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【第二部:破滅への階梯】
第八章:仮面の告白
しおりを挟む新宿中央公園のベンチで迎えた夜明けは、志帆の人生で最も白々しく、そして残酷なものだった。
朝靄の向こうから昇る太陽は、彼女のボロボロになったスーツの汚れや、隠しきれない目の下の隈を無慈悲に照らし出す。
行き場のない孤独と、冷え切った体。
志帆は、自分がかつて「キャリアウーマン」として颯爽と歩いていたこの街が、これほどまでに冷淡な石の塊であったことを初めて知った。
切れたスマートフォンの電池を求めて、彼女は早朝から営業している喫茶店に駆け込んだ。
震える手で充電器を繋ぎ、画面が再び光を灯すのを祈るような思いで見つめる。
(隆さん、お願い。一度でいいから、声を聞かせて……)
だが、起動した端末に真っ先に届いたのは、隆からの着信でも、健太からの謝罪でもなかった。
『初めまして。桐島の家内の恵子と申します。……主人からは、すべてお聞きしました。一度、静かな場所でお話しできませんか。逃げても無駄ですよ。あなたの会社も、ご主人も、すでに私の掌の上にありますから』
突然心臓が、氷の楔を打ち込まれたように凍りついた。
隆からすべてを聞いた? そんなはずはない。
彼は「僕が解決する」と言ったのだ。だが、メールに添えられた住所は、都内でも有数の高級ホテルのラウンジだった。
志帆には、拒否する権利も、逃げ出す力も残っていなかった。
彼女は鏡の前で乱れた髪を整え、薄く口紅を引いた。それは、これから始まる処刑台に向かうための、せめてもの武礼だった。
指定されたラウンジは、高い天井から豪奢なシャンデリアが吊り下がり、外界の喧騒を完全に遮断していた。
一番奥の、視線が届かないボックス席。そこに座っていた女性は、志帆が想像していた「狂乱した被害者」とは正反対の人物だった。
隙のない濃紺のワンピースを纏い、一筋の乱れもない夜会巻きに結い上げた髪。
桐島恵子は、磁器のように滑らかな肌に
「完璧な微笑み」
を貼り付けて、志帆を待っていた。
「座りなさいな、佐藤志帆さん。お疲れのようね」
恵子の声は、鈴を転がすように清らかで、それゆえに狂気を孕んでいた。
志帆が椅子に腰を下ろすと、恵子は優雅な所作で紅茶を一口啜り、ゆっくりと一枚の書類を差し出した。
「これは……」
「慰謝料の請求書。そして、あなたが会社を辞めるための退職合意書よ。主人と私の弁護士が、昨夜のうちに作成しました」
「隆さんが……これを作ったんですか?」
志帆の声が、情けなく震える。恵子は、憐れみすら含んだような瞳で志帆を見つめた。
「主人はね、志帆さん。とても臆病な人なの。彼は自分を高く評価してくれる場所と、自分の地位を守ってくれる盾が何よりも大切。あなたとの遊びが露見した瞬間、彼は真っ先に私の足元に跪いて、こう言ったわ。『あの女がしつこく誘ってきた。僕は断りきれなかっただけだ』とね」
「嘘……嘘よ!」
「嘘かしら? じゃあ、どうして彼はあなたの電話に出ないの? どうして今、私の隣にいないの? 彼はね、あなたの会社の上司ともすでに話をつけたわ。自分のキャリアを汚さないために、すべての責任をあなた一人に押し付けて、自分は『被害者』として立ち回ることにしたのよ。それが、あなたが命を懸けて愛した男の正体よ」
恵子の言葉は、鋭いメスのように志帆の心臓を刻んでいった。
隆は、自分を守ってくれたのではなかった。
自分を盾にして、自分の保身を図ったのだ。
五月の雨の中、差し出されたあの傘は、志帆を救うためのものではなく、彼女を自分の代わりに嵐に晒すための生贄の印だったのだ。
「主人は、私という『富』と『家柄』を捨てることはできない。あなたは、ただの暇つぶしの玩具に過ぎなかった。それを、運命だなんて勘違いして……滑稽だわ、志帆さん」
恵子の微笑みが、さらに深まる。
「主人は私に、あなたのことを『名前も思い出せないような、退屈な女だった』と言ったわ。その言葉、信じられるかしら?」
志帆は、視界が真っ暗になるのを感じた。
健太を捨て、仕事を失い、すべてを捧げた愛の結末が、これだった。
「……殺して。いっそ、殺して……」
「殺す? そんな勿体ないことはしないわ。あなたは、これから一生、自分が信じた愛がただのゴミだったという記憶と共に、惨めに生き続けるの。それが、私の選んだ、最高の報復よ」
恵子は立ち上がり、テーブルの上に一万円札を一枚置いた。
「紅茶代よ。……あ、そうそう。ご主人の健太さんには、私から直接お詫びを伝えておきました。彼は、あなたに二度と会いたくないそうよ。離婚届は、後日郵送されるから、速やかに判を押しなさい」
恵子が去った後、志帆は冷え切った紅茶を眺めながら、ただ呆然と座り続けていた。
ラウンジの外では、皮肉なほどに澄み渡った青空が広がっている。
だが、志帆の世界には、もう二度と雨は止まない。……そんな、思いに縛られていた。
彼女を包んでいた甘い幻想は、恵子の冷徹な「仮面の告白」によって、粉々に砕け散ったのだ。
志帆は、震える指で退職合意書を掴んだ。
(私は……私は、最初から一人だったんだ……)
隆という名の影を追いかけ、泥濘の中に沈んでいった自分。
失速し、迷走した末に辿り着いたのは、出口のない、真っ白な虚無の世界だった。
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