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第一部:オフィス侵攻編
第十三話:真空のオフィスと、黄金の種
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オフィスに戻ると、そこには奇妙な「静寂」が横たわっていた。
つい一時間前まで、部長の「パッション」という名の怒号が響いていた場所には、今や主を失ったデスクと、出しっぱなしにされた「バニラ臭いコロン」の瓶だけが取り残されている。
周囲の社員たちは、画面に向かって熱心にタイピングしているフリをしながら、その実、全員の意識が中央の「空席」へと向けられていた。組織という名の巨大なシステムから、一つの巨大な「バグ」が物理的に取り除かれた直後の、あの特有の不安定な真空状態だ。
「……南野先輩。部長、本当に戻ってきませんでしたね」
犬飼が、声を潜めて隣から話しかけてくる。彼の瞳には、上司を失った不安よりも、目の前の「コンシーラーの魔術師」に対する、畏怖に近い何かが宿っていた。
「犬飼くん。自然界でも、空白は必ず何かで埋められるわ。……それが更なるバグなのか、あるいはシステムのアップグレードなのか。今はまだ、解析(スキャン)中よ」
綺羅々はそう言いながら、部長のデスクに残されたコロンの瓶を、事務用の除菌シートでつまみ上げた。そのまま、迷うことなくゴミ箱へと投下する。
ポイ、という軽い音が、静かなフロアに意外なほど大きく響いた。
「……あ、先輩。それ、いいんですか? 一応、部長の私物じゃ……」
「ゴミの定義を知ってる? 犬飼くん。……それは、『そこにあるべきではない、整合性を欠いた物質』のことよ。あんな悪臭を放つノイズを放置しておくのは、フロア全体の生産性に対する冒涜だわ」
彼女は、二日酔いの頭痛がようやく引き始めた脳をフル回転させ、次なる「数値」を計算していた。部長という重石が取れたことで、保留にされていた数々の案件が、今この瞬間も彼女の元へと雪崩れ込もうとしている。
午後からの彼女の指先は、さながら千手観音のようにキーボードを叩き、不要な経費を削り、曖昧な契約条項を論理の刃で切り裂いていった。
そして、定時。
綺羅々は、誰よりも早く、流れるような動作で荷物をまとめ、タイムカード(存在の証明)を打刻した。
「本日も、晴天なり。……さ、帰るわよ」
オフィス街の喧騒を抜け、彼女が向かったのはスーパーのペット用品売り場だった。
「……今日は特別。……お祝いだからね」
手に取ったのは、普段なら絶対に買わない、一袋八百円もする『最高級・大粒ひまわりの種(オーガニック仕立て)』。
安アパートのドアを開けるなり、彼女は再びパンプスを蹴り飛ばし、フローリングに転がった。
「……おーい、福……。祝杯だぞぉ……」
這い上がったキッチンで、昨夜よりも強力な「ストロング系ロング缶」をプシュリと開ける。つまみは、冷凍庫の奥で霜が降りていた「いつの物か分からない春巻き」。皿に出すのももどかしく、レンジで温めて、キッチンペーパーの上に直置きだ。
彼女は、黄金色の種を福のゲージの前に供え、自分も冷えたアルコールを喉に流し込んだ。
「福……聴けよ……。今日、ついにあの『バニラ臭』をデリートしてやったんだ。……すごいでしょ? 褒めろよ。ひまわりの種、うまいだろ? それ、私の残業代の一部なんだからな……」
福は、突如として現れた「黄金の種」に目を輝かせ、無心に頬袋へ詰め込んでいる。
綺羅々は、半開きの口から春巻きの脂を滴らせながら、そんなハムスターの様子を、溶けかけたメイクの奥にある「本物の死んだ目」で見つめていた。
「……いいよなぁ。……お前は、判子もつかなくていいし、領収書の整合性も取らなくていい。……明日から、誰が私の新しい『バグ』になるんだろうな……」
酔いが回るにつれ、昼間の冷徹さはどこかへ消え、ただの「疲れた二十八歳」がそこに取り残される。
春巻きの皮の破片が、ストロング缶の淵に付着している。
