……いえ。今日、雨が降るみたいだから、傘を持っていった方がいいと思って」
「ああ、予報で見た。持ったよ」
会話はそこで途切れた。志帆が本当に伝えたかったこと――昨夜、仕事でミスをして酷く落ち込んでいたことや、最近、夜中に何度も目が覚めてしまう不安について――は、喉の奥で冷たい塊となって飲み込まれた。
私たちは、いつからこんな「記号のような夫婦」になってしまったのだろう。
志帆は、健太の左手の薬指に光る指輪を見た。自分も同じものを嵌めている。
けれど、それは愛の証というより、互いの自由を奪い、沈黙を強いるための拘束具のように思えてならなかった。
「……行ってくる」
健太は食器を片付けることもなく、淡々と玄関へ向かった。ドアが閉まる音。それが、志帆にとっての「日常」という名の牢獄の、鍵をかける音に聞こえた。
オフィス街にある大手広告代理店。志帆の職場は、常に怒号とタイピング音が交錯する戦場だった。
「佐藤さん、このプラン、クライアントからダメ出し食らった。夕方までに再考して」
上司が投げ捨てた書類が、デスクの上で音を立てて散らばる。
志帆は「承知しました」と無表情に答え、パソコンに向かった。
画面から放たれるブルーライトが、網膜を刺す。指先は機械的に動き、消費者の欲望を煽るための言葉を並べていく。
けれど、心の中は空っぽだった。
(私は、誰のために、何のために、自分の時間を切り売りしているんだろう)
ふと窓の外を見ると、予報通り雨が降り始めていた。
最初は細い糸のような雨だった。
それが次第に太くなり、街の景色を灰色に塗りつぶしていく。ビルを打つ雨音は、志帆の耳元で
「お前はどこにも行けない」
「お前は誰にも必要とされていない」
と囁いているようだった。
午後六時。定時を過ぎても、誰も帰ろうとしない。
志帆は限界だった。張り詰めた糸が、ぷつりと切れた。
「お先に失礼します」
周囲の驚くような視線を無視して、志帆はコートをひったくるようにしてオフィスを飛び出した。
エレベーターを待つ時間さえもどかしく、階段を駆け下りる。
一階のロビーを出た瞬間、激しい雨の匂いが鼻腔を突いた。
しまった、と思った。傘を持ってくるのを忘れていたのだ。
朝、あんなに健太に傘を持てと言った自分が、一番肝心な時にそれを持っていない。
自嘲的な笑いが込み上げてくる。
志帆は、ビルの深い庇(ひさし)の下に立ち尽くした。
アスファルトを叩く激しい雨音。行き交う人々は皆、色とりどりの傘を差し、自分の帰るべき場所へと急いでいる。
志帆だけが、その色彩の洪水から取り残され、無色透明な孤独の中にいた。
寒い。
五月の雨は、想像以上に志帆の体温を奪っていった。
腕をさすりながら、彼女は自分という存在の希薄さに、震えが止まらなくなった。
今、ここで自分が消えてしまったとしても、健太は気づくだろうか。
会社は困るだろうか。
明日になれば、別の誰かが私のデスクに座り、同じように消費者の欲望を言葉にするだけではないのか。
その時だった。
「……困っているようですね」
頭上から、低く、落ち着いた、それでいて深い湖の底を揺らすような声が降ってきた。
志帆は驚いて顔を上げた。
そこには、一人の男が立っていた。
仕立てのいいチャコールグレーのスーツ。整えられた髪に、理知的な眼鏡の奥で静かに光る、深い知性を湛えた瞳。
男は、大きな黒い傘を志帆の頭上までそっと差し出していた。
「あ……」
志帆の声は、雨音にかき消されるほど小さかった。
「同じビルでお見かけしたことがあります。八階の、法律事務所の桐島です」
男――桐島隆は、微かに微笑んだ。その微笑みは、志帆の凍てついた心を一瞬で溶かすような、不思議な温もりを持っていた。
「駅まで、お送りしましょうか。この雨では、タクシーも捕まらないでしょう」
普通なら、見知らぬ男の誘いに乗るはずなどなかった。
ましてや、自分は既婚者だ。
けれど、隆が差し出した黒い傘の内部は、外の世界の暴力的な雨音から守られた、聖域のように見えた。
「……すみません。お願いします」
志帆は導かれるように、彼の傘の下へと足を踏み入れた。
一歩、隆に近づく。
彼の体温が、雨の冷たさを跳ね返すように伝わってくる。
微かに漂う、上質なウッディな香水の匂い。
健太の使っている無味乾燥な柔軟剤の匂いとは違う、洗練された「男」の匂いだった。
「佐藤志帆……といいます。隣の広告代理店で……」
「知っていますよ。エレベーターで何度か、とても疲れた顔をしていらしたから」
隆の言葉に、志帆は心臓が跳ねるのを感じた。
(見られていた……。誰も私を見ていないと思っていたのに、この人は、私の疲れに気づいてくれていたの?)
二人は、雨の新宿を歩き出した。
傘が小さかったわけではない。
けれど、隆は志帆が濡れないようにと、極限まで彼女に寄り添って歩いていた。
志帆の肩と、隆の腕が、歩調を合わせるたびに軽く触れ合う。
その触れ合いが、志帆の全身に微弱な電流のような刺激を走らせた。
「雨は、嫌いですか?」
隆が問いかける。
「……嫌いでした。すべてを隠して、沈めてしまうから」
「僕は、好きですよ。雨が降れば、世界は少しだけ素直になれる気がする。傘という小さな屋根の下で、こうして誰かと肩を寄せ合う理由が、許されるでしょう?」
隆の声は、甘い毒のように志帆の耳から入り、脳裏を痺れさせた。
彼が何を言おうとしているのか。それが既婚者の自分にとって、どれほど危険な誘いなのか、志帆には分かっていた。
けれど、その毒を拒むことができなかった。
駅の入り口に辿り着いたとき、雨はさらに激しさを増していた。
「着きましたね」
隆が立ち止まり、傘を少しだけ傾けて志帆の顔を覗き込んだ。
暗い雨の中、彼の瞳だけが異常なほどの密度で志帆を見つめていた。
その視線は、彼女の服を透かし、肌に触れ、隠していた魂の叫びさえも暴き出そうとしているようだった。
「……ありがとうございました。助かりました」
志帆は足早に立ち去ろうとした。
けれど、隆が彼女の手首を、力強く、しかし驚くほど優しく掴んだ。
「志帆さん。……また、会えますか」
心臓が破裂しそうだった。
夫の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
静かなリビング、時計の音、冷え切った食事。
けれど、目の前にあるのは、自分という女を、今まさにこの瞬間に「再定義」しようとしている、熱く、鮮やかな予感だった。
「……はい」
志帆は、自分でも驚くほどはっきりとした声で答えていた。
隆の手が離れ、彼は最後にもう一度深く微笑むと、雨の雑踏の中へと消えていった。
一人残された志帆は、改札へ向かう階段を上りながら、自分の指先がまだ熱を帯びているのを感じていた。
五月の雨。
それは確かに、すべてを流し去っていった。
志帆の良識も、健太への微かな未練も、そして「正しい妻」でいようとした自分自身の殻さえも。
電車に乗り込み、窓に映る自分の顔を見た志帆は、そこに見たこともないような紅潮が宿っているのを知った。
破滅への入り口。けれど、そこから差し込む光は、死んだように生きていた志帆にとって、あまりにも眩しく、そして美しかった。
彼女は深く、震えるような吐息をついた。
物語は、この雨の夜から、もう後戻りできない場所へと動き始めていた。
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