雨音の記憶

Lapin

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​【第二部:破滅への階梯】

​第九章:共犯者の逃避行

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恵子という「正義」に完膚なきまでに叩きのめされた志帆は、ホテルのラウンジを出た後、自分がどの方角へ歩いているのかさえ分からなくなっていた。

視界に入る新宿の街並みは、まるでピントの合わない古い映画の背景のように歪み、音のない世界が彼女を包み込んでいた。

手に持ったスマートフォンの画面には、恵子から突きつけられた現実が、消えない火傷の痕のように焼き付いている。

​ (仕事も、夫も、そして誇りさえも……私はすべてを失った。あの雨の日、あの傘に入った代償がこれなの?)

​呆然と立ち尽くす彼女の前に、一台の銀色のセダンが滑り込んできた。

窓が開き、そこから顔を覗かせたのは、今この瞬間に世界で最も憎み、そして最もその温もりを求めていた男――桐島隆だった。

 「志帆さん、乗りなさい。こんなところで倒れられたら困る」

「困る」という言葉の響きに、志帆は凍りつくような寒さを感じた。

彼は自分の心配をしているのではない。自分のキャリアや世間に、これ以上の傷がつくことを恐れているのだ。

だが、今の志帆には、その毒を含んだ救いの手にさえ縋るしか、生きる術が残されていなかった。

​助手席に滑り込むと、車内には隆がいつも愛用しているウッディな香水の匂いが充満していた。

かつては志帆を陶酔させたその香りが、今は吐き気を催すほどに重苦しい。

隆は一言も発さず、ただ前を見据えてアクセルを踏んだ。

​車は無言のまま、夕闇が迫る首都高速道路を北へとひた走った。

 「……恵子から、すべて聞いたわ」

志帆の声は、自分でも驚くほど低いト―ンで、枯れていた。

隆はハンドルを握る手に力を込め、指の関節が白く浮き出るほどに強く握りしめた。

 「……済まない。ああするしかなかったんだ。恵子は本気だった。彼女の背後には政財界との繋がりがある。僕が君を守ろうとすれば、僕も、そして君も、この社会から文字通り『抹殺』されることになっていた」

​ 「だから、私のことを『退屈な女』だと、そう言ったの?」

志帆が向けた視線は、隆の横顔を鋭く射抜いた。

 「……言葉はどうあれ、結果として君の命を救ったつもりだ。恵子は君の会社にも、健太さんの実家にも手を回している。僕が君との関係を完全に否定し、君を『加害者』として差し出さなければ、事態はもっと悪化していた。君は、彼女の恐ろしさを分かっていない」

​救った、という言葉が志帆の耳の中で狂ったように反響した。

彼は自分を守るために、志帆を「生贄」として差し出したのだ。

そして今、こうして車を走らせているのも、彼女への愛ゆえではなく、最後に自分の良心を慰めるための「アリバイ作り」に過ぎないのではないか。

志帆は、笑いが込み上げてくるのをどうしても止められなかった。

 狂気じみた、乾いた笑いだ。

 「隆さん、あなたは本当に素晴らしい弁護士ね。自分の罪を他人に擦り付け、最後には『救済者』の顔をして現れるなんて。ねえ、教えて。奥さんの前で私を貶めていた時、どんな気分だった? 少しは心が痛んだ?」

​ 「志帆、やめてくれ」

 隆の声に、初めて苛立ちと焦燥が混じった。

 「やめないわよ。私はもう、失うものなんて何もないの。あなたは、自分の地位と家柄を守るために、私との思い出をゴミ箱に捨てた。その指先で、私に触れながら、心の中では『早く終わらせたい』と思っていたんでしょう?」

