10 / 10
【第二部:破滅への階梯】
第十章:泥濘に咲く毒花
しおりを挟む千葉の海岸沿い、あの貸別荘での一夜は、夜明けとともに無慈悲に幕を閉じた。
隆は、志帆の問いかけに一度も答えを返すことなく、ただ機械的な動作で車を走らせ、彼女を新宿の雑踏へと連れ戻した。
「ここから先は、一人でいけるね」
それが、志帆が愛した男の最後の言葉だった。
彼は車を停めると、志帆が降りるのを待たずにドアのロックを解除した。
背後に残された排気ガスの匂いが、彼との数ヶ月のすべてを象徴しているようで、志帆はその場に立ち尽くし、遠ざかる銀色のテールランプを見送った。
(終わったんだ……。本当の意味で、何もかも)
志帆は、昨夜の情事の残り香が染み付いたボロボロのスーツの襟を立て、うつむきながら歩き出した。
数日前まで、自分はこの街の一部だった。
広告代理店の第一線で働き、同僚と笑い、家庭という帰る場所があった。
けれど今の彼女は、行き交う人々にとって「存在しないもの」に等しい。
一歩、足を踏み出すごとに、恵子から突きつけられた言葉が、鋭い氷の礫(つぶて)となって志帆の心を切り刻む。
『あなたの会社も、ご主人も、すでに私の掌の上にありますから』
その言葉通り、志帆を待っていたのは、想像を絶する「現実」という名の泥濘だった。
まずはスマートフォンを修理し、電源を入れると、未読通知の嵐が彼女を襲った。
会社からの正式な解雇通知、健太の弁護士を名乗る人物からの受任通知、そして——。
(……実家から?)
震える指で通話ボタンを押すと、母の泣き腫らしたような声が聞こえてきた。
「志帆、あんた一体何をしたの……。今朝、知らない女の人から電話があって、あんたが不倫をして会社をクビになったって……。お父さん、怒りで倒れそうなのよ」
「お母さん、私は……」
「もういい。当分、家には帰ってこないで。あんたみたいな恥知らずな娘、親戚にも顔向けできないわ!」
ツーツーという無機質な音が、志帆の最後の逃げ道を塞いだ。
恵子の報復は、単なる金銭的な要求ではなかった。
志帆の築き上げてきた人間関係、信頼、そして「佐藤志帆」という人間の尊厳そのものを、根こそぎ奪い去ること。
それが彼女の目的だったのだ。
志帆は、手持ちのわずかな現金で、場末のビジネスホテルに潜り込んだ。
壁の薄い、タバコの匂いが染み付いた狭い部屋。
そこが、かつて新宿のタワーマンションで暮らしていた女の、新しい「家」だった。
ベッドに倒れ込み、志帆は天井を見つめた。
喉が焼け付くように乾いているのに、水の一杯を飲む気力すら湧かない。
「泥濘……」
自分の足元に広がる、真っ黒で、冷たい沼。
もがけばもがくほど、体は深く沈み込んでいく。
隆に裏切られた悲しみさえ、今は贅沢な感情に思えた。
今の志帆を支配しているのは、明日をどう生きるか、一時間後をどう耐えるかという、剥き出しの生存本能だけだった。
その時、ホテルの部屋のドアの下から、一通の封筒が差し込まれた。
フロントからの伝言かと思い、志帆が重い体を引きずってそれを手に取ると、封筒には美しい筆致でこう書かれていた。
『佐藤志帆様。泥濘の心地はいかがですか?』
送り主の名はない。
だが、その文字から立ち上る高慢な香りで、志帆は直感した。
恵子の追撃は、まだ終わっていないのだ。
ビジネスホテルの薄いドアの下から差し込まれた、差出人不明の封筒。
志帆はその白い縁を、まるで毒蛇に触れるかのような忌避感を抱きながら拾い上げた。
上質な紙の質感は、この安手のカーペットが敷かれた部屋にはあまりに不釣り合いで、そこから立ち上る微かな香水の匂いが、恵子の
「完璧な微笑み」
を志帆の脳裏に鮮烈に蘇らせた。
『佐藤志帆様。泥濘の心地はいかがですか?』
その挑発的な一文の後に記されていたのは、ある法律事務所の住所と、翌日の午後二時という指定時間だった。
(まだ、奪うものがあるというの? 私から、これ以上何を……)
志帆はベッドの端に座り込み、その紙を握りしめた。
恵子の報復は、物理的な破壊だけでは飽き足らないのだ。
志帆が自尊心の欠片を繋ぎ合わせようとするたびに、それを土足で踏みにじり、徹底的に無力であることを分からせようとしている。
翌日、志帆は重い体を引きずって指定の場所へ向かった。
鏡に映る自分は、数日前までの自分とは別人のようだった。
頬はこけ、瞳からは光が消え、纏っているスーツさえ借り物のようになじまない。
法律事務所の応接室で待っていたのは、恵子本人ではなく、彼女が雇ったと思わしき、冷徹な目をした年配の弁護士だった。
「佐藤さん。本日は、桐島恵子様からの最終的な『提案』をお伝えに来ました」
弁護士は、慇懃無礼な態度で一枚の書類を突きつけた。
そこには、志帆が到底支払えるはずのない、天文学的な数字の慰謝料が並んでいた。
「……こんな金額、今の私に払えるわけがないことは、奥様もご存知のはずです。会社も辞めさせられ、家も失った私に……」
「ええ。ですから、恵子様はこう仰っています。『金で払えないのであれば、その身で示しなさい』と」
弁護士が次に差し出したのは、ある地方都市の、名前も聞いたことがないような小さな介護施設のパンフレットだった。
「ここでの住み込みの仕事を、恵子様が手配されました。給与の大部分は返済に充てられますが、住む場所と食事は保証されます。……ただし、今後一切、桐島隆氏、およびご主人の健太氏を含む、東京の知人すべてとの連絡を絶つことが条件です」
志帆は、笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
それは「救済」の形をした、一生終わることのない「監獄」への招待状だった。恵子は、志帆を死なせはしない。
その代わり、社会的な死を与え、二度と華やかな東京の空を見上げることができない場所へ、彼女を幽閉しようとしているのだ。
(隆さんは……隆さんは、これを知っているんですか?)
