雨音の記憶

Lapin

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​【第二部:破滅への階梯】

​第十章:泥濘に咲く毒花

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千葉の海岸沿い、あの貸別荘での一夜は、夜明けとともに無慈悲に幕を閉じた。

隆は、志帆の問いかけに一度も答えを返すことなく、ただ機械的な動作で車を走らせ、彼女を新宿の雑踏へと連れ戻した。

 「ここから先は、一人でいけるね」

 それが、志帆が愛した男の最後の言葉だった。

彼は車を停めると、志帆が降りるのを待たずにドアのロックを解除した。

背後に残された排気ガスの匂いが、彼との数ヶ月のすべてを象徴しているようで、志帆はその場に立ち尽くし、遠ざかる銀色のテールランプを見送った。

​ (終わったんだ……。本当の意味で、何もかも)

​志帆は、昨夜の情事の残り香が染み付いたボロボロのスーツの襟を立て、うつむきながら歩き出した。

 数日前まで、自分はこの街の一部だった。

広告代理店の第一線で働き、同僚と笑い、家庭という帰る場所があった。

けれど今の彼女は、行き交う人々にとって「存在しないもの」に等しい。

一歩、足を踏み出すごとに、恵子から突きつけられた言葉が、鋭い氷の礫(つぶて)となって志帆の心を切り刻む。

​ 『あなたの会社も、ご主人も、すでに私の掌の上にありますから』

​その言葉通り、志帆を待っていたのは、想像を絶する「現実」という名の泥濘だった。

まずはスマートフォンを修理し、電源を入れると、未読通知の嵐が彼女を襲った。

会社からの正式な解雇通知、健太の弁護士を名乗る人物からの受任通知、そして——。

​ (……実家から?)

​ 震える指で通話ボタンを押すと、母の泣き腫らしたような声が聞こえてきた。

 「志帆、あんた一体何をしたの……。今朝、知らない女の人から電話があって、あんたが不倫をして会社をクビになったって……。お父さん、怒りで倒れそうなのよ」

 「お母さん、私は……」

 「もういい。当分、家には帰ってこないで。あんたみたいな恥知らずな娘、親戚にも顔向けできないわ!」

​ツーツーという無機質な音が、志帆の最後の逃げ道を塞いだ。

恵子の報復は、単なる金銭的な要求ではなかった。

志帆の築き上げてきた人間関係、信頼、そして「佐藤志帆」という人間の尊厳そのものを、根こそぎ奪い去ること。

 それが彼女の目的だったのだ。

​志帆は、手持ちのわずかな現金で、場末のビジネスホテルに潜り込んだ。

壁の薄い、タバコの匂いが染み付いた狭い部屋。

そこが、かつて新宿のタワーマンションで暮らしていた女の、新しい「家」だった。

 ベッドに倒れ込み、志帆は天井を見つめた。

喉が焼け付くように乾いているのに、水の一杯を飲む気力すら湧かない。

​ 「泥濘……」

 自分の足元に広がる、真っ黒で、冷たい沼。

もがけばもがくほど、体は深く沈み込んでいく。

隆に裏切られた悲しみさえ、今は贅沢な感情に思えた。

今の志帆を支配しているのは、明日をどう生きるか、一時間後をどう耐えるかという、剥き出しの生存本能だけだった。

​その時、ホテルの部屋のドアの下から、一通の封筒が差し込まれた。

フロントからの伝言かと思い、志帆が重い体を引きずってそれを手に取ると、封筒には美しい筆致でこう書かれていた。

​ 『佐藤志帆様。泥濘の心地はいかがですか?』

​ 送り主の名はない。


だが、その文字から立ち上る高慢な香りで、志帆は直感した。

 恵子の追撃は、まだ終わっていないのだ。

ビジネスホテルの薄いドアの下から差し込まれた、差出人不明の封筒。

志帆はその白い縁を、まるで毒蛇に触れるかのような忌避感を抱きながら拾い上げた。

上質な紙の質感は、この安手のカーペットが敷かれた部屋にはあまりに不釣り合いで、そこから立ち上る微かな香水の匂いが、恵子の

「完璧な微笑み」

を志帆の脳裏に鮮烈に蘇らせた。

​『佐藤志帆様。泥濘の心地はいかがですか?』

​その挑発的な一文の後に記されていたのは、ある法律事務所の住所と、翌日の午後二時という指定時間だった。

 (まだ、奪うものがあるというの? 私から、これ以上何を……)