拭き取る気力はない。
彼女は、そのままフローリングの冷たさを枕に、深い、深い、泥のような眠りへと落ちていった。
つい一時間前まで、部長の「パッション」という名の怒号が響いていた場所には、今や主を失ったデスクと、出しっぱなしにされた「バニラ臭いコロン」の瓶だけが取り残されている。
周囲の社員たちは、画面に向かって熱心にタイピングしているフリをしながら、その実、全員の意識が中央の「空席」へと向けられていた。組織という名の巨大なシステムから、一つの巨大な「バグ」が物理的に取り除かれた直後の、あの特有の不安定な真空状態だ。
「……南野先輩。部長、本当に戻ってきませんでしたね」
犬飼が、声を潜めて隣から話しかけてくる。彼の瞳には、上司を失った不安よりも、目の前の「コンシーラーの魔術師」に対する、畏怖に近い何かが宿っていた。
「犬飼くん。自然界でも、空白は必ず何かで埋められるわ。……それが更なるバグなのか、あるいはシステムのアップグレードなのか。今はまだ、解析(スキャン)中よ」
綺羅々はそう言いながら、部長のデスクに残されたコロンの瓶を、事務用の除菌シートでつまみ上げた。そのまま、迷うことなくゴミ箱へと投下する。
ポイ、という軽い音が、静かなフロアに意外なほど大きく響いた。
「……あ、先輩。それ、いいんですか? 一応、部長の私物じゃ……」
「ゴミの定義を知ってる? 犬飼くん。……それは、『そこにあるべきではない、整合性を欠いた物質』のことよ。あんな悪臭を放つノイズを放置しておくのは、フロア全体の生産性に対する冒涜だわ」
彼女は、二日酔いの頭痛がようやく引き始めた脳をフル回転させ、次なる「数値」を計算していた。部長という重石が取れたことで、保留にされていた数々の案件が、今この瞬間も彼女の元へと雪崩れ込もうとしている。
午後からの彼女の指先は、さながら千手観音のようにキーボードを叩き、不要な経費を削り、曖昧な契約条項を論理の刃で切り裂いていった。
そして、定時。
綺羅々は、誰よりも早く、流れるような動作で荷物をまとめ、タイムカード(存在の証明)を打刻した。
「本日も、晴天なり。……さ、帰るわよ」
オフィス街の喧騒を抜け、彼女が向かったのはスーパーのペット用品売り場だった。
「……今日は特別。……お祝いだからね」
手に取ったのは、普段なら絶対に買わない、一袋八百円もする『最高級・大粒ひまわりの種(オーガニック仕立て)』。
安アパートのドアを開けるなり、彼女は再びパンプスを蹴り飛ばし、フローリングに転がった。
「……おーい、福……。祝杯だぞぉ……」
這い上がったキッチンで、昨夜よりも強力な「ストロング系ロング缶」をプシュリと開ける。つまみは、冷凍庫の奥で霜が降りていた「いつの物か分からない春巻き」。皿に出すのももどかしく、レンジで温めて、キッチンペーパーの上に直置きだ。
彼女は、黄金色の種を福のゲージの前に供え、自分も冷えたアルコールを喉に流し込んだ。
「福……聴けよ……。今日、ついにあの『バニラ臭』をデリートしてやったんだ。……すごいでしょ? 褒めろよ。ひまわりの種、うまいだろ? それ、私の残業代の一部なんだからな……」
福は、突如として現れた「黄金の種」に目を輝かせ、無心に頬袋へ詰め込んでいる。
綺羅々は、半開きの口から春巻きの脂を滴らせながら、そんなハムスターの様子を、溶けかけたメイクの奥にある「本物の死んだ目」で見つめていた。
「……いいよなぁ。……お前は、判子もつかなくていいし、領収書の整合性も取らなくていい。……明日から、誰が私の新しい『バグ』になるんだろうな……」
酔いが回るにつれ、昼間の冷徹さはどこかへ消え、ただの「疲れた二十八歳」がそこに取り残される。
春巻きの皮の破片が、ストロング缶の淵に付着している。
拭き取る気力はない。
彼女は、そのままフローリングの冷たさを枕に、深い、深い、泥のような眠りへと落ちていった。
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