​高速道路の街灯が、一定の周期で車内を照らしては闇に沈めていく。

その明滅の中で、隆の横顔は冷徹な彫刻のようでもあり、追い詰められた罪人のようでもあった。


 「今夜が、最後だ。明日の朝、君を東京へ送り届けたら、僕たちは二度と会わない。それが、恵子と交わした唯一の条件だ。……最後に、一度だけ二人きりで話がしたかった」

​ 「話? まだ、私に吐かせる嘘が残っているの?」

 志帆はシートに深く背中を預け、目を閉じた。

涙は出なかった。ただ、胸の奥が冷え切り、感情という名の神経が一本ずつ焼き切れていくような感覚だけがあった。

​車は都心を離れ、潮の匂いが混じる暗い海沿いの道へと入っていく。

 目的地がどこなのか、志帆は尋ねなかった。

どこへ連れて行かれようと、明日の朝には彼女の人生に夜明けが来ないことを、彼女は痛いほどに理解していたからだ。

車が辿り着いたのは、千葉の海岸沿いに建つ、ひどく古びた貸別荘だった。

周囲には民家もなく、ただ荒れ狂う波の音が、闇の中から獣の咆哮のように響いている。

隆は無言で車を降り、志帆を促した。建物の鍵を開ける彼の手元は、心なしか焦っているように見えた。

​部屋に入り、明かりも点けずに、二人は暗闇の中に立ち尽くした。

湿った海風が、建物の隙間から入り込み、志帆の頬を撫でる。

 「ここなら、誰にも見られない。恵子の監視も、ここまでは届かないはずだ」

隆が背後から志帆を抱き寄せた。その腕の力強さは、救済というよりも、逃げ場を失った男の執着だった。

​ 「……どうして、そんな嘘を吐くの?」

 志帆は、隆の胸の中で呟いた。

 「監視が届かない? 違うでしょう。あなたは、私との決別を完璧にするために、この誰もいない場所を選んだだけよ。夜が明けたら、私をここに捨てていくために」

 「志帆、そんな風に言わないでくれ……」

 隆の唇が、志帆の項に押し当てられる。

かつては熱く、情熱的に感じられたその愛撫が、今は皮膚の上を冷たい粘土が這っているような不快感をもたらした。

​ 志帆は、隆を突き放さなかった。

むしろ……、彼のシャツを千切れんばかりに掴み、力任せに引き寄せた。

 「抱いて……。あなたが私を『退屈な女』だと切り捨てたその体で、最後にもう一度だけ、私を壊して。私をこんな地獄に突き落とした責任を、この一晩で取ってよ」

​二人は、荒々しく、そして虚しい契りを結んだ。

それは愛の言葉を交わし合うような、穏やかなものではなかった。

互いの肉体を武器にして、相手の魂を抉り出すような、絶望的な格闘だった。 

隆の指先が志帆の肌を辿るたび、彼女は自分が「一時の玩具」として消費されていることを痛感し、同時に、その屈辱的な快楽に溺れる自分自身に、激しい殺意を抱いた。

​ 「志帆……愛している……信じてくれ……」

隆が喘ぐように囁く言葉。それが真実か嘘かなど、もはやどうでもよかった。

たとえそれが、保身のために塗り固められた精巧な嘘であっても、この瞬間に伝わってくる肉体の熱だけが、彼女をこの世に繋ぎ止めている唯一の錨だったからだ。

​隆の動きが止まり、静寂が訪れた後、志帆は暗い天井を見つめたまま、低く笑った。

 「隆さん、知ってる? あなたに抱かれている間、私はずっと、あなたの奥さんの顔を思い出していたわ。彼女が言った通りよ。あなたは、ただの臆病者。自分の地位を守るために、私との思い出をゴミ箱に捨てた、卑怯な男」

​ 隆の体が、志帆の上で凍りついた。

 「……君は、僕を一生恨むんだろうな」

 「ええ、一生よ。でも、感謝もしているわ。あなたが私をどん底に落としてくれたおかげで、私はようやく気づけた。私が愛していたのは、あなたという人間じゃなくて、あなたが見せてくれた『都合のいい夢』だったんだって」

​ 志帆は隆を退け、ベッドの上に起き上がった。

窓の外では、雷鳴が轟き、激しい雨が窓を叩きつけていた。

五月の雨とは違う、重く、粘りつくような夏の終わりの雨。

隆は、もはや志帆の目を見ることができなかった。彼は自分の服を拾い集め、逃げるように洗面所へと消えた。

​ (さよなら、私の光。さよなら、私の地獄)

​夜が明ければ、隆は再び「完璧なエリート弁護士」という面を被り、恵子の待つ「桐島家」という名の安全な城へと戻っていくだろう。

そして志帆は、名前も、地位も、愛した記憶さえも泥濘に沈めたまま、一人で荒野を歩き始めなければならない。

共犯者の逃避行は、あまりにも短く、あまりにも惨めで、そして永遠に癒えることのない傷跡を、志帆の心に深く、深く刻み込んで幕を閉じた。

​雨音は、いつの間にか静かな霧雨へと変わっていた。

だが、志帆の心に降り注ぐ雨が止むことは、この先、一生ないのだということを、彼女は冷徹に悟っていた。

志帆は、隆の残したタバコの匂いが染み付いたシーツに、最後の一瞥をくれ、窓の外の暗い海を見つめ続けた。
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