喉まで出かかった問いを、志帆は飲み込んだ。
聞く必要などなかった。
彼は今頃、恵子の隣で、良き夫としての役割を完璧に演じているはずだ。
自分の保身のために、志帆をこの暗い穴へ突き落とすことに、微かな躊躇も感じることなく。
「……分かりました。お受けします」
志帆の声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
「賢明なご判断です。では、三日後に出発の手配をいたします」
事務所を出ると、外はまた雨が降り始めていた。
あの五月の、すべてを狂わせた雨とは違う、骨の髄まで冷やすような氷雨。
志帆は傘も差さず、雨の中に立ち尽くした。
けれど、その絶望の泥濘の底で、志帆の中に一つの、毒々しいほどに鮮やかな感情が芽生え始めていた。
(いいわ。望み通り、私は泥の中に沈んであげる。……でも、恵子さん。泥の中で咲く花が、どんなに毒々しいか、あなたはまだ知らないでしょう?)
隆への愛は、死んだ。健太への申し訳なさも、雨に流された。
今の志帆を動かしているのは、自分を破壊した者たちへの、静かで、燃えるような激しい復讐心だけだった。
泥濘に咲く毒花。
彼女は、自分を幽閉しようとするその「監獄」へ向かうことを決めた。
そこが、彼女が再び立ち上がるための、唯一の繭(まゆ)になると信じて。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
『愛が切なくて』- すれ違うほど哀しくて
設楽理沙
恋愛
砂央里と斎藤、こじれてしまった糸(すれ違い)がほどけていく様子を描いています。
◆都合上、[言う、云う]混合しています。うっかりミスではありません。
ご了承ください。
斉藤准一 税理士事務所勤務35才
斎藤紀子 娘 7才
毒妻: 斉藤淳子 専業主婦 33才 金遣いが荒い
高橋砂央里 会社員 27才
山本隆行 オートバックス社員 25才
西野秀行 薬剤師 22才
岡田とま子 主婦 54才
深田睦子 見合い相手 22才
―――――――――――――――――――――――
❧イラストはAI生成画像自作
2025.3.3 再☑済み😇
6年分の遠回り~いまなら好きって言えるかも~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。
まさかあの彼と、こんな関係になるなんて思いもしない。
今日は同期飲み会だった。
後輩のミスで行けたのは本当に最後。
飲み足りないという私に彼は付き合ってくれた。
彼とは入社当時、部署は違ったが同じ仕事に携わっていた。
きっとあの頃のわたしは、彼が好きだったんだと思う。
けれど仕事で負けたくないなんて私のちっぽけなプライドのせいで、その一線は越えられなかった。
でも、あれから変わった私なら……。
******
2021/05/29 公開
******
表紙 いもこは妹pixivID:11163077
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
元カノと復縁する方法
なとみ
恋愛
「別れよっか」
同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。
会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。
自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。
表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
愛のかたち
凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。
ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は……
情けない男の不器用な愛。
地味な私を捨てた元婚約者にざまぁ返し!私の才能に惚れたハイスペ社長にスカウトされ溺愛されてます
久遠翠
恋愛
「君は、可愛げがない。いつも数字しか見ていないじゃないか」
大手商社に勤める地味なOL・相沢美月は、エリートの婚約者・高遠彰から突然婚約破棄を告げられる。
彼の心変わりと社内での孤立に傷つき、退職を選んだ美月。
しかし、彼らは知らなかった。彼女には、IT業界で“K”という名で知られる伝説的なデータアナリストという、もう一つの顔があったことを。
失意の中、足を運んだ交流会で美月が出会ったのは、急成長中のIT企業「ホライゾン・テクノロジーズ」の若き社長・一条蓮。
彼女が何気なく口にした市場分析の鋭さに衝撃を受けた蓮は、すぐさま彼女を破格の条件でスカウトする。
「君のその目で、俺と未来を見てほしい」──。
蓮の情熱に心を動かされ、新たな一歩を踏み出した美月は、その才能を遺憾なく発揮していく。
地味なOLから、誰もが注目するキャリアウーマンへ。
そして、仕事のパートナーである蓮の、真っ直ぐで誠実な愛情に、凍てついていた心は次第に溶かされていく。
これは、才能というガラスの靴を見出された、一人の女性のシンデレラストーリー。
数字の奥に隠された真実を見抜く彼女が、本当の愛と幸せを掴むまでの、最高にドラマチックな逆転ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
