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【第一部:背徳の蜜月】
第二章:心の揺らぎ…
あの日から、志帆の耳の奥には、常に雨の音が響いているような気がしていた。
五月の晴れ間は残酷なほどに明るく、オフィスビルの窓から差し込む陽光は、志帆の隠しきれない高揚を暴き出そうとしているようで落ち着かなかった。
デスクでキーボードを叩いていても、ふとした瞬間に、あの黒い傘の下で触れ合った隆の腕の熱さが、皮膚の記憶として蘇ってくる。
『明日の午後二時、ビルの裏手の裏路地にあるカフェで待っています。少しだけ、時間をいただけませんか』
隆から届いた短いメールを、志帆は何度読み返しただろうか。
仕事用のアドレスではなく、あの日駅の改札前で、震える手で交換した個人のアドレス。
「佐藤さん、顔色が悪いわよ。また残業続き?」
同僚の加奈に声をかけられ、志帆は反射的にスマートフォンの画面を伏せた。
「……そうね。少し、寝不足かも」
嘘をつくとき、声がわずかに上擦るのを自覚する。加奈の鋭い視線が、志帆の首筋に落ちているような気がして、彼女は慌てて髪をかき上げた。
自分は今、重大な裏切りを計画している。
その事実が、志帆の全身の神経を鋭敏に研ぎ澄ませていた。
翌日の午後二時。
志帆は「外回り」という名目でオフィスを抜け出した。
新宿の喧騒を離れ、ビルの合間を縫うようにして細い路地へ入る。
そこには、都会の喧騒から忘れ去られたような、蔦に覆われた古い喫茶店があった。
カラン、という乾いたドアベルの音が、現実世界との決別を告げる合図のように聞こえた。
「こちらです、志帆さん」
店の奥、薄暗い琥珀色の照明の下で、隆が立ち上がった。
今日は眼鏡を外している。
その剥き出しになった瞳は、あの日よりもさらに深く、志帆の輪郭をなぞるように見つめてきた。
「……お忙しいのに、すみません。無理をさせたのではないですか?」
「いえ。……私も、お会いしたかったから」
志帆は対面の椅子に腰を下ろした。テーブルを挟んで向き合うと、彼の放つウッディな香りが、一瞬で彼女を「あの日」の感覚へと引き戻した。
運ばれてきたコーヒーは、驚くほど苦かった。
けれど、その苦みが、自分の犯している罪の味のように思えて、志帆は逃げるようにそれを啜った。
「志帆さんは、お仕事がお好きですか?」
隆が唐突に問いかけた。
「好き……というよりは、止まれないだけかもしれません。止まってしまったら、自分がどこにもいないことに気づいてしまいそうで」
志帆は自分の言葉に驚いた。
夫である健太には、一度も話したことのない本音だった。健太に仕事の話をしようとすれば、
「疲れているのはお互い様だろう…」
という冷たい壁に突き当たるのが常だったからだ。
「分かりますよ。僕も同じです」
隆は、長い指先でカップの縁をなぞった。
「弁護士という仕事は、他人の人生の泥沼に足を踏み入れる仕事です。毎日、誰かの憎しみや悲しみを整理していると、自分自身の感情がどこにあるのか分からなくなる。……でも、あの日、雨の中に立つあなたを見た時、久しぶりに自分の心が動くのを感じたんです。守らなければならない、と」
「守る……?」
志帆は小さく首を振った。
「私は、そんなにか弱くありません。毎日、戦場で戦っているんですから」
「戦っているからこそ、傷ついている。その傷を隠すために、あなたは自分を透明にしようとしている。……違いますか?」
隆の言葉は、志帆が自分でも気づかないふりをしていた深淵を、正確に指し示していた。
二人の間に、密やかな沈黙が流れる。
店内に流れる古いジャズの旋律が、二人の共犯関係を祝福しているように思えた。
窓の外を通り過ぎる人々は、誰もこの薄暗い店内で、二人の男女が互いの魂を剥き出しにしようとしていることに気づかない。
「隆さんは……ご家族は?」
志帆は、禁断の問いを口にした。
隆の表情が、一瞬だけ翳った。
「……妻と、娘がいます。でも、家はただの『機能』でしかありません。食事を摂り、眠り、役割を演じる場所。そこに、僕という人間を必要としている温もりはない」
彼は自嘲的に笑った。
「勝手な言い分だと分かっています。恵まれているはずだと、自分でも言い聞かせてきた。でも、志帆さん、あなたに嘘はつきたくない。僕は、ずっと飢えていたんです。誰かと、心から触れ合うことに」
その言葉が、志帆の最後の防御壁を崩した。
「私も……私も同じです、隆さん」
志帆は、テーブルの上に置かれた隆の手を、思わず見つめた。
隆が、その手をゆっくりと伸ばし、志帆の指先に触れた。
指先から伝わってくる、熱。
健太に触れられるときのような、
義務感や拒絶感とは全く違う、魂が震えるような振動。
志帆は、自分の体温が急激に上昇していくのを感じた。
昼下がりの喫茶店。白日の下での密会。その背徳感が、かえって彼女の理性を麻痺させていく。
「今夜……」
隆が声を低めた。
「今夜、もう一度、お会いできませんか。仕事が終わった後で。場所は、どこでも構いません。あなたをもっと、知りたい」
志帆は、自分の良識が悲鳴を上げているのを聞いていた。
今、頷けば、もう二度と
「正しい世界」には戻れない。
健太との平穏な(しかし死んだような)日常は、音を立てて崩れ始めるだろう。
けれど、隆に見つめられたままの志帆の瞳は、すでにその破滅を熱望していた。
「……はい。八時に、西口の広場で」
店を出ると、外の空気は驚くほど乾燥していた。
志帆は、自分の頬が火照っているのを隠すように、足早にビルへと戻った。
オフィスに戻ると、いつものように健太から
「今日は遅くなる。夕飯はいらない」
という味気ないメールが入っていた。
以前なら、その一言に寂しさを覚え、一人で冷めた惣菜を食べる虚しさに溜息をついただろう。
けれど、今の志帆は違った。
そのメールを見て、彼女は心の底から安堵した。
(ありがとう、健太。私を放っておいてくれて)
夫への微かな嫌悪。
それが、罪悪感という名の重石を軽くしていく。
志帆はデスクに向かい、鏡で自分の顔をチェックした。瞳には、今までにないほどの生気が宿っている。
時計の針が、ゆっくりと、しかし確実に「八時」へと向かって刻まれていく。
志帆は、自分が一人の女として、再び産声を上げようとしているのを感じていた。
それは、五月の晴れ間の下に潜む、最も甘く、最も危険な罠だった。
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