社畜のお仕事!本日も晴天なり✨

Lapin

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​第一部:オフィス侵攻編

第十一話:パッションと精算書

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オフィスビルの自動ドアが開いた瞬間、白熱した外気とは異なる、淀んだ空気が綺羅々の肺を侵食した。

 特に部長のデスク周辺から漂う、あの…

「安っぽいバニラと加齢臭が混ざったようなコロン」の臭い。

それが、二日酔いで脆弱になった彼女の胃壁を直接、暴力的に揺さぶる。

​(……最悪。世界が、三、四ピクセルくらい左右にズレてる……)

​ 二日酔いの脳裏では、昨夜、ストロング缶を片手にハムスターの福へぶちまけた、支離滅裂な愚痴が無限ループ(ノイズ)のように再生されていた。

「Excelの関数は嘘をつかないのに、どうして人間はパッションなんていう未定義の変数で生きていけるの?」

――。そんな昨夜の醜態を思い出すたび、喉の奥に苦い酸がせり上がってくる。

​「南野くん、おはよう! 今日もいいパッションだねぇ! 昨日の権藤さんの件、君の不手際を僕が上手くフォローしておいたから、もう安心したまえ。ハハハ!」

​ 出社するなり、部長がどの口で言っているのか分からない台詞を、フロア中に響き渡る声で吐き散らす。

その声の振動さえ、今の綺羅々には耳元で鳴らされる工事現場のドリルのように不快だった。

​ 綺羅々は、コンシーラーを三層に塗り固め、表情筋のすべてを一時停止(フリーズ)させた「鉄壁の無表情」を維持したまま、一枚の書類を部長のデスクの中央、一番目立つ場所に置いた。

​「おはようございます、部長。……パッションを語るより先に、まずはこちらの『過年度精算書』をご確認いただけますか?」

​「精算書? そんなもの、君が適当に判子を押して経理に回しておけばいいだろ。僕は今、次の大型案件のスキームをパッションで構築している最中なんだ」

​「いいえ。経理に回す前に、部長の『記憶のデバッグ』が必要です。……ここに記載された先月のタクシー代。乗車地点が『六本木』、降車地点が『部長のご自宅付近』、時刻は午後十時十五分になっていますが……」

​ 綺羅々はそこで言葉を切り、無機質な視線を部長の鼻の頭に固定した。

​「……同時刻。部長は社内で、残業の退勤打刻をされていますよね? ログによれば、部長が会社を出たのは午後十時三十分。……幽体離脱でもしていない限り、このタクシーの領収書と部長の行動履歴は、致命的な整合性エラーを起こしています」

​ フロアの空気が、一瞬で絶対零度まで凍りついた。

 隣のデスクで「パッション」の被害を避けるべく息を潜めていた犬飼が、飲んでいたお茶を吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる。

 カタカタと鳴っていたキーボードの音も、一つ、また一つと消え、同僚たちの耳は、部長のデスクへと全神経を集中させていた。

​「な、なんだ。……それは、その、ただの入力ミスだよ! 昨日はパッションが昂じすぎて、つい退勤ボタンを押し忘れてね。ハハ、よくあることじゃないか!」

​「……部長。事務職にとって、打刻は『存在の証明』であり、聖域です。それが捏造されているということは、この領収書に記載された四千八百円は、部長の熱意の対価ではなく、単なる『会社の資産の不当な流用(エラー)』、もっと直接的に申し上げれば『横領』に当たりますが……?」

​ 綺羅々は、胃からせり上がる吐き気を冷徹な意志の力で抑え込み、脂ぎった部長の顔を真正面から射抜いた。その瞳は、まるで不備のあるセルを見つけ出し、無慈悲にバックスペースキーを叩く瞬間の、あの冷たい輝きを宿していた。

​「修正(デリート)されますか? それとも、私のこの手で、この不整合(バグ)を監査室と社長室へ『直通』で報告いたしましょうか?」

​ 部長の顔から、パッションという名の赤みが急速に引き、代わって土気色の恐怖が広がっていく。

 周囲の社員たちが、息を呑んでこの「公開処刑」の結末を待っていた。部長が、デスクの上で握りしめた拳が、小刻みに震えている。

​「……修正、する。……今すぐ、精算を取り消すよ。……悪かったね、南野くん。僕のパッションが、少し空回りしたようだ」

​ 消え入るような部長の声。

 綺羅々は、まるで加湿器のフィルターに溜まった黒カビを一気に洗浄した後のような、清々しい……とは程遠い、酒焼けした喉の痛みと不快感を抱えながら、口角をミリ単位で釣り上げた。

​「本日も、晴天なり。……さて犬飼くん、次は公園で『おにぎり』の毒味……失礼、午後のデータ集計に向けた栄養補給に行くわよ。部長、残りの書類も、就業時間内に『正常化』しておいてくださいね」

​ フラつく足取りをモデルのようなウォーキングに偽装し、彼女は背後に凍りついた部長を置き去りにして、エレベーターへと向かった。

 その背中に、犬飼の「……すごすぎる」という呟きと、同僚たちの「ざまぁみろ」という沈黙の喝采が突き刺さっていた。
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