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【第一部:背徳の蜜月】
第七章:孤立無援の夜
どこで、道を違えたのだろう。
新宿駅西口の雑踏を抜け、冷たい夜風が吹き抜ける中央公園へと向かう道すがら、志帆は何度もその問いを頭の中で繰り返していた。
手に提げたボストンバッグは、数時間前に健太から投げつけられた「事実」の重みよりも、ずっと軽く、そして虚しかった。
夜の公園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
街灯が落とす長い影が、志帆の孤独を縁取っていた。
彼女は、かつて隆と歩いた華やかな並木道とは対照的な、暗いベンチに腰を下ろした。
スマートフォンを取り出し、画面を点ける。電池の残量は残りわずか五パーセント。
その数字は、彼女に残された「社会との繋がり」のカウントダウンのように見えた。
(隆さん……どうして、出てくれないの……)
隆に送った幾十ものメッセージは、未だに既読にさえならない。
『すべて、私が解決します』
あの時、彼は確かにそう言った。
その言葉を信じて、志帆は夫を裏切り、家庭を壊し、積み上げてきた日常をすべて投げ打ったのだ。
けれど、いざ嵐が直撃した時、彼女を守るはずの「傘」は、どこにもなかった。
志帆は、自分が隆にとって「便利な女」に過ぎなかったのではないかという疑念に、心臓を鷲掴みにされた。
彼には、地位も、名誉も、そして守るべき家族がある。
一方で志帆は、彼に溺れた末に職場を追われ、家さえも失った。
不倫という共犯関係において、その代償はあまりにも不平等だ。
隆の沈黙は、彼が自分自身の生活を最優先し、志帆という「異物」を切り捨てようとしている証拠ではないのか。
「……嘘つき」
乾いた唇から、独り言が漏れた。
同時に、猛烈な自己嫌悪がせり上がってくる。隆を責める資格など、自分にあるのだろうか。
健太の誠実さを踏みにじり、五月の雨を言い訳にして、自分の渇望を正当化したのは他ならぬ自分自身だ。
健太が、パスタを作って待っていたあの夜。彼が見せた微かな歩み寄りを、自分は冷酷に切り捨てた。
あの時、もし自分が踏みとどまっていれば。
もし、あの雨の日に隆の傘に入らなければ。
後悔は、遅すぎた。
深夜の公園を通り過ぎる若者たちの笑い声が、志帆の耳を劈(つんざ)く。
彼らにとって、この夜は楽しい冒険の続きかもしれない。
けれど、志帆にとってのこの夜は、自分の人生が「間違い」であったことを突きつけられる、終わりのない審判だった。
ふと、スマートフォンの画面が消えた。電池が切れたのだ。
視界から文明の光が消え、完全な闇が訪れた。志帆は自分が、いかに危ういバランスの上に立っていたかを思い知らされた。
誰かに認められたい、誰かに必要とされたいという飢餓感が、彼女をここまで連れてきた。
けれど、その結果手に入れたのは、誰にも頼れず、誰にも助けを呼べない、完全な孤立だった。
寒い……。
五月の風は、想像以上に志帆の体温を容赦なく奪っていく。
彼女はボストンバッグを抱きしめ、膝を折って丸まった。
(隆さん、嘘だと言って。今すぐ、あの黒い傘を差して、私を迎えに来て……)
脳裏に浮かぶのは、あのホテルの温かな照明と、隆の耳障りのいい囁き。
けれど、今の彼女を包んでいるのは、冷たいコンクリートの感触と、カラスの鳴き声だけだった。
どれだけの時間が経っただろうか。
遠くで始発列車の音が聞こえ始めた。
夜明けが近い。
けれど、夜が明ければ、志帆にはさらなる現実が待ち構えている。
会社への説明、健太との離婚協議、そして……隆の妻、恵子からの本格的な追求。
「失速、そして迷走へ」
――その言葉通り、彼女の人生はコントロールを失い、真っ暗な崖下へと転落し続けていた。
志帆は重い体を動かし、ベンチからゆっくり立ち上がった。
足元がふらつく。
目の前の景色が、涙で歪んで見えた。
「……行かなきゃ」
どこへ? それは分からない。
けれど、いつまでもここに留まっていても、誰も救いには来ない。
彼女は自分の犯した罪を、この身ひとつで引き受け、歩き続けるしかないのだ。
朝靄(あさもや)の中、新宿の街が再び動き出そうとしていた。
無数の人々が、それぞれの日常へと戻っていく。
志帆だけが、その輪の中から弾き飛ばされ、たった一人の「孤立無援の戦い」へと、ボロボロの体を引きずって進んでいった。
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