志帆はベッドの端に座り込み、その紙を握りしめた。

恵子の報復は、物理的な破壊だけでは飽き足らないのだ。

志帆が自尊心の欠片を繋ぎ合わせようとするたびに、それを土足で踏みにじり、徹底的に無力であることを分からせようとしている。

​翌日、志帆は重い体を引きずって指定の場所へ向かった。

鏡に映る自分は、数日前までの自分とは別人のようだった。

頬はこけ、瞳からは光が消え、纏っているスーツさえ借り物のようになじまない。

法律事務所の応接室で待っていたのは、恵子本人ではなく、彼女が雇ったと思わしき、冷徹な目をした年配の弁護士だった。

​ 「佐藤さん。本日は、桐島恵子様からの最終的な『提案』をお伝えに来ました」

弁護士は、慇懃無礼な態度で一枚の書類を突きつけた。

そこには、志帆が到底支払えるはずのない、天文学的な数字の慰謝料が並んでいた。

 「……こんな金額、今の私に払えるわけがないことは、奥様もご存知のはずです。会社も辞めさせられ、家も失った私に……」

 「ええ。ですから、恵子様はこう仰っています。『金で払えないのであれば、その身で示しなさい』と」

​弁護士が次に差し出したのは、ある地方都市の、名前も聞いたことがないような小さな介護施設のパンフレットだった。

 「ここでの住み込みの仕事を、恵子様が手配されました。給与の大部分は返済に充てられますが、住む場所と食事は保証されます。……ただし、今後一切、桐島隆氏、およびご主人の健太氏を含む、東京の知人すべてとの連絡を絶つことが条件です」

​志帆は、笑いが込み上げてくるのを止められなかった。

それは「救済」の形をした、一生終わることのない「監獄」への招待状だった。恵子は、志帆を死なせはしない。

その代わり、社会的な死を与え、二度と華やかな東京の空を見上げることができない場所へ、彼女を幽閉しようとしているのだ。

​ (隆さんは……隆さんは、これを知っているんですか?)

 喉まで出かかった問いを、志帆は飲み込んだ。

 聞く必要などなかった。

彼は今頃、恵子の隣で、良き夫としての役割を完璧に演じているはずだ。

自分の保身のために、志帆をこの暗い穴へ突き落とすことに、微かな躊躇も感じることなく。

​ 「……分かりました。お受けします」

志帆の声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。

 「賢明なご判断です。では、三日後に出発の手配をいたします」

​事務所を出ると、外はまた雨が降り始めていた。

あの五月の、すべてを狂わせた雨とは違う、骨の髄まで冷やすような氷雨。

 志帆は傘も差さず、雨の中に立ち尽くした。

けれど、その絶望の泥濘の底で、志帆の中に一つの、毒々しいほどに鮮やかな感情が芽生え始めていた。

​ (いいわ。望み通り、私は泥の中に沈んであげる。……でも、恵子さん。泥の中で咲く花が、どんなに毒々しいか、あなたはまだ知らないでしょう?)

​隆への愛は、死んだ。健太への申し訳なさも、雨に流された。

今の志帆を動かしているのは、自分を破壊した者たちへの、静かで、燃えるような激しい復讐心だけだった。

 泥濘に咲く毒花。

彼女は、自分を幽閉しようとするその「監獄」へ向かうことを決めた。

そこが、彼女が再び立ち上がるための、唯一の繭(まゆ)になると信じて。
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